世界遺産の島で自然に囲まれ育った少年・サトシは不思議な“縁”に導かれ、周囲の人を巻き込みながら幸せの輪を広げていく。NTTに13年間勤務した後、健康増進事業の会社を立ち上げ、一大ブームを巻き起こした『ゲッタマン体操』を確立。高下駄履きのGETTAMANとして、走り続けるその先に見据えるものとは──。
肩甲骨ダイエットで一世を風靡
8000人を超える観客が、食い入るようにステージの4人を見つめていた。その視線の先にいるのは『ももいろクローバーZ』。
コンサート終盤のアンコールに、突如、派手なロックが流れはじめる。訝(いぶか)しがるメンバーたち。
「あれ?なんか聴こえる」
「これは?これはきっと」
すると、「アローハ!」の声が会場に響いた。ステージの下から真っ白のシャツ、黒のパンツスタイルの男性が現れた。顔は真っ黒に日に焼けて、やけに白い歯が目立つ。
「GETTAMANさんだ!!」
ステージに上がったその人は、響き渡る声で、「みなさん、サイコーですか?」
と問いかけ、そしておもむろに、
「アローハ!完全脂肪燃焼エクササイズやりますか?」
立ったまま両手を伸ばし、目の前で手の甲を重ねる。そして、ゆっくりと脇を締めながら左右に戻す。再び、手の甲を重ね合わせる。この時、お腹を引っ込めるように意識するのがエクササイズのコツらしい。
「さあ、続いて『ももクロゲッタマン体操』の由縁。両足をクロスさせます。そう、ももクロです。そのままゆっくりとしゃがみ込む。これは効きますよ。お腹、背中、下半身を一気に脂肪燃焼させるエクササイズなんです」
そこから会場は一気に群衆エクササイズの場と化し、GETTAMANは「アロハ!」の声とともにステージから姿を消したのだった。
GETTAMAN──。
“ココロとカラダをデザインし、生き方まで変えるヒューマンアーティスト”として活動。個人指導を受けるクライアントには、第一線で活躍する有名ミュージシャンやモデル、アスリート、財界人、経営者が名を連ねるが、指導は3年待ちといわれる。彼自身が考案した「肩甲骨ダイエット」は一世を風靡(ふうび)し、著書も多数あり、累計販売部数が80万部にのぼる。
また、年間100本を超える講演を実施する、まさにスーパーマンのような活躍である。
そんな彼のルーツは、鹿児島県屋久島にあった。
ガジュマルの森が自分の庭の“自然児”
1993年にユネスコの世界遺産に登録された屋久島。
1960年代後半、サトシという名の少年が島にいた。そう、後のGETTAMANである。
毎日、少年は水平線を眺めながら、潮騒の音を聞き、引き潮を追っては魚と貝を捕まえて、満ち潮に追われて陸に上がる。すぐ横には、ガジュマルの森があって、その後ろには山々が聳(そび)え立っていた。
少年は、たったひとりでガジュマルの木のてっぺんにツリーハウスを作り、そこに木のベッドを設(しつら)え、自分だけの秘密基地にしていた。
「そこに寝っ転がって、水平線を眺めながら雲に手が届くような感じで、木と木を歩いて渡れるような状態にしてました」
幼稚園に通うようになっても、サトシ少年のひとり遊びは続いた。
「狭い空間に押し込められるのが嫌で、幼稚園のバスで帰宅する時も、自分のガジュマルの森が見えてきたら、走っているバスの窓から飛び降りる。当然、ひっくり返るんだけど、それでも、何回もうまく着地するまでチャレンジするような子どもでしたね」
小学校に上がっても、サトシ少年は勉強らしい勉強をすることもなく、教科書を開くことさえなかった。
「ゲームとか、子どもが好きそうなことに興味を示さずに、自然と常に触れていて、木をノコギリで切ってみたり、蜘蛛(くも)を捕まえてみたり……」
体育館で隠れんぼをすると、普通なら跳び箱の中に隠れたりするのだが、サトシ少年の場合は違っていた。
「天井裏に隠れて、そこでじーっと我慢してるんですよ。すると誰にも見つかることはないんですね」
そのまま昼休みが終わって掃除の時間になってもサトシ少年は天井裏に隠れていた。
「そしたら、あーおしっこしたいな、と思った。でももっとサボっていたいから、天井からステージに向かっておしっこをしたんです、すると、女子生徒が“先生、雨漏りしてる!”となって、
