天才子役としてデビューし、今年芸能生活50年となる女優の杉田かおるさん。“毒舌”なもの言いでバラエティー番組に引っ張りだこだったのも久しい。芸能活動を休み、慢性閉塞性肺疾患だった母親の在宅介護に4年半携わる。女優業に復帰し、講演やYouTubeで健康についての情報発信を行う杉田さんの今とこれまでを追った。
芸能生活50年目を迎える
「『パパと呼ばないで』の放送が始まったのが10月4日だったので、今月(取材時)でちょうど50年。だから自分へのご褒美と言い訳をして、毎日お祝いに美味しいビールを飲んでいるんです(笑)」
7歳のときドラマデビューし、今年芸能生活50年を迎えた女優の杉田かおるさん。取材で訪ねたのは杉田さんの自宅近くの湘南のカフェで、まずはこの大きな節目を祝い、湘南の地ビールで乾杯となった。
「ビールを飲みながらの取材というのもちょっと不謹慎ですけど(笑)」と杉田さん。50周年を迎える現在の心境はと尋ねると、「自分の中ではあまり実感がなくて。ただ“あの人は今”の取材が定期的にくるので、そこでそんなに長い時間がたったんだと気づかされます」と朗らかに笑う。
子役としてキャリアをスタートし、激動の芸能人生を歩んできた。その長い年月を改めて振り返り、「3つのブレイクがあった」と語る。
1つ目のブレイクが、1972年放映のドラマ『パパと呼ばないで』。主演の石立鉄男さんの姪(めい)・チー坊役を演じ、天才子役と絶賛された。
「あのころちょうど映画のスタッフがテレビに流れてきていたときで、だからみんな本当にプロフェッショナルでした。例えば泣きの演技にしても、寄りでは目線を落とし、引きでは顔を落とすんだ、そこで表現できるものが違うんだと一から丁寧に教わって。
技術さんには照明の神様のような方がいて、私の顔を一番キレイに見える黄金比で照らしてくれた。天才子役とは言われたけれど、私だけの力ではなく、みんなの技術が集結してできあがったものでした」
デビュー作で一気に知名度を上げ、一躍お茶の間の人気者となった杉田さん。しかし子役でいられる時期は限られ、振り向けば次なる天才子役が次々現れる。
「可愛い可愛いと周りにもてはやされたけれど、可愛い時間は短くて。ちやほやしてくれていた人たちが、“こんなに大きくなっちゃったんだ”とガッカリしてだんだん使われなくなっていった。それで初めて“自分はそんなに可愛くなかったんだ”と気づきました」
世間は熱しやすく冷めやすい。わずか7歳にして人気稼業の儚(はかな)さを知り、多くの子役が歩む茨(いばら)の道をたどることになる。
「子役の中には大きくなると仕事がなくなるという恐怖感で精神的に病んでしまう人も多く、私もギリギリのところまで追い込まれていました。オーディションの話がきたのはちょうどそのころで、これでダメならもうこの仕事はやめようと考えていました」
15歳のときオーディションに受かり、'79年『3年B組金八先生』(TBS系)に出演が決定。生徒の一人・浅井雪乃役を演じ、2度目のブレイクを迎えている。ドラマは最高視聴率39・9%の大ヒットを記録し、生徒役からは田原俊彦、近藤真彦、野村義男をはじめスターも多く誕生した。
当時、雪乃の恋人・宮沢保役を演じた鶴見辰吾さんに伺うと──。
「当初生徒役の中で顔と名前が知られていたのはかおるさんだけで、やはり輝きがありました。たった1行のセリフを言うのも精いっぱいという生徒役が多いなか、きちんと情感を表現して演技として成立させていたのは彼女くらいではなかったでしょうか。ほかのキャストとは一線を画していたし、オーラを放っていたと思います」
雪乃役の後は人生何度目かの絶望
知名度と演技力で群を抜くも、杉田さんは「あまり自覚はありませんでした。それより自分のことでもう必死で」と言う。
オーディションには参加したが、“演技ができる子も必要だから”と、ほぼ指名に近い形での起用だった。ほかの生徒役とはスタートから違い、
「周囲に求められるぶん、最低限このくらいできなければいけない、できなかったらどうしようといつもドキドキ。切羽詰まっていました」と話す。
