今年7月、谷村新司のチャリティーコンサートを鑑賞するため、おひとりで外出された美智子さま

 10月20日に88歳の「米寿」を迎えられる美智子さま。赤坂御用地で誕生日を過ごされるのは、'93年以来29年ぶりとなる。

「今年4月、上皇ご夫妻は約2年間に及んだ港区高輪での“仮住まい”を終え、赤坂御用地の仙洞御所へ引っ越されました。ご結婚後、30年あまりを過ごし、3人のお子さまを育てた思い出の地で、穏やかに祝われるのではないでしょうか」(皇室担当記者)

美智子さまは“女性学の主人公”

 おふたりの近況について、上皇職関係者が明かす。

「起床や就寝、食事は定時で、日課は音読と散策。相変わらず、規則正しく生活されています。美智子さまは、日ごろから新聞を丹念に読み、国内外の出来事をキャッチ。
最近だと、5度目の宇宙飛行を実現させた若田光一さんのニュースをご覧になりながら、過去にあった交流を懐かしまれているご様子でした」

 ご高齢なこともあり、体調面を懸念する声も上がる。

「美智子さまは8月、右脚ふくらはぎに血栓ができる『深部静脈血栓症』と診断されました。投薬や入院はなかったものの、楽観はできない状況です。9月には、上皇さまが白内障と緑内障の手術をお受けに。通院に付き添った美智子さまも、心配されていると拝察します」(同・上皇職関係者)

 年齢を重ねるごとに、体力や身体の機能が低下するのは自然なこと。

「美智子さまは、今までできていたことを“授かっていた”ものと捉え、それができなくなったことを“お返しした”と表現されています。長い人生の終わりにくるものに対する、穏やかな受け止め方をお手本にしたいものです」

 そう感心していたのは、文化学園大学客員教授でジャーナリストの渡邉みどりさん。
美智子さまと同じ1934年生まれで、日本テレビ放送網に入社後、60年以上にわたり皇室を取材し続けてきたが、9月30日、88歳で亡くなった。

「私にとって美智子さまは、“女性学の主人公”なんです。史上初の民間出身妃というだけでなく、皇后陛下になられてからも、いつもすてきでご立派でした」(渡邉さん、以下同)

『美智子さまに学ぶエレガンス』(学研プラス)や『美智子さま「こころの旅路」』(大和書房)など、美智子さまや皇室に関する著作物をこれまで40点以上も出してきた。晩年は第五腰椎陥没や第二腰椎圧迫骨折、脊柱管狭窄症による左半身の痛みを抱えていたが、鎮痛剤を飲みながら仕事を継続。『週刊女性』の取材に対し、

「私が死ぬまでは書かないでいただきたいのですが……」

 と、冗談交じりに切り出すこともあった。
これまでの数々の取材秘話を振り返り、“生涯現役”を貫いた渡邉さんを悼む─。

◆   ◆   ◆

 美智子さまの存在を渡邉さんが初めて知ったのは、まだ皇室入りされる前だった。

88歳で天国へ旅立った皇室ジャーナリストの渡邉みどりさん

「1955年に読売新聞社が主催した作文コンクール『はたちの願い』で、4185通の中から2位に入選したのが、当時、聖心女子大学2年生だった正田美智子さんでした。それだけでは記憶に残りませんでしたが、受賞から約1か月後に朝刊を読んでいると、美智子さんが賞金2000円のうちの1000円を東京都の恵まれない人々への社会事業に寄付し、残りを聖心女子大学に奨学賞金として寄付されたという記事が目に入りました。3次選考で落選した私は、もし入賞したら賞金でスキーに行こうと考えていたので、恥ずかしい限りでした」

 そのころから人のために何ができるかを考え、実践していた“正田美智子さん”は、約4年後の1959年4月10日、皇太子妃になられる。一方、日本テレビに入社して3年目だった渡邉さんは、駆け出しの記者兼ディレクターとして、ご成婚パレードの中継に携わった。

「一生涯関わり続けることになる」と確信

「それまで皇太子さまと結婚されるお相手は、皇族や華族など名門のお家柄から選ばれることが慣例でした。美智子さまに対して意地悪く“平民が”という言葉をかける人もいましたね」

 沿道には53万人以上の人がお祝いに集まった。

「私の仕事は、青山学院大学の合唱団を待機させ、おふたりが通過される際に、ハレルヤをコーラスしてもらうことでした。何が何でもテレビカメラのほうを向いていただくというのが、日本テレビの秘策だったのです」

 作戦は見事成功。美智子さまの笑顔を約45秒間も捉えることができた。

約9キロメートルのコースを馬車に乗って移動された皇太子ご夫妻(当時)のご成婚パレード(1959年4月)

「この方とは、きっと一生涯関わり続けることになる」

 渡邉さんは、そんな予感を抱いたという。皇太子妃になられた美智子さまは、たちまち日本女性の憧れの的に。“ミッチーブーム”を巻き起こした。

「美智子さまがお召しになっていた洋服が銀座のデパートに並ぶと、私たちはみな給料袋を持ってデパートに駆け込みました。ワンピースの値段は1万円前後でした」

渡邉さんが取材し続けた美智子さまの素顔

 1968年の大卒初任給が約3万円であることを踏まえると、かなり高価な買い物だ。1人の女性として、美智子さまへの憧れを募らせる一方、日々の取材を通して、素顔を知った。

「ユーモラスなご性格がよくわかるエピソードがあります。昭和50年ごろでしょうか。一重や奥二重の目をパッチリ二重に見せるアイテープが流行り始めていました。あるとき、奥二重の美智子さまが、アイテープをつけていらして。私が“えっ!”と驚くと、“おわかりになる? アハハ”と、笑われたのです。上皇さまがおっしゃるとおり、おちゃめな一面がおありなのだと思いました」

