11月28日、敗血症のため渡辺徹さんが61歳でこの世を去った。
「11月19日のブログでは、秋田県で『心臓病とともに元気に生きる』という講演会のゲストとして出演したことを報告していましたが、翌日に発熱、腹痛などの症状が出たため検査をした結果、入院することに。妻の榊原郁恵さんは舞台『ハリー・ポッターと呪いの子』に出演中でしたが、夫の最期には立ち会えたそうです」(スポーツ紙記者)
30歳で急性糖尿病を発症
'80年に文学座の養成所に入所。翌年に団員になると、すぐさま人気ドラマ『太陽にほえろ!』(日本テレビ系)の新人刑事・ラガー役で俳優デビュー。180センチの長身と甘いマスクで、翌年には歌手デビューも果たすなど、アイドル的人気を博した。
「'84年放送の日本テレビ系ドラマ『風の中のあいつ』で共演した郁恵さんと、4年の交際を経てゴールイン。渡辺さんは実家の自室に郁恵さんのポスターを貼っていたり、初めて買ったレコードが郁恵さんの『ラブリー・ポップ』だったりと、デビュー前からの大ファンだったんです。今流行りの“推しとの結婚”のはしりともいえますね」(同・スポーツ紙記者)
デビュー当時は69キロとスリムだった渡辺さんだが、マヨネーズを直接飲むほどの“マヨラー”ぶりや暴飲暴食がたたって、結婚したころには130キロまで体重が増加。
「郁恵さんの管理もあって結婚後に多少は痩せたものの、30歳のときに急性糖尿病を発症。食事療法や月1回の検診を続けていましたが、高カロリー生活はなかなかやめられなかったようで、昨年は大動脈弁狭窄症の手術を受けるなど、病と闘い続ける半生を送ることになりました」(ワイドショー関係者)
病気と向き合うようになり、自身の考え方にも変化が表れ始めた。
「結婚直後にドラマで続けて夫婦共演をしたときに“仕事とプライベートの境目がなくなる”と痛感したそうで、その後はバラエティー番組を含めて数えるほどしか共演していないんです。しかし'12年に虚血性心疾患で入院した際、献身的に支えてくれた郁恵さんを見て、“家族に恩返しをしたい”と考えるようになり、家族共演を解禁したんです」(芸能プロ関係者)
退院直後の'12年11月に受けた医学新聞社のウェブインタビューで渡辺さんは、
《3時間置きにトイレへ駆け込む状態で苦しかったです。そんなとき妻は何時だろうと翌日に早朝から仕事があっても、気付くと脇に立って背中をさすってくれていました》
《あの妻だから助かったのかなっていう気がするんです》
と、榊原の献身に感謝していた。
週1ペースで大学で授業を
「'17年に結婚30周年を記念した朗読劇『いまさらふたりで』で舞台初共演を果たしました。それも10年ほど前から郁恵さんが“絵本の読み聞かせをやりたい”と言い続けていたため、節目となる結婚30周年に“女房の夢を叶えてあげたい”と、渡辺さんが実現させてあげたものなんです」(舞台関係者)
榊原は'17年の『週刊女性』インタビューで、
《今まで夫婦共演はしませんって言ってきたから、周りも“いまさら?”って思っているんじゃないですかね(笑)。このタイトルは公募で決めたんですけど、私たちの気持ちをそのまま字面にした感じでいいなって》
と、少し照れくさそうに夫婦共演について語っていたのは、夫からの愛が伝わっていたからなのかもしれない。つらかったと本人が語っていた'12年の入院生活のあとは、仕事面でも変化が。
「'14年から大学の特任教授を務めており、メディア学部の学生たちに直接指導を行っていました」(前出・スポーツ紙記者)
同じ文学座に所属する演出家で、渡辺さんを特任教授に誘った城西国際大学の望月純吉准教授に話を聞くことができた。
「基本的には週1回のペースで授業を行っていました。出演舞台『今度は愛妻家』があったため、最後に大学に来たのは今年の5月ですが、舞台も終えたので11月29日に久しぶりに教壇に立ってもらう予定だったのですが……」
俳優の視点から、実践的な指導を行っていたという。
「実体験を交えながら、現場での心構えを指導されていました。印象に残っているのは“きちんとふざけなさい”。そして“やりたいことをやって、たくさん恥をかきなさい。人生短いんだから、やりたいことをやったと言える人生を送ってほしい”と語っていましたね」(望月准教授)
学生との触れ合いは、渡辺さんにも刺激的だったようだ。
大好きだったカキフライ
「マネージャーさんは“(授業を)とても楽しみにしているんです”と話していました。渡辺さんは劇団で貢献度の高いベテランにもかかわらず決して偉ぶらず、誰とでも仲よく家族的に接してくれる方でした。寄り添ってくれる渡辺さんの言葉に、背中を押してもらえた学生も多かったと思います」(望月准教授)
渡辺さんが元気をもらっていたのは学生だけではなかったようで、世田谷区内の中華料理店では、渡辺さん考案のメニューがあるほど。
「砧スタジオが近いこともあって、若いころはよく撮影終わりに来てくれました。カケゴハン(中華丼)とロースライスをミックスした裏メニュー『ロースカケゴハン』が大好きで、“これを食べすぎて太っちゃったよ”と言われたのが印象に残っています」(店主)
家族で常連だったという懐石料理店には、今年の敬老の日に訪れたばかりだった。
「郁恵さんのお母さんを含めたみなさんで懐石料理を楽しまれていましたよ。以前より痩せてはいましたが、顔色もよく元気そうだったので、訃報は信じられません……。いろいろな料理をお出ししましたが、“ここのおにぎりがいちばん美味しい。また食べにくるね”と褒めてくれました」(四季膳 ほしや店主)
食事管理を行っていた榊原だったが、ときには夫の好物を購入して帰ることも。
「今年3月に郁恵さんが1人で来店され、帰り際に“主人がここのカキフライが好きだから”とお土産を買われていました。“マカベさんのカキフライを買ったわよ”と渡辺さんに電話をすると、“でかした”と言われたと、郁恵さんは笑っていましたね」(キッチンマカベのスタッフ)
多くの愛を受け、与え続けた渡辺さん。天国からも家族や学生たちを温かく見守っていることだろう─。