杉田さん演じる雪乃は、15歳にして保の子を妊娠、出産する。伝説のエピソード『15歳の母』で、世間の大きな反響を呼んだ。
鶴見さんは当時を振り返り「応援してくれた人ももちろんいたけれど、なかには心ないことを言う人もいて。“おまえら実際にそういうことをしたんだろう”と冷やかされたりもしましたね。
かおるさんは女の子だし、もっと大変だったのではないでしょうか。僕らもちょうど思春期だったからヘンに意識してしまって、当時はあえて距離を置いていたところがありました(笑)」と話す。
雪乃役の好演で子役からの脱皮を叶(かな)えるも、「人生終わったなと思いましたね」と杉田さん。当時は役柄同様中学3年生で、役者に役を重ねる視聴者も多くいた。
「あのころはドラマで悪役を演じると家族がいじめにあうような時代。雪乃役を演じたときは、もうまともな就職も結婚もできないと思った。人生何度目かの絶望でした」
父の借金の保証人で1億円もの負債
2度目のブレイクも長くは続かなかった。アイドルとして売り出すも伸び悩み、子役出身ならではの“手垢(てあか)のついた感”が敬遠され女優業も低迷。もともと正義感がとびきり強く、現場で吐く正論が“使いづらい” “生意気”と言われ、悪評として定着した。一方プライベートでは父の借金の保証人になり、20代で1億円もの負債を背負っている。
「途方に暮れました。いくら仕事をしても借金の返済に取られてしまう。世捨て人じゃないけれど、あのころは仕事に対する真剣味が足りなくて、どうにでもなれという心境でした」
しかし彼女の才能を信じ、手を差し伸べようとする人もいた。
業界でその名を知られた敏腕マネージャーで、「この子を使ってあげてください」と各所に頭を下げ、ドラマ'87年『三匹が斬る!』(テレビ朝日系)に出演が決定。8年ぶりのレギュラーだった。
「マネージャーさんが必死になって勝ち取ってくれた。15人くらい候補がいたけれど、みんなに断られた役でした。マネージャーさんはその直後に亡くなってしまって、あの方のために頑張らなければという思いでいっぱいでした」
35歳でバラエティーに進出し、3度目のブレイクを果たす。きっかけは『踊る!さんま御殿!!』(日本テレビ系)の出演で、歯に衣(きぬ)着せぬトークが受け、その場で準レギュラーの座をつかんだ。
「今ではコンプライアンス的に問題になるような発言もいろいろしていましたね(笑)。どんなお仕事でも頑張らなければと思って」
役者の自分がどうすればバラエティーで存在感を発揮できるのか。ヒントになったのが、かつての事務所の大先輩・森光子さんのエピソードだったという。
「森さんが初めてワイドショーの司会をしたとき、すべての新聞を読んで時事ネタを勉強したりと、いろいろ努力されていたというのを聞いていて。
私もまずネタ探しからと思い、バラエティーに出演するときは事前に何冊も雑誌に目を通すようにしてました。
あのころは常にネタ探しに追われていて、ブレイクしたという実感もないまま毎日慌ただしく過ぎていきました」
バラエティー番組のオファーは急増し、“毒舌キャラ”で人気を集めた。ときには自身のプライベートを露悪的に語り、ワイドショーを騒がせもした。そんな彼女を「ちょっと痛々しく見ていた」というのが鶴見さん。
「バラエティー番組で視聴者を楽しませていたのは彼女の戦略だったと思う。けどそれは本来のかおるさんの姿ではなかった。もともと不純物のない透き通った正統派の演技をする人。演技というのはその人の性格が出るもの。
本来のかおるさんは優しく柔らかい女性で、長年付き合っているからそれがよくわかる。今はオーガニックに力を入れた活動をしているけれど、ようやく肩の力が抜け、本来の彼女に到達したように感じます」
生活を再び大きく変えた再婚
杉田さんが湘南に移り住んだのは今から12年前のこと。オーガニック野菜との出会いがそもそもの始まりだった。
「湘南は畑ができる土地ということで見つけた場所でした。もともと野菜は大嫌いだったんですけどね(笑)」