すると女性の先生が“あれ?これ雨漏りじゃないよ。下りてきなさい!”って。私は捕まって職員室に連れていかれた。そしてバケツを持たされてずーっとHRの時間まで廊下に立たされた。背中には紙に『しょんべんたれ小僧』と書いたのを貼られて。もう一事が万事そうでした」
5人家族。父親は港の設計士で母親は保育園の保育士。弟と妹は塾に通っていたが、サトシ少年は中学生になっても、相変わらず、屋久島の自然の中にひきこもっていた。
勉強はしない。部活には入らない。授業が終わったらすぐに家に戻ってカバンを友達に預け、暗くなるまで自然とともに暮らすような毎日だった。
「今思うと、屋久島の自然の中にひきこもりながら、空から鳥の目で俯瞰(ふかん)して眺めたり、大地から虫の目で物事を覗(のぞ)き込んだりして、人間は自然の中の一部として暮らしているんだな、ということが私の心の奥底に植え込まれたみたいな気がするんですね」
しかしある時、転機が訪れる。サトシ本人も「何かひとつテーマを決めなきゃいけない」と思ったのだ。
「で、人生を生きていくうえで、大きな意義と小さな意義ってあると思うんだけど、自分にとっての小さな意義をつくろうと思ったんです」
それはトレーニングだった。毎日、家の近所の一周1・5キロメートルくらいの農道を1時間くらい走り、その後スクワットや腕立て伏せ、ダッシュ、とルーティンを決めたのだ。
「マラソン大会で優勝したいとか、部活でうまくなりたいという目標や目的は一切なく、とりあえず自分に負けないようにしようと、自分との約束をそこで交わしたんですね」
そのトレーニングは、雨の日も風の日も毎日休むことはなかった。
島の高校に通うようになっても、ずーっと釣りをしたりする日々。そんな時、誰かが囁(ささや)いたのだ。
「おまえ、このまま終わっちゃうぞ。屋久島と一緒に終わっちゃうのか──」
そこから、「島を出なきゃ」という思いが芽生え、初めて勉強をするようになった。
高校3年生の5月のことだ。
「そしたら、学年で3番目くらいになったんですよ。字も書けない、書き順もわからない、読めない。でも、暗記だけはすごいんですね。記憶力だけは。“どうせカンニングでもしたんだろ”って言われて誰も寄ってこないんだけど気にもしなかった」
そして鹿児島市内の大学に入学する。
「大学と下宿の半径100メートルくらいの中で過ごしていました。それでも毎日が楽しかった。トレーニングは続けてましたが、それ以外は自分の部屋にいた。今度は本当の意味でのひきこもり(笑)。
ただやる時だけはやろうと思って、試験の時だけは、きちんと1週間前からみんなのノートをコピーして、それを暗記して、とやってたら今度は特待生になったんですね」
そして、中学高校の社会の教師の資格も取った。この時は、教師になろうと思っていたと言う。
人気企業のNTTに就職、配属は──
この当時、就職先の人気ナンバーワンは、この1年前に電電公社から民営化されたNTTだった。
特待生で成績も良かったサトシは、幸運なことにNTTに入社した。
「最終面接では面接官が履歴書を見て“お、君スペイン語が話せるのか。ちょっと喋ってみなさい”と言われた。でも覚えたものをすぐに忘れる性分だったんで、全然出てこない。
それでパッと閃(ひらめ)いて、“ミルマスカラス・エンリケベラ……”とかメキシコのプロレスラーの名前10人くらい並べて、みなに“おお!どういう意味?”と聞かれて“明日。あなたに会えるとうれしいです”とか適当なこと言って(笑)。そんなわけで、とんとん拍子でNTTに入れることになったんですね」
入社して配属された鹿児島の支社での仕事は、出納係。
「レジを打って電話料金を収納して午後3時に仮締めをやるんだけど、必ずお金が合わない。10円、50円、100円とか。だから小銭をポケットの中に入れといて、補充してたんですね。
そしたら経理担当の先輩に“ダメよ、こういうのは事故金としてあげなきゃいけないの”と言われて。でも、事故金だらけで自分でも嫌になっちゃって、“やっぱ向いてないな”と」
