あの『男闘呼組』が29年ぶりに活動を再開した。次は『光GENJI』も……!?
キーマンとなる元メンバー・大沢樹生にズバリ、再結成の可能性を尋ねた。
「期待する気持ちはわかります。男闘呼組はカッコいいですよね。メンバーそれぞれが、いい年の取り方をしていて」
ジャニーさんに「辞めたい」と電話
大沢は、穏やかな表情で話す。スーパーアイドルとして喝采を浴びていた若き日を思い出しているのだろうか。
「姉がジャニーズ事務所に応募書類を送ったのは、小学生のとき。野球や水泳をやっていて運動は好きだったけど、芸能界には興味がなかった。学校イチのワルで(笑)、仲間と別れさせるため、文京区の公立中に越境入学させられたのですが、そこでもトラブって出戻り。でも本来行くはずの中学校が“満タン”で、敵対していた中学に入学したら、すぐトイレに呼び出されましたね(笑)」
やんちゃな子どもだったが、'82年にジャニーズに入所後まもなく、内海光司、中村繁之と『イーグルス』を結成。
「ほかのメンバーよりも2つ下だったし、レコーディングのときも1人だけ変声期を迎えていなかったので、俺の声はうっすらしか入っていないんじゃないかな(笑)。年下でも負けてなかったですよ。“口答え大魔王”って言われていましたから(笑)」
中村繁之がソロデビューしてから“自然消滅”し、'85年からはNHKの音楽番組『レッツゴーヤング』内で活動する『サンデーズ』のメンバーになる。
「長山洋子、保阪尚希がいたので、いま考えると当たり年ですね。サンデーズは“ソロデビューの登竜門”と言われていましたが、残念ながらそれは叶いませんでした」
17歳になり、ジャニー喜多川さんに“辞めたい”と電話する。
「そうしたら“ユー、ローラースケートやりな”って。ドラマには出ていましたが、また“先輩のバック”に戻されてしまっていたので、これがラストチャンスだと思ったんです。光GENJIとして、'87年8月19日に地方キャンペーンを3か所くらいやって、集まった観客は150人くらい。でも『夜のヒットスタジオ』に出た後、その週末の大阪に何万人が来たんです」
一気にブレイク、多忙な日々が始まった。1日3公演は当たり前。合間に雑誌やテレビの取材を受ける。
「それは大変でしたよ。しんどかったけれどもステージに立っちゃえば、不思議としんどさはなくなるんです。俺はライブが一番好きでした」
今では考えられないハードスケジュール。若さと勢いで乗り切った。
諸星和己との不仲説を直撃
「俺らのころは、打ち身、打撲、捻挫、骨のヒビはケガに入らなかった。ステージからスケートを履いたまま2メートル下に落ちて、何かの角に脛をぶつけたことも。半ズボンだから肌に“直”で、血がプシューって噴き出して。脛って穴が開くんですね。噴き終わったら“泉の水”みたいにドクドク血が流れてきた。それでも応急処置のテーピングをして、最後までやり切りましたよ」
激痛だったが、アドレナリンが出たという。得意のバク転でもアクシデントが。
「ステージ上で数回転したとき、メンバーが飛び出すための穴に着地。ズボーッと蓋が抜けて。その角の部分で背中をズリズリズリ~って擦りながら落ちたんです。背中の皮がむけてヒリヒリしたけど、やり切りましたよ。病院には行きませんでした。そういう経験をして、寿命が縮まったのか、タフになったのかはわかりませんけどね(笑)」
睡眠は3時間。忙しくても、プライベートの楽しみを削ることはなかった。
「寝る間も惜しんで飲みに行っていましたね。オン・オフは必要ですから。夜中の1時、2時から振り付けを覚えたり、打ち合わせをしたりもありました。“眠くて振り付けが頭に入んねぇよ”みたいなことを言ったり(笑)」
'88年、『パラダイス銀河』でレコード大賞を獲得。オリコン年間売り上げの1位から3位を独占した。
「言ってしまえば“日本の頂点を極めた”わけですよね。ただ“大賞を取れば稼ぎがヒト桁違ってくる”と言われてましたけど、何にも変わりませんでしたね(笑)」
一方で、グループ内には軋みが生じていた。大沢と諸星和己の“不仲”が噂されるようになる。
「仲が悪いっていうのは、ちょっと違うかな。合う、合わないって人にはあります。そこだけですね。彼は彼で素晴らしいエンターテイナーだと思いますよ。でも、自分とはキャラも方向性も、追求するものも違うんです」
自由奔放な諸星を、ほかのメンバーが冷ややかに見ているとも言われていた。
「目立つから“光GENJIには気をつけろ”みたいに、ほかの事務所の人は思っていたでしょうね。でも実際に諸星が女性アイドルを口説いているのを見たことありませんよ。メンバーのプライベートには興味がなかったし。俺は女より酒が好きだったんで」
大沢は、'94年に光GENJIを脱退。ジャニーズ事務所も去った。
気になる『光GENJI』再結成は!?
「志が俳優に向いていたんです。キャリアのすごい役者さんを脇に従えて主演を張るというのが、自分の中では非常におこがましく、許せなかったんです。あのまま30歳までやってからの解散だと、手遅れになるんじゃないか。これは見切りをつけるべきだって。退所は、決断と行動の結果でした。辞めてからはジャニーズに対して、光GENJIに対しての“拒否反応”はありましたよ。“干される”っていうのは、わかっていましたから」
脱退2年後に喜多嶋舞と結婚。息子が生まれるが、'05年に離婚。'13年には“親権問題”が発生する。実の息子ではないことがわかったのだ。
「親権問題ではなくて、タネ問題です(笑)。彼(息子)とは仲よしになったし、連絡は取り合っています。元嫁にも根に持つこともないし、許す気持ちがあるんで」
'08年に再婚、'14年には女児が誕生。俳優として着実にキャリアを重ね、'18年にはプロレスデビューも果たした。
「ジャニーさんとメリーさんには本当に感謝しかない。でも、大きな組織から飛び出して、これまで経験できたことは、すごくよかったと思います。辞めたことで広い視野が得られたことは確かですね。映画監督の夢も叶ったし、昨年はキックボクシングの試合もしました。今も庭に吊るしたサンドバッグで練習しています。50歳を過ぎた今が一番体調がいいかも(笑)」
'16年には諸星と一緒にディナーショーを開催した。
「ファンが喜ぶのなら、1度くらいやってみようって。でも、それ以降は会っていないんです。やっぱり人間、無理しちゃいけないですね(笑)」
照れくさいのか茶化して話すが、再結成に前向きな気持ちもある。5年前には30周年で集まり、また一緒にやろうと盛り上がった。
「そういう話があれば、喜んでしますよ。一度は全員が光GENJI再結成に向けて動いていたことは確かです。でも、それなりの条件が俺にもあります。50歳過ぎて過去のパフォーマンスを再現したいと思わないし。7人そろった年相応の存在を見せたいんで。
過去と同じことをやるようなら、自分は、それはちょっと……。中にはローラースケートを練習しているヤツもいるらしいけど(笑)。その温度差が、メンバー内にあるんじゃないですか」
リスタートに向けて必要なのは“100パーセントの勇気”だけ!