『きかんしゃトーマス』の紙芝居を演じる奥田さん。5分ほどの時間だったが、園児は目を輝かせて聞き入っていた

 子どもの暴力、友達とのトラブル、不登校……。育てにくさに悩み、専門機関を受診して、発達障がいだとわかることは多い。

 先天的な脳の発達の偏りによるもので、小中学生の6・5パーセントが発達障がいだというが、支援は追いついていない。

 専門行動療法士、臨床心理士の奥田健次さん(50)は学校や医師に相談しても解決せず、困り果てた親子のもとを訪れ、28年間で2万数千件もの出張カウンセリングを行ってきた。学校や施設でのコンサルテーションでは行動分析学の手法を用いて、激しい暴力すら1回の相談でゼロにするなど、まるで魔法のように子どもを変えていく姿から“子育てブラックジャック”との異名をとる。

『拝啓、アスペルガー先生』など支援の様子を詳細につづった著書を多数刊行。暴力や不登校など大変なケースから、夜尿症(おねしょ)というどんな子どもにも起こりうる悩みまで、具体的な解決方法と背景にある行動原理がわかりやすく書かれており評判になった。

 そんな奥田さんが私財を投じて2018年4月に長野県御代田町で創立したのが「サムエル幼稚園」だ。

死んだ後も続くようなシステムと場所を

保護者に向けてさまざまな手法を指導する奥田さん

「もともとエンターテイナー気質があって、人を笑わすとか喜ばすのが好きなんです。だから困っている親子を笑顔にするために、どんなことをしたらええんかなと。ずっと週7日働いてきたけど、僕が会える親子は限られている。だったら、自分が死んだ後もずっと続くようなシステムと場所を残そうと、借金して土地と建物を手に入れたんです。スタッフの教育にもむちゃくちゃ力を入れていますよ

 現在、年少から年長まで20人の園児が在籍。割合は公表していないが発達障がいの子も受け入れている。理事長を務める奥田さんに、園内を案内してもらうと─。

 思い思いのおもちゃで自由に遊んだり、先生が紙芝居を演じたり。ごく普通の幼稚園らしい光景が広がる一方、広い部屋の片隅には、大声でずっと泣き続けている男児がいる。

「ママー。うわ~ん」

 男児の周りはプラスチック段ボールのパーティションで囲まれ小部屋のようになっている。男児は3歳で自閉症スペクトラム障害(以下、自閉症)だという。発達障がいの一つである自閉症は、言葉の遅れや興味の偏り、他人との関係の形成が難しいなどの特徴がある。

 奥田さんは無表情のまま、泣きわめく男児の手をとると、有無を言わさずに、手に持ったパズルを同じ形の穴にはめさせていく。

「あー、上手、上手。いいね、いいね~」

 その後、女性教員と遊べるまで機嫌を戻したが、しばらくするとまた泣き出した。

 言葉で説明できないぶん、泣いたり暴れたりする自閉症児は多いが、ここまでひどく泣き癖がついてしまったのは、以前通っていた保育園での間違った対応のせいだと、奥田さんは指摘する。

「この子のいた保育園では泣いている子を抱いて、よしよしトントンする。それでも泣きやまないと、お母さんを呼ぶ。それはよくある対応なんだけど、この子にそれはあかんよと。“泣き続けたらお母さんが迎えに来てくれる”と学習し、“泣き”が強化されてしまったんですね。それを1年間続けた、成れの果てがこれです。発達障がいは生まれつきだけど、行動を強めたのは環境の要因ですから

 親も保育園もお手上げ状態で転園させたのだろうが、奥田さんは「うちでは直せるよ」と、こともなげに言う。

「1週間で直る子もいれば、半年かかる子もいる。この子は症状が重いので、どのくらいかかるかわからないけど、絶対に直せます」

奥田さんの手法は「叱る代わりに無言で“タイムアウト”」

敷地内にある奥田さんの自宅の研究室。本や資料が壁一面にずらりと並ぶ。見た目と違って「古い習慣で、なるべく図書館で借りたくない」

 奥田さんの使う手法は常識とは逆だ。スタッフは泣いている子には背を向けて、機嫌よく遊んでいる子の相手をする。ケガをしたときなどを別にして、泣いて要求した場合は相手にしない。かんしゃくによる交渉は無駄だという経験を積み重ねることが大事だという。