幼少のころから芸能界で活躍し、食事といえば仕事の合間にインスタントやファストフードでしのぐ日々。酒好きでも知られ、酒豪伝説は数知れず。長年の暴飲暴食がたたり、40歳ころには体重が70キロ近くに達していた。加えて喘息(ぜんそく)持ちで身体が弱く、30代で子宮筋腫を患うなど、健康面の不安要素も多く抱えていた。
「このままだと本当に身体を壊してしまう。危機感を覚え、取り組んだのがデトックスダイエット。オーガニック野菜を中心に身体にいいものをとり入れ、同時に悪いものをどんどん排除していきました」
食生活を徹底して見直し、マイナス12キロの減量に成功。体脂肪は8%落ち、血糖値も下がり、糖尿病予備軍からも脱出した。
「何より変わったのは性格で、オーガニックに切り替えてから、柔らかくなったと言われます。私自身、笑顔が増えたのを感じています」
オーガニック野菜をより深く追究しようと、畑に通い栽培法を学んだ。そこでたどり着いたのが自然農。
土を耕さず、自然に寄り添う農法で、化学肥料や農薬を避け、人間の手を極力加えずできた作物をありのまま享受する。その生命力に魅せられ、「食べるだけでなく自分で作ろう」と決意。家族とともに湘南へ移住し、自ら作物を育て始めた。
「30種類くらい種をまいたら、わさわさたくさん野菜がなって。最初にキュウリができたときは本当に感動しましたね。収穫するのがもったいなくて、そのままにしていたら大きくなりすぎてしまい、しばらくそれを仏壇に飾っていました(笑)」
野菜嫌いを克服し、オーガニック生活で心身共に健康を手に入れた。その実感を口にする。
「普段の食生活が良いせいか、本当に丈夫になりました。数年前仕事で南米に行ったとき致死率30%という感染症にかかったけれど、それでも無事生還することができて。やはり免疫力が高くなっているのかもしれません。夫も毎日野菜料理を食べています。オーガニック野菜ってうまみがすごくあるので、もうほかは食べられないと言っています(笑)」
2013年に再婚。お相手は6歳年下の一般男性で、そこでまた生活が大きく変化したと話す。
「ずっと母と妹の家族3人であちこち転々としながら遊牧民みたいに暮らしてきました。でも会社員の夫は決まった時間に起き、同じ場所へ働きに行き、またきちんと同じような時間に帰ってくる。“普通の生活”というものを初めて知りました」
朝は夫とともに6時に起床し、お茶を淹(い)れ、NHK Eテレのテレビ体操を見ながら身体を動かすこと10分間。その後朝食を用意し、出勤する夫を見送るまでが毎朝のルーティン。
「出がけの夫に“今日も可愛いですか?”と聞くのがお約束。遅れそうで駅まで送ってほしいときは“今日は超可愛いです!”と返ってきて、送らなくても大丈夫というときは“今日はそうでもない”と言われます(笑)」
家事を片づけ、午後3時には夕食の支度に取りかかる。野菜料理を中心に、8時に帰宅する夫のため腕を振るう。
「再婚するまで料理をまったくしてこなかったので、50歳からのスタートでした。今年はゆで卵、その前は梅干しと、毎年目標を設けてひとつひとつクリアしています。小さな目標ではあるけれど、達成するとやっぱりうれしくて。再婚して10年がたち、できることもだいぶ増えました(笑)」
女優業をセーブし、付きっきりで介護
再婚と前後し、同居していた母・美年子(みねこ)さんの持病が悪化する。10年以上患ってきた慢性閉塞性肺疾患(COPD)で、24時間の酸素療法が必要になり、在宅介護に踏み切った。女優業をセーブし、付きっきりでの完全自宅介護である。
「介護がどうというより、母の命と向き合うことが自分の役割なんだという思いが私の中にありました。親の痛みや人生を受け入れるのってすごくつらいこと。でも母の生きざまを見せてもらい、看取(みと)ることで、自分が生まれてきた意味というものを考えられたらと……」
一度発症すると完治は難しいといわれるCOPDという病。介護の過程で絶望し、諦めかけたこともあった。希望を失いかけたとき、理学療法士・千住秀明先生が実践する呼吸リハビリテーションの存在を知り、そこで病状が大きく改善したという。
