女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。NHKで仕事をしていた新人時代を回想する。
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デビュー間もないころ出ていた雑誌
『ジュニアそれいゆ』という雑誌を知っているかしら?
画家・ファッションデザイナーの中原淳一さんが、1954年に創刊したティーンエイジャー向けの人気雑誌だった。私はデビュー間もないころ、よくこの雑誌に登場させていただいた。
この時代、NHKはまだ東京都千代田区の内幸町にあった。渋谷へと完全に機能を移転させたのは1973年。だから、私たちの青春時代のNHKといえば内幸町のほうなのよね。
「東京放送劇団」というNHK専属の劇団もあって、黒柳徹子さん、里見京子さん、横山道代(現・通乃)さんといった方々がすでに大活躍していた。そして、同時期にはアナウンサーとして入局していた野際陽子さんや下重暁子さんもいらっしゃった。後年、伊勢湾台風(1959年)の取材をしたことを話してくれた。今考えると、錚々たる顔ぶれがNHKを出自としていることがうかがえるわよね。
当初、私は横浜に暮らすいとこ夫妻の家に同居させてもらっていて、そこから電車でNHKに通っていた。新橋で降りて、NHKに向かうのだけれど、右も左もわからない。毎回、タクシーを使ってNHKを目指していたものの、しばらくして新橋と内幸町が歩いて5分の目と鼻の先にあることを知った。いなかっぺのせいで、無駄な出費をしていたのね(笑)。
テレビの技術も、今とは違ってまったくのアナログだった。「キネコ」といって、生放送と同じように撮影をしていた。当時、VTRは高価なテレビ録画手段だったから、まだキネコが主流だったの。
私のNHKデビュー作である『この瞳』には、この連載でもおなじみのペコ(大山のぶ代)と宮崎恭子さんが出演していた。宮崎さんは、俳優座養成所の仲間から“ダック”の愛称で呼ばれていた。
背の高いアポロンのような男性
撮影が終わるころ、宮崎さんを迎えに、背が高くて白いとっくりセーターを着たアポロンのような男性がいつも現れる。小柄な宮崎さんとはとても対照的だった。
私とペコは、「なんでダックがあんな背の高いカッコいい人と……」といつも不思議で不公平に感じていた。その男性こそ、後にダックと結婚する仲代達矢さん。「モヤ」、と仲代さんを愛称で呼びながら駆け寄っていた。
養成所の有望な後輩だった仲代さんを射止めるなんて、ダックも先見の明ありよ。でも、真剣な恋だったんだと思う。多才なダックはよく台本に仲代さんの似顔絵を描いていた。
今では考えられないけど、このころの私は体重が33~34kgしかなくてヒョロヒョロ。心配な存在だったのだろうか、NHKの職員さんたちは、ことあるごとに私のことを気にかけてくださった。
特に、当時芸能副部長だった佐藤邦彦さんには本当にお世話になった。奥さまは歌手の奈良光枝さん。佐藤さんは、フランスの喜劇俳優のフェルナンデルに顔が似ていたから、私とペコは「フェルナンデルのおじさま」なんて勝手に呼んでいた。
クリスマスの日。フェルナンデルのおじさまのところへ行くと、「君たちよく来たね。今日はクリスマスだからケーキを買ってあげるよ」なんて言ってくださって、うれしかったなぁ。ところが! あの時代、私たちは安月給だったから、ペコったら、「いいえ、現金でいただきます」なんて言ったの。ア~笑っちゃう。
横浜のいとこ夫妻には、ホントによくしてもらった。奥さんが北海道出身だったから、朝食に北海道のプリプリしたたらこなんかが出てね。伊豆出身の私はたらこが初めてで、ほっぺたが何度落ちたことか。いとこ夫妻と私とで森繁久彌さんの『夫婦善哉』という映画を見に行ったこともあった。そんな些細な日々が、新人時代の私にどれだけ活力を与えたか計り知れない。
もう60年以上前の出来事だけど、青春時代っていくつになっても鮮明に覚えているものね。人さまのご恩も。
〈構成/我妻弘崇〉