 それでも泣き続ける場合は、パズルなど単純作業をやらせる。何かに打ち込むと気持ちを切り替えやすくなり、いずれ泣きやむ。

 他にも普通の幼稚園とは異なる工夫があちこちで見られる。おもちゃの片づけや着替え、お弁当の時間にはビジュアルタイマーを活用。決められた時間内に終わるとお菓子やシールなど、その子が好きなごほうびがもらえる。《行動した直後にいいことがあると人はその行動を繰り返すようになる》という行動原理を利用した方法だ。

「コラー、やめなさい!」

 そんなふうに子どもを叱る教員の声も一切聞こえない。叱る代わりに、無言で【タイムアウト】という手法を使うからだ。

他の子を叩いたり暴れたりが頻発する場合はパーティションで囲った小部屋(写真手前)で、1人で遊ばせる

 暴力を振るったり、大声で暴言を吐いたりするなど、社会的に受け入れられない行動をした際、その子どもを遊び場からサッと引き離し、部屋の隅の椅子に座らせて数分後に戻す。他の子を叩いたり暴れたりが頻発する場合は、パーティションで囲った小部屋に入れて1人で遊ぶスキルを身につける。再び同じ行動をしたら、またタイムアウト。直るまで繰り返す。体罰は絶対に使わない。

「どうしてこの子は人を叩くんだろう。本当は寂しいんちゃうかとか原因を考えても問題解決にはなりません。それより暴力に対しては即隔離というルールを決めて機械的に実行するほうが有効です。叩いたら本人が1人で過ごすということをセットにする。そうして3歳か4歳の間に手を打てば、どんなに激しい暴力でも容易に直せますよ」

 暴力を放置したまま小学校中学年くらいを過ぎると、簡単には直せず精神病院への入院が必要になる場合もある。だが、親も専門機関も子どもが何か事件を起こすまで何の手も打たないことが多いと奥田さんは嘆く。

奥田さんが進むべき道を示してくれた

自然豊かな場所に立地するサムエル幼稚園の園舎。日本初の行動分析学を用いたインクルーシブ幼稚園

「息子たちがサムエル幼稚園に入れたのは不幸中の幸いでした。もし、奥田先生に出会わなかったら、どうなっていたか……。将来、家にひきこもって親に暴力を振るい、最後は親が自分の子どもを殺さないと終わらないという可能性もあったと思っています」

 真剣な顔でそう話すのは川島さん夫妻。年長と年少の息子は2人とも自閉症だ。

 入園前、まだ2歳の長男を外に連れていくと勝手に走り回り、杖をついている人に突進したり、他の子のおもちゃを取ろうとダッシュしたり。他人に迷惑をかけ通しで悩んでいた。

 市の療育センターに相談したが、「とことん相手して」「見守って」と言われるばかり。親は召使い状態になり、「これが一生続くのか」と疲れ切っていたとき、人づてにサムエル幼稚園のことを知り、「絶対にここだ!」と思ったそうだ。

 年少で入園後、最初の保護者研修会で【手つなぎ歩き】を教わった。奥田さんが考えた独自の方法で絶対に手を振りほどかれない。毎日続けたら効果は抜群で、半年後には手をつながなくても飛び出さなくなったという。

「イオン行く。イオン行く」

 街で看板を見かけるたびに、しつこく言い続けた時期もある。こだわりが強く何かに執着するのも自閉症児によく見られ、要求が通らないと泣いて大騒ぎする。

 奥田さんに相談し【ブロークンレコード】を試した。「イオン行く」と言われても、「イオンまた今度」と壊れたレコードのように機械的に返す。あえて無視して夫婦で会話を続ける方法と併せて続けると看板を見ても素通りできるようになった。

