「大根、白菜、玉ねぎを植えたんでひととおり作業は終わりました。冬場は雑草がないので、そんなに作業はないですからね。あとは一面にネットを張って、スナップエンドウを越冬させないといけないんです。それをやったら今シーズンは農閑期に入ります」
野菜作りについて、プロの農家さながらに話すのは、経済アナリストで獨協大学教授の森永卓郎さん(65)だ。
お金のプロが「トカイナカ」で兼業農家、はじめました
埼玉県所沢市。森永さんは自宅から自転車で行ける場所に60坪ほどの畑を借り、農作業に精を出している。
「今は大学と(自身が運営する)博物館がメインで、あとはテレビとラジオと講演。著作も4冊、動いているほか、連載が20本ある。それらの仕事をこなしながら、ミニカーの図鑑も作ったりしています。お日さまがのぼっている間は空いた時間に畑に行って、夜は博物館に行って……というような生活です」
庶民目線で経済を読み解き、読者にもおなじみの森永さんは、ただでさえ多忙な毎日に農業までも取り入れていた。
2018年、森永さんは群馬県昭和村にある『道の駅あぐりーむ昭和』が運営する10坪ほどの畑で「マイクロ農業」を始めた。
マイクロ農業とは、森永さんいわく「本格的な農業ではないけれど、家庭菜園よりはちょっとだけ本格的な農業」のこと。
「昭和村って野菜王国なんですよ。赤城山が噴火したときに、降ってきた溶岩が細かくなって土の中に入っているので、水はけがいいのに水分を蓄えられる奇跡の土地になっている。だから野菜を作っている人がいっぱいいて、道の駅で安く売っていたので、所沢からちょくちょく通っていたんです」
そのうち、『道の駅』の駅長とも親しくなり、「体験農園をやろうと思うんだけどやってみませんか?」と声をかけられた。
「最初は断ったんです。私の仕事は呼ばれるとすぐ行かなきゃならないし、畑はちょっと放ったらかしにすると雑草だらけになっちゃう。そしたら駅長さんが“森永さんが来られないときは、私が草刈りしますよ”と言ってくれて。そこで一から農作業を教えてもらったんですね。
今思うと、土づくりから、苗から種からハウスまで全部やってくれていたんで、実は私が手がけた作業は全体の2~3割くらいでした」
慣れない農作業は苦労の連続。しかし、大自然の中で土をいじっているだけで気持ちよく、また作物が育っていく様子を見て、子育てにも似た喜びを味わった。
農作業の健康効果
さらに、思いがけない効果もあった。
「それは足腰が鍛えられるということ。一切農薬を使っていないので、雑草は天敵。私は草抜きを立ったまま、中腰の姿勢でやるので、太腿の筋肉に大きな負荷がかかるんです。つまり、スクワットと同じ効果がある。それを3時間続けるのだから、ジムに3回通ってやる運動を1回でやるようなもの」
やればやるほど楽しくなり、2年目には田んぼでの稲作にまで挑戦した。『道の駅あぐりーむ昭和』で10年以上、駅長を務める倉沢新平さん(72)が言う。
「森永さんは有名な方なんだけど、話すとすごく気さくな人。いつもジャージで来ていて、草むしりをしているうちに、お尻がはだけたりする。まるで普通のおっさんという感じでしたね(笑)」
ところが'20年の春。コロナ感染拡大に伴い、昭和村に東京からの来訪者は入れなくなってしまった。
「私はやる気満々だったんだけど、どうしようと困っていたときに、カミさんがうちの近所で耕作放棄になっていた30坪の畑を借りてくれました。畑を貸してくれたおじいちゃんが亡くなったので、今は別の畑でやっています」
トカイナカで年金13万円の暮らし
「トカイナカ」という言葉がある。これは「都会」から程よく離れていて、しかも通える距離にある「田舎」を指した造語。都会の利便性と自然豊かな環境を両立できるライフスタイルとして近年、注目が集まっている。