そしてあろうことか、局長に「僕はNTTに入ったのに、ここはまだ電電公社のままですよ。親方日の丸のこういう仕事はやりたくない」と会社のせいにして訴えたのだ。
その翌日、サトシは「アカウントマネージャー」、通称“アカマネ”になれと命じられる。つまり営業マン、セールスマンだ。そして、鹿児島市内のマーケティングセンターに転勤となる。ここは100人ほどの営業マンが所属する場所だった。
「そこでは、ファクスやビジネスホンを売る仕事でした。ノルマもあったけど営業は性に合っていましたね。本当に花開くみたいな感じでした」
自分と同じくらいの若い経営者が営む店舗、美容室や喫茶店をターゲットにし、ピンク電話をプッシュ回線にする営業も仕掛けていった。自分でキャンペーンのチラシを作り、「取り付け無料」にして鹿児島市内全域を車で回った。
そして目をつけたのが、当時チラホラと出店し始めていたコンビニだった。
ファクスをコンビニに置いておけば、トラックの運転手、学生、ビジネスマンなどいろんな人が利用して、ついでにいろんなものも買うんじゃないか──。
そこで福岡にあったコンビニの本部に出向き、鹿児島の2店舗にファクスを取り付けさせてもらった。そして、会社に戻ると100人の営業マンの前で「みなさん、そのコンビニでお弁当などを買って売り上げに貢献してください」と告げたのだ。「ファクスを置けば売り上げが伸びる」という実績を作り上げ、コンビニファクスは、瞬く間に広がり、彼は九州ナンバーワンの営業マンになった。
「営業車に通信機器を積み込み、それを売り切るため退社時間の17時に会社に戻るまで、営業マンとして多角的な角度から企画提案をする。そんな毎日は本当に楽しかった。
屋久島で自然の中にいて人と絡むことなんてなかった私が水を得た魚のように営業にハマった。この生活が一生続くんじゃないかと思ってました。やっとユートピアに出会えたなあと」
そんな時期にサトシがよく行った店が、屋久島出身の女性が鹿児島の繁華街で営んでいたイタリア料理店だった。
その彼女がサトシに言った。
「いい?あなたね、こんなところにいたらダメよ。あなたは東京に行きなさい。そして、海外に行きなさい」
その時は、何を言っているのだろうと思った。しかし、その予言めいた言葉は現実のものとなるのだ。
エリート集団の中で初めて味わった挫折
「おまえ元気いいな。東京に行ってこい」
ある日、NTT九州の総支社のお偉いさんに呼ばれ、そう言われた。
「おまえな、九州でいちばん数学ができるやつということになっているから」
「え?私、サインコサインタンジェントもわからない人間なんですが」
「いいから行ってこい。3年したら戻すから」
要は全国のNTTの支社の陣取り合戦だった。だから、九州からも出世コースに人材を送り込む必要があったのだ。
赴任したのは、東京のNTT本社の労働部。36万人のピラミッドのトップ100人の中に入れられたのだ。
「周りは東大、京大卒だらけ。こんな色の黒い男なんて1人もいなくて、みんな色白で七三分けでメガネかけてメタボみたいな感じでした(笑)」
与えられたポストは、「年金数理人」。年金制度を数学の知識を使ってアドバイスやコンサルティングを行うスペシャリストだ。
名刺ができたら、当時の大蔵大臣だった橋本龍太郎氏と名刺交換に行かされた。
「とんでもないところに来ちゃったな」
周りはエリートだらけ。彼はその中でも最年少だった。
「みんな“さん”づけで聞いてくるんですよ。数学の問題なんかを。でも、私はわかんないから“わかんないですよ”と言うと、“またまたぁ”と言われる。それが半年続きました。でも、半年そうしてたら“あ、こいつ馬鹿なんだな”とみんな気づくんですね。バレちゃった(笑)」
厚生省(当時)と大蔵省を往復する毎日。会社には当たり前のように寝袋があり、毎晩のように泊まっていた。
「寝袋の中で、もう人生終わったな、と思いましたね。何でもできる自分だと思っていたのに、こんなにできないんだと思い知らされました」
人生を変えたトライアスロンとの出会い
疲労困憊(こんぱい)していたある日、会社の売店にあった雑誌が目に留まった。
『ターザン』。フィットネス専門雑誌である。
パラパラとページをめくると「トライアスロン・鉄人レース」という言葉が目に飛び込んできた。