 父親は「親が主導権を握ることが大事なんですね」と実感を込めて話す。

諦めずにとことん向き合う

広い園庭にて園児たちと遊ぶ。長野県では最少規模の幼稚園のため入園希望がかなわないことも

「油断すると子どもに主導権を取られちゃうので、諦めずにとことんやる。さらに強烈な次男がいるので大変ですよ。まだ人間の範疇に入っていないので(笑)」

 年少の次男は症状が重く、かんしゃくがひどい。机をバンバン叩き、「あーあー」と声は出すが言葉が出ない。放課後、療育も受けているが、奥田さんから提案された訓練を家でも毎日やっている。

 例えば、発語につながる【模倣】。ほっぺ、頭、バンザイなど親と同じ動作ができたら、小さなお菓子をあげる。模倣の種類は増えてきたが、「え、お」と声を出しながら口の形をまねさせようとすると嫌がるので、なかなか次のステップに進めない。長男にちょっかいを出されて追いかけっこが始まり、訓練が中断することもしょっちゅうだ。

 2歳違いの自閉症児2人を育てるのは、想像を絶する苦労があるだろう。嫌になったりしないのかと聞くと、母親は明るい表情で否定した。

「問題行動をしても、今は解決方法を逐一教えてもらえます。それを一生懸命やっていると忙しいから、変なことを考えたり、クヨクヨしている暇はないです(笑)」

 父親も笑顔で同意する。

「うんざりする局面はあるんですが、われわれの回復はすごく早くなりました。今は将来の見通しがふわっと立っているのでうれしいですよ」

 奥田さんが進むべき道を示してくれたおかげで、川島さん夫妻は驚くほど前向きだ。

壮絶な生い立ちと園長として見守る母

9歳の奥田さん。高いところから飛び降りるなど、何をしでかすかわからない子どもだった

「直せない問題行動はない」

 そう言い切るほど、奥田さんは自分の手法に自信を持っている。ストレートすぎる物言いで、時に同業者から反感を買うことも。学者らしからぬラフな服装も相まって、“異端児”と呼ばれる奥田さん。生い立ちもまた、壮絶だ。

 出身は兵庫県西宮市。作曲家の父、ピアニストの母のもと、3人兄弟の次男として生まれた。ところがまもなく両親は離婚─。奥田さんが5歳のとき母が再婚すると、継父から暴力を受ける日々が始まる……。

 母の結婚式の日。教会のスタッフに頼まれて花吹雪をまくと「ゴミになるやろ!」とバーンと叩かれたのが最初だった。家で食卓に肘をついて食べているだけで殴られる。2歳下の弟は同じことをしても叩かれないのに。

「何で僕だけ?」

 継父が怖くて家に帰りたくない。何度も家出して、お腹がすくとお菓子などを万引きした。バレて捕まり、家に帰されると、さらにボコボコに殴られる……。

奥田さんの母で園長の奥田章子さん。長年、家で子どもたちにピアノを教える仕事をしてきた

 奥田さんの母で、今はサムエル幼稚園の園長を務める奥田章子さん(77)に当時の様子を聞くと、おだやかな口調でこう答えた。

健次は小さいころから口が達者でね。何か言われても、あーだこーだ口答えして、それが図星だったりするから、夫は腹が立ったんでしょうね。腹が立つから殴っていいわけではないけど、夫婦が一致していないと子どもはうまく育てられないと思い込んでいたので、私も長い間止められなかったですね……。

 だいぶ大きくなってから、健次があまりにかわいそうで夫を止めたら、私もガーンとやられてケガをして。健次は自分が逆らうと、お母さんが殴られると思ったんでしょう。それから口答えしなくなりホッとしました」

 学校でも生意気だと思われ、よくトラブルになった。小学2年生のとき国語の授業で女性教師の説明不足を指摘したら、「出ていけ!」と教室から追い出された。家に帰ると殴られると思い、学校の倉庫にじっと隠れていたら、「どこにもいない」と大騒ぎになったそうだ。