ノンフィクション作家の神山典士さん(62)は、埼玉県ときがわ町の古い民家を「トカイナカハウス」として活動の拠点とし、今年6月には『トカイナカに生きる』(文春新書)を上梓している。そのきっかけとなったのが、森永さんだった。
「2年半ほど前に森永さんにインタビューしたんです。そのときのテーマが“人はいかにして幸せになるか”。所得だけでなく幸福度も含めて判断すると、トカイナカという選択になると話されていたんですね。だから、森永さんの提唱するマイクロ農業は、生き方の哲学でもあるんです」
生産性が叫ばれ、いかに効率的に稼ぐかということが重視される現代。そんななかで森永さんは、自身の取り組むマイクロ農業を「これほど非効率で生産性のないものはない」と言い切る。
「天気ひとつをとっても思いどおりにいかない。作物は狙ったとおりに収穫できるとは限らない。予測不能。だから楽しいんです。楽しいことって大抵が非生産的だし、効率の悪いことばかりですよ」
コロナでのめり込んだマイクロ農業
マイクロ農業にのめり込んだきっかけは、2020年からのコロナ禍だった。
「仕事が激減しました。講演はすべてなくなるし、ラジオの生放送に対応するために週に2〜3日、短時間だけ東京に出かけるほかは、ずっと埼玉の家にいる。とはいえ、暇を持て余しているわけではまったくない。晴れた日は畑に出て、雨の日は博物館で展示物の整理をしていました」
そんな日々を過ごしているうちに、森永さんは「ひとり社会実験」をしてみようと思い立つ。
「日本の年金制度は、現役世代が高齢者を支える仕組み。ところが保険料を払う現役世代が減っているため、今後、年金がどんどん減っていきます。厚労省によると現在、夫婦2人が受け取る厚生年金は月21万円。それが30年後には最悪13万円まで減ります。国民年金は現在、月6万5000円弱ですが、3万9000円まで減らされる。
“老後2000万円”が話題になったけれど、こうした状況のなかで貯金を持ってない人はどうやって生きていけばいいのか。それを自分自身で実験しようと思ったんです」
いかにも経済アナリストらしい挑戦である。
人間が生活していくうえでの基本の1つ、住居費は森永さんの場合、30年以上前に購入した自宅のローンが完済しているので、一切かからない。
「ざっくり言うと、都心の住宅地は坪単価500万円。でも、うちの地元なら50万円、(埼玉県)ときがわ町だと5万円なんですよ。なのに東京への電車の所要時間って、30分くらいしか違わない」
と、トカイナカの利点を強調する。自然豊かな環境を活かし、自給自足ができればなおいい。
「食べ物を自分で作ると支出が激減します。もちろん肉や魚などは買いますが、うちは米を買う必要がない。九州の佐賀県が妻の実家なんで、米とお茶は送ってもらえるんです」
電気は、自宅とは別の場所に設置した太陽光発電でまかなっている。
「ひとり社会実験を始めたもう1つの理由は、このままだと温暖化で地球が壊れてしまうから。地球を壊さない生き方を考えて、太陽光発電を選択しました」
そうして取り組んだ実験の結果は、「都心じゃ厳しいけれど、トカイナカであればわけない」と森永さん。
「家賃はかからないし食費が半分くらいになって、電気代もかからない。トカイナカなら、夫婦2人が月13万円の年金で十分暮らしていけます」
マイクロ農業に加えて、トカイナカでの暮らしを支える重要な要素が、コロナ禍で広まったリモートワークだ。
「取材はほぼリモートで受けていますし、ラジオは自宅で録音したり、電話出演したりする番組もある。いまやほとんどの仕事がリモートで事足りています」
森永さんのシンクタンク時代の友人は先日、群馬県の安中榛名に転居したという。
「聞けば、仕事はリモートが多く、安中榛名から東京駅まで新幹線で1時間だと。うちより近い(笑)。新幹線代もそれほどの回数は乗らないから、たいしたことはないと言っていました。何がなんでも都心に住まなきゃいけない時代ではなくなった。世の中の構造が様変わりしたんです」