「千住先生は理学療法士の第一人者で、先生のリハビリを受け、母はどんどん回復していった。本当に奇跡のようで、人間の再生する力ってこんなにもすごいものなんだと驚かされました」
母・美年子さんが入院したのは2017年秋で、千住先生が当時在籍していた東京・清瀬市の病院で2か月間にわたり呼吸リハビリテーションを行っている。千住先生に当時の様子を聞いた。
「病院にいらしたとき、お母様はすでにエンドステージに近い状態。病院に向かう車中で呼吸停止に陥り、救急車でいったん救急病院に運ばれ、意識を取り戻したところでうちに入院しています。
来院時は歩行はおろか、ご自身で車椅子にも移動できない状態でした。けれどCOPDというのは手足は動かせるので、本来であれば身の回りのことは死ぬまで自分自身でできる。
筋肉を鍛えることによって燃費を良くし、少ない酸素で肺に負担をかけず効率良く動けるようにするのが呼吸リハビリテーション。お母様も体幹と身体の筋肉を鍛えるうちに、体調も改善し、表情もどんどん変わりました」
千住先生の指導のもと、呼吸リハビリテーションに打ち込み、2か月後には200mの自立歩行を叶えた母・美年子さん。そこに至るには当人の意志と努力、それをサポートする家族の力があった。
ここまで尽くすご家族はなかなかない
「お母様は“私は娘の稼いだお金を酒、たばこ、パチンコで使ってしまった。これ以上娘に負担をかけたくない。このままでは彼女の将来をダメにしてしまう。少しでも介護の負担を減らしたい”と言って、毎日1時間のリハビリに懸命に取り組んでいました。杉田さんも何度も来院され、お母様に寄り添っていました。
この病気は大半の患者さんが痩せ細ってしまうものですが、お母様は入院当初から身体つきがしっかりされていた。栄養状態が良い証拠で、いかに家の中で手厚く介護されていたか。
ここまで患者さんに尽くすご家族というのはなかなかない。親子関係の強さを感じました」と千住先生。
杉田さんが6歳のとき、両親が離婚。身体の弱かった母に代わり、子役時代から一家の大黒柱となって母と妹の家族3人の暮らしを支えてきた。家族の絆は強く、とりわけ母との関係性は特別だった。
「私の前世は絶対にお母さんの恋人だったと思うんです。母に対する思いや執着を自分なりに分析すると、そうとしか考えられない。恋人のような恋愛感情があるから、何でも許せてしまうんですよね」
と杉田さん。
だが思いのあまりの重さに押しつぶされそうになったこともある。
「どうしても許せない母の一面が見えたとき、私の中のその感情が強すぎて苦しくなってしまって。母に“もうお母さんのことを好きではなくなります。だけど私はお母さんのことを愛している。だから愛するだけにします”と宣言しました」
母に代わり、父の借金を肩代わりした20代のころのことだ。大好きだから甘やかしてしまう。ならば好きでも嫌いでもなく、ただただ愛するのみにしようと思った。そうでもしないとつらくて生きていけなかった。そのとき初めて母の弱音を聞いた。
「“やっぱり産まなきゃよかった”と母に言われました。母は愚痴や泣き言の類いを一切口にしない人だったけど、あのときだけは“こんなに苦労させて。産まなきゃよかったね”ともらしていた。私は母に“産んでくれてよかった”と言いました。最期も“産んでくれてありがとう”と伝えています」
4年半にわたる献身的な介護の末、2018年1月、母を看取る。
「本当にキレイな最期でした。病気で苦しんでいたときは顔色も悪かったけれど、白塗りをしたみたいに真っ白で、今にも起き上がるのではないかと思うくらいキレイだった。眠るように亡くなって、死が怖くなくなった。人は仏様になれるんだということを母は教えてくれました」
2年間を喪に服し、仕事復帰にまず手がけたのがYouTube。自身のチャンネル「杉田かおるのオーガニックヘルスリテラシーofficial」を立ち上げ、オーガニックや健康をテーマに動画の配信を始めた。
YouTube設立の動機の1つが、「千住先生の提唱する呼吸リハビリテーションをもっと世に広めたい」という思いだった。実際に自身のチャンネルにゲストとして招き、リハビリ法を動画で紹介している。
