都内の古いマンションに暮らす生活道具ギャラリーを主宰する高森寛子さんはがんを患った夫のために1日3食を作る日々。「安心して、快適に料理できるキッチンにしたい」と工夫を重ねている。落ちる体力を補う動線の工夫、食欲を増す器のチョイス……。思わずまねしたくなる「年をとってからの台所考」。
気がついたら80代。踏み台が怖くなった
フリーの編集者だった高森寛子さんは62歳のとき、それまで関わってきた漆器や日本の伝統的な生活道具を扱うギャラリーを開く。当時はバブルが弾けて数年たち、漆器などを扱う問屋が激減した時期。伝統工芸品の作り手をサポートし、自身も使って本当に「使い心地のいい」生活道具を紹介したいと考えていた。
「ギャラリーの運営は素人でしたので、使い手にどうやったら使い心地をわかってもらえるか、楽しいながらも試行錯誤の日々(笑)。エッセイストとして執筆も続けながら、無我夢中でやってきました」(高森さん、以下同)
しかし70代半ばころから身体の変化を感じ始める。
「例えば台所で踏み台に上がり、つり戸棚のものを取るのが怖くなりました。踏み台から落ちそうな感じがして。また、下にあるものを取り出そうとしゃがんで立ち上がるとき、フラッとなることも」
マンションで夫と2人暮らしの高森さんは40代の入居時に台所をリフォーム。収納が充実し、好きなものに囲まれて料理を楽しめる台所だった。
「70代半ばまで台所の使い勝手を気にしてこなかったんです。でも次第に握力も弱くなったし、身長も縮んできた。若いころとは違うと自覚し、『老いた身』に合った台所を考えるようになりました」
食卓の使い方も変えた。それまでは夫婦向かい合わせで座っていたが、話し声が少々聞きとりにくくなっていた。
「意外に横にいたほうが夫の話が聞き取りやすい。今は夫婦横並びで食事をしています」
ただ、これは高森さんの場合。同じ高齢者でも身体の変化は違うのではないかと話す。
「私たちには子どもがいないし、介護が必要になったときのことも考えるようになりました。できるだけ長く自宅の台所で料理をして、好みの器で食事をするのが私の理想。今は“自分たちにとっての暮らしやすさ”を追求するようにしています」
“迷わない収納”へ使い勝手をアップグレード
仕事柄、好みの器や試してみたい生活道具を見ると、つい買ってしまう高森さん。
「整理整頓は嫌いじゃない。若いころは雑誌に載っている収納アイデアなどを参考に、実践していました。夫に頼みDIYをしてもらうことも」
壁面に取りつけた有孔ボードには、鍋敷きや籠をひっかけたという。
「食器棚の可動式の棚板を1枚外して、大皿や中皿を立てて収納してみたり。
奥行きのある食器棚は、食器を奥まで入れると取り出しにくいので、棚の奥に空き箱を入れて場所をふさぐといった細かい工夫もしていました」
少しの手間で使い勝手を改善できることもある。しかし、取り出しにくい場所のものはやっぱり使わないままになったり、台所に対する満足度はだんだん下がっていく。
「80歳過ぎてから知り合いに車イスを使う人が多くなったんです。
私も万が一に備え、車イスになっても料理ができる台所にしておきたいと思って、リフォームを決めました」
自分の料理は好きな道具と器で
リフォームを機に“断捨離”も試みたが、捨て難いものがほとんどだったという。処分できたのは、スイカを丸く抜く便利グッズやチーズおろし器など使用頻度が少なくなった調理小物、2人暮らしでは使わない重い鍋など。鉄のフライパンは手放して、手入れが楽なものに買い替えた。
「以前から『年齢的にこういうのは使わない』と思ったものは、『いらなかったら返して』と言って、近くに住む姪(めい)や若い知人に譲っていました。愛着がないものは手放せるんですよね」
長年しまい込んでいたものの多くは来客用。今は外で人と会うことも多いので、処分するのは苦ではなかった。反対に取材先で求めた器や、使いやすくて愛用している道具は手放せない。
「私にとって、ものは大切。でも、いつか時期がきたら人に譲りたいものもあります。『この人にあげたい』ものもあるし、すでに『これが欲しい』と言われている品がいくつも(笑)。自分が心地よく使えるうちは、好きなものを使っていきたい。その点はあまり型にはめなくてもいいかな、と思っています」
以前から使っているものの中には、後期高齢者となった今、大活躍しているものも。
その1つが「野田琺瑯(ほうろう)」の鍋や保存容器だ。ミルクパンは2人分の味噌汁を作るのにちょうどいい大きさ。
「残ったときは保存容器に入れ替えたり、鍋ごと冷蔵庫内へ。鉄なので冷蔵庫内と同じ温度まで冷えるそうです」
2つ目は漆の器。
「陶磁器と比べ、軽いのが何よりの利点です。熱い料理を注いでも気にせず持てる。使っているうちに色ツヤが増してくるんですよ」