マイクロ農業で晴耕雨読の町おこし
森永さんが実践する「マイクロ農業」は町おこしにもひと役買っている。富山県中新川郡にある舟橋村が好例だ。
「舟橋村は人口3000人。日本でいちばん面積の小さい村です。村内には、工場が1つあるだけで、農業が主体となっていました」
財政状況は厳しく、何度となく周辺市町村との合併話が持ち上がったが、村の人々は「自分たちの村は自分たちで守る」と、合併を拒否したのだという。
そんな舟橋村の人口は意外にも増え続けている。1985年には1419人だったが、2015年には2982人とほぼ倍に。舟橋村は県庁所在地の富山市に隣接していて、富山駅までは富山鉄道の越中舟橋駅から5駅、15分の距離。富山市の人口増加に伴いベッドタウンとしての需要が高まったためだ。
加えて、遊休農地を活用した農業施策も評判を呼んだ。
「舟橋村では高齢化で離農する農家が増えていました。そこで、村が遊休農地を借り上げ、細かく区分してサラリーマン世帯に貸し出したんです。富山市で働くサラリーマンが週末になると、村が指導して細分化した農地を耕しているんですよ」
実際にプロの農家に、農作物の作り方を指導してもらうプログラムもある。さらに舟橋村では「文化振興」を最優先政策に掲げている。
「村長は駅に隣接した、どでかい図書館を建てたんです。県からは分不相応と批判されたそうですが、そのおかげで住民1人当たりの貸し出し冊数は年間29冊と、日本一に。立派なホールもあり、各種の催しものが開かれ、住民もよく参加しているんですよ。舟橋村は、住民の文化・教養のレベルを上げていけば人口は増えていく、ということの見本といえますね」
都市で働いて、短時間通勤で緑に囲まれた自宅に帰る。そしてきれいな空気の中で農作業に汗を流す。
「雨の日には図書館で本を借りて読書にふける。まさに晴耕雨読なんですよ」
自己主張を叩き込まれた海外生活
森永さんは東京都出身。好奇心旺盛で、興味が湧くと、のめり込む性分は子どものころから変わらない。最初にハマったのは、おもちゃのミニカー。毎日新聞の記者だった父親の留学・異動に伴い、欧米で暮らした少年時代の心のよりどころだった。
「オーストリアのウィーンで地元の小学校に転入したため、ドイツ語も話せず、現地の子どもたちとコミュニケーションが取れない。いじめられ、ひきこもり状態になっていました。それを案じた父親がミニカーを買ってくれたのがきっかけです」
小学1年生のころにアメリカ・ボストン、4年時にはウィーン、5年時にスイス・ジュネーブと転々として過ごした。その後、日本へ帰国したのだが、森永さんは当時を振り返り「最大の挫折体験」と苦笑する。
「アメリカでは日本じゃ食えないアイスクリームやステーキを食べすぎて、デブになってしまったんです。デブで運動能力が低くて、日本語がしゃべれない。格好のいじめのターゲットでしょう。中1までいじめられていましたね」
日本での生活にも慣れたころ、中学生になった森永さんはクラスで1番の成績に。いじめられることはなくなったが、毎日のように廊下に立たされていたという。
「なぜって、先生の言うことを聞かないから。それまで海外にいたこともあって、私は従順じゃなかったんです。欧米では、たとえ小学生であってもただ黙って授業を聞いているやつは、価値がないとされるんですね。わからないことは聞かなきゃならない。その考えが染みついていました。だから、知らなかったら聞くし、おかしいと思ったら“それはおかしい”と言う」
相手が教師や大人であっても、森永さんは態度を変えなかった。