 高学年になると同級生にいじめられるように。中学に入ると同級生10人にプロレスの技をかけられて殴られるなど、いじめはさらにエスカレート─。

 中学2年で不登校になり、ファミコンゲームにのめり込んだ。大会に出て好成績を取るとゲーム会社の人に声をかけられた。

「“会社に来て教えてよ”と。親の目を欺くために朝は学校に行って、2時間目くらいで早退する。学ランじゃ捕まるかもしれないから、駅のトイレで背広着て、ネクタイ締めて。顔は中学生なんだけどね(笑)。で、神戸の会社に行って、ゲームしてレポートを書くだけで月8万円もらえた。当時はバブルだったから神戸牛で接待してくれるし、大人たちとの交流のほうが楽しかったですよ。自分のアイデアがゲームに反映される楽しさは、なかなか他では味わえない」

父親のように慕った人

読書が好きで推理小説、科学物などをよく読んだ。中学に入って完全不登校になった時期も。4人兄妹で右端が奥田さん

 学校に行かず家でぶらぶらしていると、母に聖書を学ぶことをすすめられた。そこで出会ったのがドイツ人宣教師のベックさんだ。

「学校なんか行かなくていいよ」

 そう言って親身に話を聞いてくれるベックさんを、奥田さんは父親のように慕った。

「僕はちゃんとした父親の愛情を受けたことがないから、この人のために一生をささげたいと思ったくらい。高校に進学して2年生のとき“一緒に宣教活動をしたい”と言ったら、“まず立派な社会人になりなさい”と。思っていた答えとは違ったけど、僕のためにアドバイスしてくれてるのがわかったから、ああ、学校の勉強も頑張らないかんなと。父親みたいなベックさんとの出会いがなかったら、自立した社会人にはなってなかったと思いますね」

 高校3年で幼児教育の道に進むことを決めた。きっかけは母の章子さんのひと言だ。

「幼稚園の先生とかどう?」

「そんなん、いやや」

 本人は最初、あまり乗り気でなかったというが、向いていると思ってすすめたという。章子さんは再婚後、女児を出産。8歳下の異父妹の聖子さんを、奥田さんがとてもかわいがっていたからだ。

「まだ赤ちゃんの聖子が泣くと、健次がパッと抱いて違う部屋に連れていく。もう1分もしないうちにニコニコして戻ってくるんですよ。自分のお小遣いを貯めて、ちっちゃい絵本を買ってきて読んであげたりもしていたし。健次は興味のないことは100回書いても覚えないし勉強もやる気がなかったから、自分に向いたものを見つけるまで、本当に心配しましたね」

大学で運命を変える先生との出会い

 大学に入り、幼稚園教諭、保育士の免許を取るため実習に行った先で、また運命を変える出会いが─。

 実習初日、ある男の子がパーッと部屋に入ってきて、正座して待っている奥田さんの膝に乗ってきた。目が合うとニコッと笑う。

 奥田さんに甘える姿を見て、周りの先生たちは驚愕している。その子は重度の自閉症で両親の抱っこも嫌がっていたのだ。

「俺には何か、子ども磁石みたいなものがあるのかな」

 内心そう思ったが、次の日からは遊ぼうとしても逃げられる。3週間の実習が終わっても納得がいかず、自閉症について単位に関係なく自主的に実習を続けたいと別の大学の研究室を紹介してもらう。その先生が、たまたま行動分析学の専門家だった。

今は障がい者の支援もしているが、子どものころは障がい者のことを怖がっていたという

「そこでは遊びながら子どもを変えていくんですよね。子どもが変わると親も喜ぶし希望があるやん。臨床をやるなら心理学の中でも行動分析学がいちばんでしょうと」

 意気込んで研究の進んでいるアメリカの私立学校を半年間見学。そのまま留学したかったが資金不足で帰国。病院で発達臨床の見習いをしながら大学院に進み、行動分析学を学んだ。出張カウンセリングを始めたのもこのころだ。学生時代は無償で、卒業後は有償で、行動分析学をベースに独自の工夫を重ねた。例えば、ゲーム好きな不登校の子どもにどう対処するか。

「寄り添うだけの心理士だと、言いなりでしょう。僕なら、お金の動きまで確認します。好き放題やらせているとか、祖母が内緒で課金の協力をしているとか。守れない口約束をして反故にされる親も多い。なので、例えばですが親子で契約を交わす【行動契約】を使うこともあります」