(鉄人?はあー、これいいなあ。鉄人、やりたいなあ)
そう思いさっそくエントリーしてみた。
金曜日の夜。レンタカーを借りて、日比谷から千葉にある会場に向かった。『ターザン・カップ』という大会が翌日開催されるのだ。
トライアスロンとは、水泳・自転車ロードレース・長距離走の3種目を連続して行う耐久競技。別名「鉄人レース」で、世界中に愛好家がいる。
よくわからず、とにかくガムシャラに挑戦してみたら、日本で2位のプロの選手を破り優勝してしまったのだ。
「中学2年生からずっとトレーニングやってきたけど、自分がどれくらいのレベルなのか、一切わからなかった。だって、それまで体力測定なんてしたことなかったんですから」
この快挙に注目した雑誌『ターザン』は、サトシに雑誌のモデルを依頼してきた。そこからサトシは誌面を飾るようになる。ある日、それが会社の知るところとなった。上司に呼ばれて行ってみると、彼は『ターザン』を手にして、
「おまえ、数学できないのにこういうことはできるのか?こういう方向に行きたいのか?」と静かに言ったのだ。
NTTには、健康に関する会社もあった。結局、九州のトップと東京のトップが話し合い、サトシをNTTのフィットネスクラブの支配人にさせることとなった。
この当時、フィットネス業界は全国で1700か所、3000億円のビジネスだった。それぞれ平均すると1億5000万円の売上高である。しかしNTTのフィットネスクラブは、福利厚生施設だったために売り上げは5000万円だった。
まったく畑違いの現場に放り込まれた彼は、朝から晩までスタッフたちの話を聞いて回り、その後、自分で運動生理学、栄養学やフィットネス事業などの本や資料を読みまくった。調べていくと、ここの会員数は一般のフィットネスクラブに比べて3分の1。その原因は退会率の高さ。通常なら10~15%のところ30%もあったのだ。
「入会者はそんなに変わらないから、この出口を閉じればいいんだ」
思いついたのが、クラブの中にあるジム、プール、エアロビクスの3つのゾーンを使うチャレンジトライアスロンだった。水泳で1キロメートル泳ぎ、トレーニングジムで自転車を漕いで、エアロビクスのゾーンで10キロメートル走る……。
「とにかくオートクチュールで会員との距離感を縮めてやったほうがいいなと思った。そしたら4年間で4億円の売り上げになった。8倍になったんです」
次に企画したのが、実際にトライアスロンに会員が挑戦してみることだった。
そうこうしているうちに、日本屈指の佐渡国際トライアスロン大会に出場することに。最初の水泳3・9キロメートルは通常はクロールだが、平泳ぎしかできず、1000人中996位。ところが自転車196キロメートルでとんでもないスピードを記録し16位。そして最終のランニング42・195キロメートルで追い上げ結果は7位だった。
『ターザン』、そしてこの佐渡での快挙は全国的に知られることになり、さまざまな雑誌で取材を受け、一躍有名人となっていく。
仕事でもまさに「結果」を出し、社員の給料や待遇も改善できた。そんな時に、NTTの構造改革があり、社員の給料や待遇が一律になるという。そこで彼の中に「独立」という言葉が浮かんできた。
「専門特化した健康増進事業をやる会社を立ち上げよう」
スタッフに聞いてみると、全員自分についてきてくれるという。自分が会社を作って委託を受ける──その話を会社に言うとけんもほろろだった。しかし、サトシには自信があった。絶対できると信じていた。
流血とともにGETTAMANが誕生
トライアスロンで有名になっていたサトシには、いろんな依頼の話が来るようになっていた。その中に『ホノルルマラソンツアー』があった。毎年12月の第2日曜日にハワイ・ホノルルで行われるマラソン大会に出場する初心者の運動指導をやってくれというのだ。何百人の素人のランナーとハワイに行きサポートするものだった。
その時のプレイベント「アロハ駅伝」のパーティーの席上で現地の主催者に、「せっかくハワイに来ているのだからおまえも走れ!」とリクエストされた。