「例えば、数学で『ピタゴラスの定理』を証明するときに僕だけが“そのやり方は変です”と言って、教師と戦っていました。試験の答案用紙をすんなり受け取った記憶は1回もない。全部、採点が正しいかどうか食ってかかっていましたから。今思うと嫌われて当然なんですけどね(笑)」
テレビでも口角泡を飛ばしながら自説を主張し、おかしいことはおかしいと主張する。森永さんのスタイルは、このころから定まっていたのだ。
元・特攻隊の父が教えた戦争の現実
もうひとつ、森永さんの人格形成に大きな影響を与えたことがあった。父親である京一さんの戦争体験だ。
「父親が特攻隊員だったということが大きかったですね」
太平洋戦争中、大学生だった京一さんは予備学生として海軍に召集されていた。
「人間魚雷の訓練をしていて、終戦があと2週間遅れたら、敵機へ突っ込んでいたそうです。父は広島の潜水艦で訓練を受けていました。訓練が終わり海面へ浮上して、ハッチを開けた瞬間、目の前で原爆が爆発したそうです」
森永さんが40代のころだ。戦争特集のテレビ番組に出演した際、「原爆が上空100数十メートルで破裂する」と聞いて、森永さんはとっさに「え、地上で爆発したんじゃないんですか?」と尋ねた。その放送を偶然見ていた京一さんは、帰宅した森永さんにこう言った。
「おまえ、そんなことも知らないのか」
「なんで親父、知ってんの?」
「俺は目の前で見たから」
森永さんはこのとき、父親が被爆者だと初めて知った。
「父は被爆した事実を誰にも言えなかったんです。被爆者というだけで結婚できない差別があったから、ずっと母を何十年もだまし続けなければならなかった。原爆の被害は数十万人の命が奪われただけでなく、実は延々と、さまざまな形で続いているんです」
森永さんの訴えや主張がSNSで批判も
森永さんは「戦争反対」「核兵器にも絶対反対」と訴え続けてきた。テレビなどでそう主張すると、SNSで批判を集めることも少なくない。
「私がいちばん叩かれたのが、“ならず者が日本に攻めてきたらどうするんだ?”と問われて“僕は竹槍で戦います”と答えたとき。ネットで“森永が真っ先に死ね”と書かれて、ワーッと拡散された」
何も武器がなければ竹槍で戦い、マシンガンがあればそれで戦う。ただし、「相手の国から攻撃を受けたら」というのが前提。それが森永さんの真意だという。
「つまり“専守防衛”ということ。だから私のイメージにいちばん近いのはウクライナなんです」
ひとたび戦争が起きると経済は大きな打撃を受け、庶民の暮らしほど壊滅的になる。だから、非戦の誓いを破る憲法改正には反対。暮らしを壊し庶民を苦しめる不平等な経済政策にも反対。それが森永さんの持論だ。
「経済の仕事をするようになって、富裕層と付き合うようになったんです。それで彼らが病気だと気がついた。
例えば、1億円あれば遊んで暮らせるといいますよね。ところが富裕層の人たちは100億円も持っているのに、200億、さらに倍と欲しがる。これは一種の病気です。その最も重い病にかかっているのが世界一の大富豪のイーロン・マスク。私は、こいつらと戦わなきゃいけないと思った。ずっと戦っているんだけどまったく勝てない(笑)」
そう話しつつ、森永さんはどこか楽しそうだ。
「彼らも金もうけだけじゃなくて、ミニカーを集めたり畑を耕したりして楽しんだら、考えも変わるだろうにね」
多忙を極める中、経済アナリストに
社会人になってからも「好きなことを追求しよう」と決意していた森永さん。都立高校から東京大学を経て、日本専売公社(現在のJT)に入社。2年後には日本経済研究センターに出向し、その後、経済企画庁総合計画局にも出向した。
「日経センターでも、経済企画庁でも同じような仕事をしていました。“会社に仕事を決められるのは嫌だ”と思っていたから、好きなことをしよう、とわりと早くから決めていましたね」
1990年代からはメディアにも登場し始め、「経済アナリスト」という肩書を使うようになる。テレビ朝日系『ニュースステーション』をはじめ多くの番組に出演、著作も多数著すように。