学会で大御所に論戦を挑むことも度々

「言いたいことを言って相手の反応を見てその人を知る。嫌われたっていい。手っ取り早いでしょ」

 25歳で修士課程を修了し、兵庫県の障がい者入所施設で嘱託の心理士として週4日、残り3日は大阪市のクリニックで働いた。だが、7日働いてもアルバイトなので年収は240万円。家賃2万5千円のぼろアパートに住み、学会に参加し専門書を買うとギリギリの生活だった。

「大学院を出ても常勤職の募集はなかったんです。今さら一般職は考えられないし。でも貧乏は苦にならなかったし、やりたいことができるから楽しかったですよ」

 その施設で体罰を推奨していた上司と口論したため、早々に窓際に追いやられた。だが、それを逆手に取り、さまざまな手法を自由に試していったのだ。

「自分の便を部屋中に塗りたくったり、自分の両目を叩き続けて失明してから来た人もいる。そんな“強度行動障害”と判定を受けた人を助けるため、アメリカの論文をいくつも読んで、論文に書いていないことは自分で考えて作る。施設に入ると利用者の楽しみは食べることぐらいしかないから、食べ物は効果的でした。やることを増やすために中古のスロットマシーンも導入しました。とにかく楽しみを増やしたんです。

 そこの1年で、僕に直せない行動上の問題はなくなりましたね。暴れまくっていた人がニコニコして仕事をするようになったケースとかを学会で発表すると、“スゲー”となるわけですよ。よその施設や支援学校の強度行動障害も多くの先生たちの目の前で直しました」

論戦でボコボコにした先生から…

学生時代から学会で「あの先生に逆らったら、あかんよ」と言われると逆にやっていた

 翌年、大学でそうした研究をやらないかと声をかけられ、研究と臨床を始めた。

「あなたみたいな生意気な若手がどうしても必要なんだ」

 日本で初めて自閉症児に行動療法を行った小林重雄先生が声をかけてくれたのだ。

 奥田さんは学生のころから学会で大御所に論戦を挑むことも度々。小林先生のことも「ボコボコに批判した」ので、印象に残っていたらしい。

 ところが働き始めて数年後、大学の不正が発覚する。小林先生はそれを指摘したが、スタッフはみんな知らぬふり。いちばん若い奥田さんだけが先生に同調すると、大学側からすさまじいいじめが始まる─。

「僕の研究室は取られるわ、海外特別研究員の応募を勝手に取り下げられるわ、めちゃくちゃですよ。最高裁まで争って勝ちましたけど、すごいストレスで、髪がごそっと抜けてね。睡眠薬を飲んでも寝られないし。身体が蝕まれていくのはわかるけど、保身に走るほうがよっぽどしんどいので、だったら退職して闘おうと」

 助手を5年で辞めた後、愛知県にある大学に准教授として採用され、7年働いた。国際学会に招かれて発表するなど、ますます多忙になる中、出張カウンセリングも継続。その様子がテレビなどで紹介されるとさらに依頼が殺到し、休みのない日々が続いた。

 大学を退職し、2012年に西軽井沢に引っ越した。日本初の行動分析学を用いたインクルーシブ教育を行う幼稚園設立を目指し、5000坪の土地をローンで購入。私財を投じて園舎を建て、幼稚園に寄付した。1年目の運営資金として母の章子さんもなけなしの貯金を寄付してくれた。だが、それでも運営資金が届かず、当面の生活費に残しておいたお金もつぎ込むことに。

「40歳過ぎて、自分の貯金通帳の残高が50万円を切って、ちょっと背筋が久しぶりに寒くなりましたね(笑)。まあ、でもこれが僕なので。怖いもの知らず、無鉄砲やなと子どものころから言われていて、そこは変わらないですね」

 奥田さんは金勘定が苦手だ。見かねた妹の聖子さん(42)が事務長になり、経理面を担当してくれている。

 障がいのある子とない子が共に学ぶインクルーシブ教育を取り入れた狙いを、奥田さんはこう説明する。

「定型発達の子の親御さんは、“障がい児と一緒だと勉強が遅れない?”と心配する人もいるけど、すべての子どもに個別のプログラムを提供しています。できる子はどんどん次のレベルの課題をやってもらい、暴れる子は個別対応して落ち着かせる。でも、遊びや行事など工夫でできることは一緒にやる。いろんな子と過ごすことで、定型発達の子も問題解決能力がすごく育つんです。子どもによっては園生活の中で小学校の教科書を使うこともあるんですよ」