「杉田さんとはYouTubeのほか講演会でも度々ご一緒しています。呼吸リハビリテーションの認知度は約18%で、COPDの患者さんで治療を受けている人はまだまだ少ない。講演会では杉田さんがお母様のリハビリの様子を撮った動画を流すことがよくあって、それを見て“自分もリハビリを受けたい”と来院される方が増えました。
呼吸リハビリテーションの啓発活動に積極的に協力してくださっていて、感謝しています」と千住先生。
ユーチューバー・デビューに続き、女優業に本格復帰。『警視庁・捜査一課長2020』で4年ぶりに地上波ドラマに出演し、『ドクターX ~外科医・大門未知子~』では1980年放映のドラマ『池中玄太80キロ』で親子役を演じた西田敏行と再共演し話題を呼んだ。
鶴見辰吾さんと長年温めてきた夢
鶴見さんは「いろいろな人生の段階を踏んでいく過程で女優をやめてしまう方も多く、50代、60代になってしっかりした演技のできる女優となると非常に数少なくなってくる。そういう意味でも杉田さんが戻ってきてくれたのはすごくうれしい」と話す。長年2人で温めてきたひとつの夢があるという。
「“『ラヴ・レターズ』のような朗読劇をいつか2人でやってみたいね”と杉田さんと言っていて。なかなか実現できないまま時間がたってしまったけれど、何とか形にしたい。やっぱりこういうものは昨日今日お会いした人とではできない表現がある。長い2人の関係というものがあって、それは僕と杉田さんの大きな財産ではないかと思っています」
俳優仲間からの信頼も厚く、子役時代から高い演技力で知られてきた。復帰後もブランクを感じさせることなく、出演作は軒並み高い評価を寄せられている。しかし当人の手応えはまた違うよう。
「きちんとセリフがしゃべれるか、現場ではもうドキドキしっぱなし。毎回リハビリをしているような気分です(笑)」と杉田さん。再スタートの心境をこう語る。
「役を作るのってとにかく大変で、クランクインするまで緊張で寝られないし、毎回産みの苦しみを味わっています。自分の中で“よし、今回はうまくできた!”なんて思ったことはこれまで一度もないし、いまだにそう。明日放送のドラマがあるけれど、怖くてまだ見てなくて、放送もきっと見れないと思う」
自身の過去作品と向き合えるようになったのは数年前、介護の最中のことだった。
「ちょうど『パパと呼ばないで』の再放送が衛星放送で始まって、母と一緒に“あのときこうだったよね”と話をしながら見ていたんです。そのとき初めて、ドラマに出ていて良かったなと思えて。昔の作品を見ていると、こんなにいい役をいただいていたんだと改めて感じます」
50年という長い月日を芸能界で生きてきた。女優のキャリアは自身の人生そのもので、そこで学んだものは多い。
「セリフのひとつひとつが自分の人生にすごく影響を与えているんですよね。言葉をあまり知らないときからこの仕事をしてきたので、それが自分の哲学になっている。
私にとってドラマは教科書で、その哲学どおりに生きてこられた。そういう作品に巡り合えてこられたのは本当に幸せだし、感謝しなければと思っています」
天才子役ともてはやされ、一転大きな挫折を味わった。浮き沈みを幾度も経験し、それでも女優であり続ける。やはり女優は天職?
「うーん、どうなんでしょう。そう思っていたこともあるけれど、今は正直よくわからなくて(笑)」と杉田さん。最近新たに気づいたことがあるという。
「人が笑ってくれることで、自分も元気になる。人の笑顔が自分のガソリンになる。それが自分の本質だということに気がついて。ドラマやバラエティーもそうだし介護もそう。みんなに喜んでもらうと素直にうれしいと思えるので、そんなに無理して芸能人をやっているわけではないというか、本当にそれだけで続けてこられた気がします。
女優の仕事にしても、自分に求められる役があれば、やっぱりきちんと応えていきたい。オファーがあるうちは女優を天職だと信じて(笑)、一生懸命頑張ろうと思っています」
〈取材・文/小野寺悦子 ヘアメイク/村中サチエ〉