「就職してから30年以上、年間6000時間くらい働いていたんですよ。いちばんひどかったときは、1日2時間睡眠の22時間労働で、年間1日も休みなし。そんな生活を10年くらい続けていました」
シンクタンクに勤めながら、多くのテレビ番組に出るようになった2000年ごろは、最も多忙を極めた。
「当時、テレビやラジオのレギュラーが16本、雑誌の連載は37本も抱えていました。毎日、原稿の締め切りや取材を10本はこなしていた。自宅に帰るには帰っているけれど、ちょっと寝て、また出ていく感じでしたね」
妻の弘子さん(63)はこう話す。
「月曜の朝から金曜の夜まで帰ってこないうえ、土日も仕事という日々が何十年も続いていました。
それがここ数年、コロナで毎日、それも四六時中家にいるようになってストレスでしたね(笑)。ただ、最近は畑と博物館に行くことも増えたので、少し楽かな」
長男の康平さんも経済アナリストに
森永さんには2人の息子がいる。長男の康平さん(36)は証券会社での勤務を経て、森永さんと同じく経済アナリストとして活動している。父親と同じ「経済のプロ」の道を歩むようになったきっかけを、康平さんはこう話す。
「僕は小児喘息で走ったりできなかったんです。不憫に思った父が“絵でも描けばいい”と、くれたのが、シンクタンクでの勤務時代に持ち帰ったレポートの裏紙。最初は絵を描いていたんだけど、同級生にいじめられてやめちゃった。それでヒマになって表側を読むようになったんです。もちろん、最初はチンプンカンプン。中学生になると(レポートの内容に)興味が湧いて、親父に“これ、どういうこと?”と尋ねると、マクロ経済とミクロ経済の分厚い教科書を手渡されたんですね」
経済関係の本は大量に家にあった。康平さんは、それらを読んで独学で学んだ。大学は経済学部に進んだが、入学前から基礎知識が備わっていたために、ほとんど大学に行かなかったという。
康平さんが言う。
「父はいつも不在で、わが家は母子家庭のような状態でした。唯一、毎年夏休みに家族で沖縄に行くのが恒例だったんです。僕は今、父の同僚や後輩だったみなさんと仕事をすることもあるんですが、当時の父が夏休みを取るために、必死で仕事をしていた話はよく聞きましたね。
そんな父に母はいつも振り回されて、かわいそうに思っていましたよ。最近でも、父が仕事で手いっぱいのときは、母が畑の水やりをやらされているんです(苦笑)」
多忙を極めた生活はやがて身体をむしばんでいく。6年前、森永さんは医者から「このままでは余命半年」と警告を受けた。
「正直なところ、自分でも死ぬだろうなと思っていた。すごい糖尿病でしたから。入院するレベルのね」
ライザップでのトレーニングを始めて減量にトライしたのは、ちょうどそのころだ。
「あれはCM契約だったんで、毎月計量があって、100グラムの誤差も許されないんです。まずはトレーニングに入る前に15キロくらい落として。そのあと、20キロくらい減量したんです。それも、たった2か月で」
減量後も超多忙な日々は続いていた。そこへコロナ禍が襲い、マイクロ農業を軸に据えた生活に様変わり。現在の体調はいいという。
「医者たちがびっくりしていたんだけど、糖尿病が完全に治っちゃったんですよ。膵臓が壊れていなかったおかげらしい。こんなこと、めったにないって言っていましたね。今も検査はしていますが、治療はしていません」
前出の神山さんが言う。
「森永さんにとって、マイクロ農業とは単にライフスタイルのことだけじゃなくて、生き方の激変だったと思いますね。実際、コロナ禍の前は番組出演もすごいし、睡眠時間もほとんどなかったはず。今年の夏に森永さんの畑に行ったとき、その畑には水道がなかったんですが、森永さんが2リットルのペットボトルを10本、自転車に積んで汗だくでやって来た。その姿を見て、以前の不規則な生活が想像できないほど、本当に健康そうだなあと思いましたよ」