 プライベートで、美智子さまのお住まいを訪れたことも。

「私の幼稚園時代の友人が、偶然にも美智子さまが通われていた料理教室のお仲間だったことがきっかけでした。浩宮さまを妊娠されていた美智子さまに、料理教室のメンバーで丁寧に作ったコンソメスープをお届けしようということになり、私も誘っていただいたのです。美智子さまは、和装の寝間着の上にガウンという装いで、東宮仮御所の玄関においでになりました」

ご成婚パレードを中継する渡邉みどりさん。まだ女性のディレクターは少ない時代だった(本人提供)

 当時の東宮侍従は、その場にいた渡邉さんを「美智子さまのご友人」だと早合点した。

「後日、皇太子ご夫妻(当時)が公務で地方にご出張中、お留守番の侍従のもとへ陣中見舞いに伺うと、先の侍従が“ご覧になりますか”と言って、お部屋を見せてくださったのです。東宮仮御所の応接間には大きな絵が飾られていました。満開の梅と、小さな鳥が2羽描かれた、前田青邨さんの『紅白梅』という作品でした。美智子さまは、この絵をモチーフにした着物を注文なさったと聞きました。梅がお好きなのでしょう」

 少しでも美智子さまの日常をつかむべく、一般の人々に紛れて赤坂御用地の除草や清掃をする勤労奉仕団に加わった。

「割烹着に手ぬぐい、長靴という格好で草むしりをしていると、美智子さまが3歳くらいの浩宮さまと一緒に“ご苦労さまです”と、お出ましになりました。“ナルちゃん、ご挨拶は”と、美智子さまが浩宮さまの愛称を交えて呼びかけられると、3歩ほど前に出て“ごきげんよ~”と、お辞儀されたのです。奉仕団一同、とても盛り上がりました。“国民とともにある皇室とは、こういうことか”と感動しましたね」

 美智子さまの幼少期を知る人々にもたびたび取材した。

「戦時中、美智子さまが疎開された群馬県の館林南国民学校(現・館林市立第二小学校)の先生は、“幼いころから人格者だった”と話していて、頭にシラミがいる子どもが腹痛を訴えた際、美智子さまはおぶって保健室まで連れていかれたといいます。この学校には今も、小学6年生時代の美智子さまが描かれたユリの絵が飾ってあります」

 美智子さまは戦禍に追われるように軽井沢の別荘へ移り、そこで終戦の日を迎えられた。

「軽井沢でのご様子について、ご親戚に取材したことがあります。別荘で飼っていたヤギの乳搾りがいちばんお上手なのが美智子さまだった、と。当時から何事も器用にこなされていたのかと思いきや、煎じ薬として使用するゲンノショウコという植物を見分けるのは苦手だったそうです」

美智子さまから直接おことばを…

 ご成婚25周年にあたって、美智子さまの弟・正田修さんへの単独インタビューにも成功した。

「若き日の美智子さまを“おちゃめで人が集まってくる姉貴だった”とし、“ご成婚当時、自分はまだ高校生で何もわかりませんでしたが、年月がたつにつれて、当時の両親は大変だっただろうなと思うようになりました”と、語ってくれたのが印象的でした」

 渡邉さんの仕事ぶりは、宮内庁からも一目置かれた。

東宮御所のキッチンで、ご家族に手料理を振る舞われた美智子さま(1961年6月)

「日本テレビの局長を通して、“側近にならないか”と宮内庁からスカウトされました。
取材先の京都で、私がメガホンを持ちながら“宮さまがお通りです!”と皇宮警察かのごとく交通整理する姿が目に留まったとか。“若い活力が欲しい”と言われましたが、大学で教壇に立つのが夢だったので、お断りしたんです」

 長い取材人生の中で、忘れられないひとときがある。

「'09年11月、『日本記者クラブ』創立40周年記念の会合で、4分間ほどお話しさせていただきました。私は、美智子さまのご親戚の1人と古くから知り合いだったため、その話題で盛り上がりましたね」

 渡邉さんは、すでに日本テレビを退職し、文化学園大学で美智子さまに関する講義を行っていた。

「美智子さまから“私のことを教えてくださっているのでしょう?”とお声がけいただき、大変名誉なことでした」

 共に年齢を重ねていく中で感銘を受けたのが、美智子さまの“終活”だった。

「'12年に上皇さまが心臓のバイパス手術を受けられた後、美智子さまは“やがてくるお代替わりについて相談しなければ”とお考えになったそうです。上皇さまが退院されて間もなく、天皇陛下と秋篠宮さまを御所に招き、月1回の懇談をされるように。この話し合いをすすめられたのが美智子さまだったといいます」

 渡邉さんは、'21年4月に『美智子さま いのちの旅―未来へ―』(講談社ビーシー)を出版。生前退位の経緯や上皇ご夫妻の葬送などについてまとめ、《私自身の仕事の集大成》と位置づけた。

「生前に“人生の終い方”について話をするのは失礼なことではなく、次の世代や周囲を困らせないためのあたたかい行動なんです。美智子さまの姿勢は、国民ひとりひとりに当てはまると思います」

昭和から平成、そして令和へ。天皇の生前退位は約200年ぶりだった('20年1月)

 そう力強く語っていた渡邉さんは、皇室について精力的に発信を続け、『週刊女性』の取材にもいつも快く応じてくれた。

《好きなことをするためになら、死んでもいいじゃない、と思っているんです。私はこれまで仕事には本当に恵まれてきました。皇后美智子さまに仕事でずっとかかわらせていただき、同世代でこんなに素晴らしい方がいらっしゃるという幸せを感じてきました》(『いきいき』'11年8月号)

 その言葉のとおり、美智子さまに捧げた人生は幸せだったに違いない─。