そして当日の朝、主催者は大きな段ボールを抱えてやってきた。見ると中身は羽織袴(はかま)でぎっしり。そして高下駄まで入っている。
すぐに高下駄をホテルの通路で履いてみた。高下駄ではどうしても体重が前のめりになる。走りにくいどころか、ストレッチもままならない。
「これはダメだと思ったんで、一応スタートラインには立つけど、すぐリタイアしようと思ったんですね。こんな馬鹿げたことできないと」
花火が上がり、ホノルルマラソンがスタートした。
そして驚いた。
「私がカランコロンと走り出したら、モーゼの十戒の海みたいにみんなが私が走るところを開けてくれるんですよ。でもね、走ってると、鼻緒が食い込んできて指の股から血が滲(にじ)んできてダイヤモンドヘッドを上がるころには白い骨が見えだしたんです」
このとき、自身のアスリート人生がこれで終わるかも、と思ったという。
「なんとか我慢しようと思い、走っている一般の人たちに“ハイ!メリークリスマス”“ハイ!グッジョブ!”などとみんなに声をかけた、痛さを我慢するために。で、ゴールしたら担架で運ばれて点滴打ってという感じでした」
そして翌年12月のホノルル空港で驚くべき対面をする。それは、空港の壁に貼られた大きなポスターに写る羽織袴で笑っている自分だった。
タイトルは「GETTAMAN」、そしてサブタイトルは「GETTAMANに逢えると幸せが訪れる」──。
これがGETTAMAN誕生の瞬間だった。
「それからもう引くに引けなくなって、このスタイルで25年間やっているんですね。みんなが私の周りに寄ってきて、最後まで盛り上げてゴールまで誘(いざな)う、というのが恒例になってお祭りになったんです」
ゴールしたGETTAMANの周りには、「ユー・アー・グレートガイ!」などと言って多くのランナーが写真を撮りにくるのも恒例である。
「本当に欲や見栄、地位とかお金などをすべて手放して、人間の美しい姿がそこに見えました。“ああ、これか!俺がやるべき健康のことってここにすべて詰まっているんだな”と思いました。それからホノルルは私のライフワークになったんですね」
ハワイ在住でハワイの邦人向け生活情報誌『Lighthouse Hawaii』の編集長・大澤陽子さん(52)は、6年ほど前からGETTAMANに誌面づくりを協力してもらっている。
「毎年、ホノルルマラソンに合わせてGETTAMANさんと特集を組んでいます。GETTAMANさんのストレッチの記事の切り抜きを会社の壁に貼ってくださる人もいるんですよ。彼は取材をしている時、スタッフに“あれ?あなた腰が悪いんじゃないの?”と気遣ったりするんです。本当に誰もが健康になってほしいという思いでいっぱいなんですね」
非常識な人間として人のために働く
最初にホノルルマラソンに出場した年、帰国したサトシは、上司に呼ばれた。
「おまえ、許可するから。来月株式会社つくれ」
山が動いたのだ。そして、本社の社長に呼ばれた。社長はサトシにこう言った。
「君、クリエイティブな人間だよな」
「そ、そんなカッコいい言葉、意味がわかんないです」
「いや、そうじゃないんだ。君は非常識な人間なんだ。非常識なものを人に心地よく提供することが今の世の中はできていない。だから、君はそのまま非常識な状態で人の役に立つように働きなさい」
結局、NTTには13年間勤めた。独立してからも毎年の健康増進施策、健康経営などの講演やイベントなどNTTとの関わりは続いている。
「本当に社会人としての性格人格才覚、すべて学びました。NTTは、私にとって光り輝くもの。だから恩返ししていきたいと思っています。誠実に大義を持って邁進(まいしん)できるのも、昔転勤を許してくれた人たち、今の首脳陣の方々のおかげ。
“あいつNTTにいたんだよ。落ちこぼれだったんだけど、今、頑張っているんだよ”と言われるように生きていきたいんです」
NTT西日本の代表取締役副社長の坂本英一さん(59)は、GETTAMANが本社勤務のころ、同じフロアで働いていたという。
「当時は面識がなかったんですが、テレビで彼の活躍は知っていました。7年ほど前に社員の健康増進のために研修などで来てもらい、以来親しくなって。コロナもあり2年以上会っていませんが、ちょくちょくメールのやりとりはしています。