食事のときに食器の下に敷く折敷(おりしき)もおすすめ。食卓の上が散らかっていても折敷を使えば食事スペースがとれて、落ち着いて食事ができる。
処分をしないで、以前とは異なる用途で使っている器もある。例えば、染め付けの大鉢は、以前は来客時に煮物を入れておもてなしに使っていた。今ではお昼にとろろそばを食べるときに用いる。
複数持っている急須も処分はしていない。1人用、2人用、紅茶用など用途で使い分けたいからだ。
「どれも20年以上の愛用品。おいしいお茶を飲みたいので、今は使い続けたいです」
車イスでも使える台所にリフォーム
40代から自分なりの工夫でつくり上げてきた台所だったが、82歳になった2018年に今の自分の身の丈に合った台所へのリフォームを決意し、デザイナーに依頼。いちばんのこだわりは、車イスになっても使える台所だ。
まず考えられたのが、足元があいているシンクやガス台。足元に空間ができて膝を中まで入れられる。
ほかにも使いやすくするために、さまざまな工夫をした。今まで2槽式だったシンクは1槽式に。
「仕切りがなくなり、広々としました。フライパンを洗うときも、柄がシンクのふちに当たらず、使いやすいです」
これまで高い位置にあったつり戸棚を、身長に合わせて下げたことで、踏み台を使わずに出し入れできるようになった。そこには琺瑯の鍋を主に収納している。
「鍋などの重いものは低い位置に収納するのが一般的ですが、私の場合は取り出すためにしゃがんで立ち上がる動作がおっくうなの。それで、立ったままで手が届くつり戸棚に、鍋を収納しています」
壁面はマグネット仕様に。新聞に載っていた料理の切り抜きやメモを貼ったり、マグネット式のフックを活用。
食器の収納は食器棚をやめて腰から下の引き出しに。引き出しの中は細かく区切って、器ごとの定位置を決めた。大皿は引き出しの中に1枚ずつの仕切りを作り、立てて収納している。引き出しの上は、今まで確保できなかった配膳スペースになった。
リフォーム翌年のコロナ禍のなか、同い年の夫が肝臓がんで入院して手術を受けた。幸い3か月ほどで退院。自宅療養となってからは髙森さんが毎日3食作っている。
「これまでは仕事が忙しく、1日3食の食事を作った経験がなかったんです。でも台所をリフォームしていたおかげで、夫の体調に合わせた料理を毎日、楽しく作っています」
調理のやり方も今の自分に合わせて
「今、自分が高齢者になって思い出すのは亡くなった母のこと。楽をさせたいがあまりに、家のことを代わりにしたり、母が時間をかければできることを取り上げていました。
でも、ちょっとやりすぎていた。シニアの作業をあえて時短にする必要はありません。自分のペースでやれることをやったほうが楽しいのに、私は母からそんな機会を奪っていたかもしれないですね」
心配し、助けてもらうのはありがたいが、多少負荷をかけたほうが頭を使うし、やる気も出る。“若い”ときには気づけなかったことだと話す。
調理のやり方も変わってきた。以前は休日に「作り置き」をしていたが、今はゆでたブロッコリーや戻したわかめなど、すぐに料理に使える「料理のもと」を作っている。
「料理のもとは時短というより、おいしくするための工夫のひとつ。私にとって料理がより面白く、よりおいしくなることが大事なんです」
新聞で紹介された調理法を自分流にアレンジして取り入れることも。例えばきゅうりの輪切り。スライサーを使えば早いが水っぽくなりやすいので、丁寧に包丁で切る。
「きゅうりは1.5mm厚さに切れば、冷蔵庫で保存してもずっとパリパリのままだと、知人に教わりました。やってみたら本当にそのとおりね」
生鮮食品の買い物は、近くのスーパーマーケットへ1人で行く。ただし、忙しいときに備え、卵やパン、ソーセージなどのお気に入りの商品は、通販で取り寄せる。重量のあるお米や野菜ジュースも宅配を利用。自分のやり方を年齢に合わせて、少しずつ見直している。
「もともと嫌いではなかったけど料理をするのは、今がいちばん面白いの。年齢とともに、居心地がいい住環境は変わっていきます。これからも台所を私にとって楽しい場所にしていきたいです」
限られたスペースを有効に使う工夫
●お皿を立てる
大皿中皿は重ねずに縦置きしたほうが、サッと取り出せる。深い引き出しの中を仕切って1枚ずつ収納。
●器の定位置をつくる
器の大きさに合わせて100円グッズで仕切り、器の定位置を決めている。目当てのものが探しやすく出し入れも楽。
●壁面を使う
壁に有孔ボードを設置。鍋敷きやざるなどをつるしている。好きな場所にフックをつけられて便利。
高森寬子さん ●ギャラリー「スペースたかもり」主宰。エッセイスト。婦人雑誌の編集者を経て、生活道具の作り手と使い手をつなぐ存在に。著書は『85歳現役、暮らしの中心は台所』(小学館)など。今は年に5〜6回、企画展を開催。
〈取材・文/松澤ゆかり〉