新春の1月2日、3日に日本中を熱狂で包み込む『箱根駅伝』に選手として出場。監督としても栄光をつかんだ山梨学院大学陸上競技部顧問の上田誠仁(まさひと)さん。箱根初の外国人留学生起用、就任7年目での優勝、そして連覇など数多の旋風を巻き起こしたその裏には、知られざる苦悩や葛藤があった。駅伝に人生を懸けた男の生きざまとは──。
中学で2000メートルの新記録を樹立
ガチャン──。
公衆電話に100円玉の落ちる音が響く。1978年1月2日、雪の降る深夜。順天堂大学1年生だった上田誠仁さんは、陸上競技部合宿所近くの電話ボックスの中にいた。「俺はいったい何をやっていたんだろう」。受話器を置いても涙が止まらなかった。
「長年、陸上競技に携わってきて数々の思い出がありますが、心の中のいちばん奥にあるのが硬貨のガチャンと落ちる音なんです。あの日、あの時、あの時間が自分にとって貴重なものとして残っています」
上田さんは1959年、香川県善通寺市で生まれる。陸上競技を始めたのは中学生のとき。
「最初はアニメ『巨人の星』に憧れて野球部に入部したんですが、小柄だったから体格差を感じてしまって。小学校で打ち込んでいた剣道の寒稽古で風を切って走るのは気持ちいいなと感じたのを思い出して陸上競技部に入りました」
すると全日本中学放送陸上(現在の全日本中学陸上)で2000メートルの新記録を樹立するなど頭角を現し、全国トップクラスの選手に。
高校は県外の有力校からも誘いを受けたが、自宅から近い尽誠(じんせい)学園高校に進学。学校として駅伝を強化するという話だったが、選手はあまり集まらず練習環境も整っていなかった。
「3年生でようやく全国高校駅伝に出場することができました。でも、7区間あるのに部員はギリギリ7人。開会式の椅子が2脚空席で、いかにも弱小チームという感じで気恥ずかしかったのを覚えています」
上田さんは各校のエースが集まる1区を走り区間7位。尽誠学園高校も初出場ながら総合27位と健闘する。
「高校時代の何もないところから3年で全国まで辿(たど)り着くという経験が、後に山梨学院大学の監督となったときに励みになりましたね」
レース前日まさかの交代
「人生の恩師」との出会いは衝撃的だった。順天堂大学陸上競技部の監督、澤木啓祐さんである。いわゆる根性論ではなく、データに基づく理論的なトレーニングを実践する指導者だった。
「高校3年のインターハイの後、澤木先生がスカウトに来たんですよ。それでいきなり『上田くん、君のような身体の小さな選手が、成長期に無理なトレーニングをしていい記録を出したとしても、その後に伸びたというデータはない』と言い切ったんです。正直『はぁ?何言ってんの』って思いましたね。でもその後に『将来伸びるにはひとつしか方法がない。俺のもとに来い』と誘われたんです」
澤木さんの専門的な話には説得力があった。何ともいえない迫力に惹(ひ)かれた。この人についていけば間違いないと確信して、順天堂大学への進学を決意する。
箱根駅伝を見据えて2月にハーフマラソンの大会に出場すると、当時の高校生最高記録を塗り替える。ところがそれで気が緩んだのか、座骨神経を痛めてしまうのだ。
鳴り物入りで入学したものの、故障の影響で満足に走ることができなかった。もやもやした気持ちをごまかすように、上田さんは東京の街へ繰り出す。
「もう生活が当時のヒット映画『ロッキー』ではなく『サタデー・ナイト・フィーバー』になっちゃって。マルイのクレジットカードで似合わない洋服を買って髪を伸ばして、ディスコで踊ったり。気づかぬままに現実逃避をしていました」
ケガが治った後も練習に身が入らず、指示どおりにただ走るという作業を繰り返していた。夏合宿のころには他の選手との力の差を感じて焦り出すが、それで無理して練習すると貧血を起こした。負のスパイラルだった。
「スポーツは必然を生むために努力が必要なんです。100%ではないけれども、勝つことが必然となるように努力を重ねる。それを自分ができていないとなると後悔しかないんです」