彼は“自分を育ててくれたのはNTTだ”と言ってくれて、とてもうれしく思いますね。破天荒なように見えて実はとてもジェントルマンで勉強熱心な人です」
別世界だと思っていたテレビ番組に出演
2011年、GETTAMANは日本テレビ『行列のできる法律相談所』の出演メンバーが佐渡トライアスロンにチャレンジするという企画のオファーを受けた。1年間トレーニングのサポートをするというものだった。その時のプロデューサーは、現日本テレビの執行役員、高橋利之さん(55)。さらに2012年に出演した『スター☆ドラフト会議』も高橋さんが手がけた番組だった。これはさまざまなパフォーマーが登場するオーディション番組だった。
「楽屋はいろんな人がうじゃうじゃいて、その中で、私はひとり、心細くて寂しくて、どうやって体裁を整えればいいだろうということしか考えてなかった。テレビの制約の中でがんじがらめになっていたんですね」
そして本番10分前に高橋さんがやってきてこう言った。
「GETTAMAN、嘘はないですよね」
本人の目を見据えて言ったその言葉に、本人は身が引き締まる思いがしたという。
「台本なんか関係なく、剥き出しのGETTAMANでいいんだと言われた気がしました。テレビの制約とかカメラとか、そんなことを一切意識せずに一極集中。それでスイッチが入ったんですね」
この番組の中で、肩甲骨を動かすゲッタマン体操を紹介したところ、大きな話題に。
2020年には、ももいろクローバーZとの“内臓力”をテーマにしたコラボ企画本が出版されると、高橋さんは『世界一受けたい授業』でさっそく取り上げてくれた。
「そこでも、一気にはじけて“アロハ!みんな元気ないですね!”とやりたい放題できるようになった。世界一絡みづらい男、という称号をいただけるくらいにね(笑)」
GETTAMANには心の強さがあると高橋さん。
「彼には、これを何とか伝えたい、広めたいという思いがあるから強い。みんなを健康にしたいというひとつ芯があるから、そのほかの部分はどんなにいじられても平気。タレントさんたちも、彼がやろうとしているスポーツや身体づくりを認めている。だから彼がどんなに変なことを言ったり、滑ったとしても番組として成立するんですね」
高橋さんは、GETTAMANには目の前にいる人だけではなく、そのバックグラウンドも見えているという。
「彼には、その人の友人や家族も含めて本当に元気になってほしいと思っている。あなたの奥さんはどうですか、恋人はどうですか、あなたの会社の人は、という声かけを本気でやる。だから広がっていく。多分、彼には人が背負っているものが見えているんじゃないかなって思いますね」
自分の“ルーツ”屋久島への恩返し
16年前、GETTAMANは、屋久島に『屋久島フィットネスセンター』を設立した。敷地は600坪。56機種のトレーニングマシン機器を置いた本格的な施設だ。
「自分は屋久島では、自然とばかり関わっていた。だから、屋久島の人に関わる仕事をしようと思ったんです。で、テーマを3つ決めた。
1つ目は、利用者は島の会員さんのみにして観光産業には属さない。2つ目が儲(もう)けない。3つ目は自分が前に出ないこと」
GETTAMANは、16年前からこのセンターで、毎月3泊4日で島民ケアを行っている。島じゅうから看護師、議員、漁師などさまざまな人が身体の悩みを抱えて相談にやってくる。それをひとりひとり彼は訊(き)いてあげるのだ。
「朝の9時から夜の11時まで、全然休めない。着替えるのも飛行機の中。そこで、自分自身に何が大切かを、屋久島の人たちと触れ合う機会を得て、やっと理解できるようになっていったんですね」
屋久島、NTT、ハワイ──。すべてがGETTAMANが誕生するために必要な場所だった。
[空から鳥の目で俯瞰して眺め、大地から虫の目で物事を覗き込む──]
GETTAMANは、屋久島が教えてくれたというこの言葉を何度も口にした。今年の年末もGETTAMANはハワイへ飛ぶ。世界中に健康を届けるために。そして帰ってきたら、次は日本を健康にする日々がまた始まるのだ。
〈取材・文/小泉カツミ〉