オタク・パワーがすべての源泉
森永さんといえば、ミニカー収集のコレクションをはじめ、オタクとしても有名だ。
埼玉県・新所沢駅から徒歩10分ほどの場所に、2014年、森永さんは自身のコレクションを展示する『森永卓郎B宝館』をオープンさせた。毎月第1土曜日の開館日には、全国から多くの人々が押し寄せる人気スポットになっている。
3階建ての瀟洒なビルの1、2階部分が展示室である。まさに圧巻のコレクションは、ミニカーだけで3万台。さまざまなフィギュアをはじめ、テレビ局のノベルティーグッズ、ハンバーガーチェーン店の景品、崎陽軒の醤油入れ、鉄道模型などなど、およそ12万点が所狭しと並ぶ。
これらのコレクションを本格的に収集し始めたのは大人になってからだという。大学在学中にミニカー熱が再燃、そしてテレビに出始めたころ、運命的な出会いを経験する。
「玩具コレクターの北原照久さんがMCをしている番組のレギュラーになったんです。それで“コレクター北原菌”に感染しちゃった(笑)。北原さんのコレクションはポップでおしゃれだけど、私が集めるのは本来、ゴミになるものばかり。グリコのおまけも大正時代から現代まで1万種超がそろっています。グリコ本社にだって3000しかない。私はかわいそうで捨てられないものを集めて、たまってしまったんです」
来館者にはリピーターも多く、全国のオタクが集い、一種の聖地のようになっている。
世界中のマニアが感激するコレクション
「世界中からマニアがやってきます。欧米、アジアなど、先日来てくれたメキシコの人は“ここにあるモノはどこにも売ってないモノばかり。だからすごい”と感激してくれました」
最近では、ファンが断捨離して、自宅などから出てきたコレクションを段ボールごと、B宝館へ送ってくるケースも増えてきた。
「このビルの3階には、そうして送られてきた、まだ陳列されてないコレクションがたくさん置いてあるんです。整理だけでも大変ですよ」
B宝館では、妻の弘子さんとスタッフの川岸靖子さんが来館者の対応にあたっている。館内のコレクションをすべて並べたのが、川岸さんだ。
「展示物を並べるだけで3年かかりました。オープン前日には毎月、横浜から泊まりがけで来ています。でも、楽しいですね」(川岸さん)
B宝館をつくるのにかかった費用は、なんと総額1億8000万円。
「固定資産税も取られるし、中身はガラクタなのにね(笑)。オープンから8年、人件費は出ませんが、イベントに展示物を貸し出すようになってから、ようやく収支がトントンになってきました」
前出の長男・康平さんは、B宝館を「父のワーカホリックの原動力だ」と言う。
「すべてのモチベーションがあのコレクションにあった。それは父のいいところだと思います。いろんな大人がいますけど、しょうもない大人より確実にピュアではある。人間は成長とともにピュアな部分が消えて、自己承認欲求ばかりになるでしょう。でも、父は“自分が楽しければいい”という人。それって実はとても大事なことなんですよね。そこだけは認めています」
森永さんには現在、5人の孫がいる。年に何回か「じいじ、ばあば」に会いにやってくる。そのたびに孫たちを畑に連れ出し、泥まみれになって遊ばせるのが常だ。
「畑仕事もあるし、B宝館もある。静かな老後は当分、やってくることはないでしょうね」
そう話す弘子さんの傍らで、森永さんはほがらかに笑うのだった。
取材・文/小泉カツミ(こいずみ・かつみ) ノンフィクションライター。芸能から社会問題まで幅広い分野を手がけ、著名人インタビューにも定評がある。『産めない母と産みの母~代理母出産という選択』『崑ちゃん』(大村崑と共著)ほか著書多数