 奥田さんの考えに共鳴し、定型発達の娘を通わせている母親は、幼稚園で日々貴重な体験をしていると話す。

 例えば、泣いている友達への声がけ。これまでは「どうしたの?」とすぐ声をかけなさいと教えてきた。だが、幼稚園で泣いている子に娘が声をかけようとしたら、先生に「あの子は今、すごく頑張っているから、もう少し後で声をかけてあげて」と止められたのだという。

「そう言われたら4歳の子どもでも、相手の頑張りを尊重するということがわかるんですね。いい意味で距離をとって見ていると、あ、そろそろ声をかけてみようかなと、先生たちに教わらなくてもできるようになる。そうやって、いろいろ身に付けていくんだと思いました」

 運動会で徒競走をする際、自発的に竹馬に乗って走る子もいた。途中で転んでしまい、ゆっくり走る知的障がい児に負けてしまったが、誇らしげだったと奥田さんもうれしそうだ。

「その子はハンディをつけるなんて気持ちはなかったでしょうが、教員がこうすればみんなで楽しめると工夫しているのを見て、学んだのでしょうね。ちっちゃいときからそういう経験をたくさんしていたら、対人関係で問題に直面したときも、諦める以外のいろんなカードを選べるようになると思いますよ」

「さやか星小学校」の設立を進める

 海外ではインクルーシブ教育が盛んで、学校全体の学力が上がるというデータもある。だが、日本では進学実績を気にする親が多いので、理解者をどう増やしていくかが今後の課題だという。というのも、近隣の廃校を利用した小学校の設立を進めているからだ。

 前出の川島さんの長男は来年4月には小学生だ。現状では特別支援学校か小学校の支援学級に進むことになる。両方見学に行ったが指導内容に開きがありすぎて、難しい選択を迫られている。

「特別支援学校だと勉強の時間は一日たった15分ですよ。後は学校探検したり、ブランコで遊んだり。学習面を伸ばしたかったら、支援学級のほうがいいのかなと思うけど、個別の工夫はしませんという感じでした。たぶん長男は授業についていけなくて、ほったらかしにされて終わるんだろうなと。今はちゃんと席に座っていられるのに、下手したら、離席癖がついちゃうかもしれませんね……」

 川島さん夫妻は長男の成長ぶりを見て、適切な教育を受ければ就労も可能だと考えるようになった。だが、このままでは未来が閉ざされてしまうと危機感を抱く。

 小学校ができるのを待っている親子は他にもたくさんおり、奥田さんは'24年4月の開校を目指して、準備を急ピッチで進めている。

 急ぐ裏には別な理由もある。実は奥田さん、4年前に皮膚がんの手術を何度も繰り返したのだ。

「悪性だと言われた瞬間、ああ、きたかと。実父も祖母もがんやから、全然、怖さはないです。いつか死ぬんやし。ただ、学校をつくるのも、のんびりやってられないなーとは思いますね。そう考えておくほうが、サボらずに早く、どんどん着手するでしょう(笑)。だから、自分の病気すら原動力になっていますね」

 小学校の名前は「さやか星小学校」だ。幼いころ別れた作曲家の父親に校歌を作曲してもらった。

 大手コンサルティング会社が無償で支援してくれているし、寄付を検討している企業もある。来月にはクラウドファンディングも始まり、広く一般の方々からの支援にも期待している。

 こうして、たくさんの人が応援してくれるのは、みんなよくわかっているからだろう。奥田さんは困っている親子を笑顔にしたい一心で動いているということを─。

取材・文/萩原絹代(はぎわら・きぬよ) 大学卒業後、週刊誌の記者を経て、フリーのライターになる。'90年に渡米してニューヨークのビジュアルアート大学を卒業。帰国後は社会問題、教育、育児などをテーマに、週刊誌や月刊誌に寄稿。著書に『死ぬまで一人』がある。