12月になり迎えた箱根駅伝エントリー(出場選手登録)。上田さんはアンカー10区に指名される。練習がまともにできていないなか、順位を左右する重責のアンカーを走れるのかというプレッシャーに襲われる。
「なんでもっと走り込んでおかなかったんだ、一体何をやっていたんだ……」
本番までの2週間はため息ばかりついていた。
'78年1月2日。箱根駅伝の往路で順天堂大学はトップに立つ。上田さんは翌日の復路10区に向けて付き添いの波多野宏美さんと準備を万全にして就寝する。不安で眠れずにいると22時半ごろ、主将の田中登さんが部屋を訪ねてくる。
「田中さんに『明日アンカー頑張ります』って言ったら『いや、おまえは頑張らなくていい』と。澤木先生からの伝言で波多野の付き添いに回れということでした」
つまり当日にエントリーを変更する交代要員、当て馬だった。
選手変更をいつかは告げられるとうすうす感じていたものの、突然の通告に一瞬われを忘れたという。上田さんは、小銭入れを握り締め合宿所近くの公衆電話へ急ぐ。かけたのは故郷・香川にいる父親の親司(ちかし)さんだ。
受話器から聞こえた声は「どうせ選手を外されたんだろう」。なぜかお見通しだった。
「おまえはどういう気持ちで大学へ行ったんだ?自分自身の1年間を振り返ってみろ。ケガで自暴自棄になっていたんじゃないのか」
こんこんと説教を続ける父親の電話を切ることができなかった。40秒ごとにガチャンと100円玉が落ちる音がする。
「言われたことが当たりすぎてて。この電話を切ったら自分が駄目になるという気持ちで聞いていました。ボロボロ泣きながら」
最後プーッと電話が切れた後も、ずっとその音を聞いていた。
「この音は忘れることのできない、私の心の原風景です」
後から10区を走った波多野さんに聞くと、監督から事前に告げられていて準備をしていたという。この年の順天堂大学は総合2位だった。
これを機に上田さんは目標志向型に切り替わった。後悔した時間を取り戻すように練習をこなしていく。晴れて2年生の箱根駅伝は5区山上りを任される。
「初めての箱根は無我夢中でした。箱根湯本駅前のところで先行する早稲田大学を抜いたのは記憶にあるんですが、後は思い出せない。
芦ノ湖に入る直線で応援団の太鼓の音がドンッて響いて『あ、先頭なんだ』と気づいたら自然と涙が出てきて。言葉に表せない喜びを感じましたね」
見事、区間賞を獲得し順天堂大学の総合優勝に貢献した。
3年でも5区に挑み2年連続の区間賞に輝くが、チームは総合2位。主将となった4年では捻挫の痛みに耐えながら5区で2位の力走を見せた。
「大学の4年間をひと言で表すと『疾風に勁草(けいそう)を知る』の『勁』だったと思います。中国の後漢書の一節で、大好きな言葉ですね」
疾風に勁草を知る、とは激しい風が吹くと強い草が見分けられる、つまり困難なときこそ人間の真価がわかるというものだ。
「『何も咲かない寒い日は下へ下へと根を伸ばせ』という言葉も大事にしています。根を張る努力をするのはスポーツの本質ですから」
就任2年目で初出場の快挙
大学卒業後は故郷の香川に戻り教員となる。同時に国体やクロスカントリーなどのレースに出場していた。運命を変えるオファーがもたらされたのは、福島での大会を終えた帰りの新幹線の中だった。
「澤木先生から『山梨学院大学が箱根駅伝に出るために監督を探している、おまえどうだ?』と言われたんです。『山梨ってどこの大学?』と驚きましたよ。突然だったので返事は待ってもらって」
気持ちは固まっていたものの、病気を患う父親が心配でもあった。周りの人に相談すると十中八九反対された。上田さんの背中を押したのは、やはり父親だった。
「『おまえの顔にはもう行くって書いてあるぞ。俺の身体のことは心配しなくていい。恩師がおまえならできると言ってくれたことに対して、おまえちゃんと応えろ』って言うんです」
そして「泥水に顔を突っ込んだり強い向かい風にうずくまったりするかもしれないが、爪先が夢のほうに向いているか足元を見つめて踏ん張れ。その覚悟があるなら頑張ってこい」という言葉を送ってくれた。
'85年4月、26歳の若さで山梨学院大学陸上競技部の監督に就任する。文字どおりゼロからのスタートで、力になってくれたのが顧問の秋山勉さんだ。東京農業大学で箱根駅伝を4度走った経験があり、山梨県の陸上界で知られた人物だった。上田さんは「秋山さんに出会わなかったら山梨学院大学はここまで来られてないと思う」と感謝する。
「最初はグラウンドの環境も十分ではなく人集めも苦労しました。2年目に、後に漫画家になる高橋真ら20人くらいが加わり、箱根駅伝に挑戦しようという機運が高まっていったんです」
当時、秋山さんが長野県の車山高原でホテルを経営しており、そこを合宿所に。選手は練習が一緒になった箱根駅伝常連校に大いに刺激を受けた。
「自分の指導力というよりも、選手たちの気迫が集団の熱意となって結果につながったのだと思います」
10月の箱根駅伝予選会はギリギリ6位で突破を決めた。就任2年目の快挙だ。
「もううれしくて感極まっておいおい泣きましたね。いろんな人から祝福を受けたんですけど、そこに見知らぬ年配の方が来て言うんです。『地方の大学がよくやったね。今回限りだろうけど頑張ってよ』。ちょっと嫌みだなと思いましたが、その後『まだ予選会でリングに上がっていいよとなっただけ。本当の勝負って厳しいよ。今が満足と思っていると月だって欠けてくるからね』ってその人から言われて。これでハッとわれに返って涙も止まりました」
まだ先があるのだ。「驕(おご)るなよ。丸い月夜もただ一夜」。指導に当たって上田さんはこの言葉を大切にしている。
そんな初挑戦の箱根駅伝は、無念の最下位に終わった。
留学生の衝撃と念願の初優勝
初出場を決めた箱根駅伝予選会の1か月後、上田さんは秋山さんと一緒にケニアを訪れた。
「なぜアフリカの選手はあんなに強いんだろうという話をしていて、それなら実際に行って見てみようと」
クロスカントリーの大会などを案内してくれた現地の指導者の紹介で、ジョセフ・オツオリさんとケネディ・イセナさん、2人の留学生が来日することになる。
成田空港から山梨に来る途中、オツオリさんが日本で頑張るためのアドバイスを求めてきた。「記念すべきファーストアドバイスはきちんと守ります」と懇願する。
戸惑った上田さんは、小学生のときに熱中した剣道で、館長に「どうしたら強くなれるか」と尋ねたときの言葉を思い出す。
《いちばん早く道場に来て一生懸命練習して、練習が終わったら掃除をして最後に帰る。それがいちばん強くなる方法だ》
「それを簡単な英語で伝えたんですね。オツオリはアドバイスを忠実に守りました。早朝練習は6時30分からでしたが、すでに1人だけ汗をかいていて。誰よりも早く起きて練習をしていたのです」
するとオツオリさんと同部屋の選手が一緒に練習するようになり、2人が4人、4人が8人と増えていった。
「1人の留学生の真摯(しんし)な姿がチームに好影響を与え、目標に向かってベクトルが大きく動き出していきました」
集団の熱意は上昇気流となって山梨学院大学を押し上げていく。
3度目の出場となった第65回大会('89年)。史上初めてケニア人留学生が箱根路を走る。2区8位で襷(たすき)を受けたオツオリさんは区間賞の走りでトップに立つ。この7人抜きは「怪物」と称されるほどの衝撃だった。総合7位となり、初のシード権獲得。
翌年は終盤まで上位争いをして総合4位。次のシーズンは復路で追い上げて総合2位に。いよいよ頂点に手が届く位置まできた。
監督就任7年目のシーズン。出雲駅伝を初制覇し、全日本駅伝では2位という成績で迎えた'92年の第68回大会。2区のオツオリさんは1区5位から順位を上げるが、後ろから来た順天堂大学の選手に抜かれてしまう。
「実はオツオリは秋に膝を痛めて万全の状態ではなかったんです」
それをカバーしたのが一緒に来日したイセナさんだった。3区区間賞の走りでトップに躍り出ると、4区、5区も粘りの走りで往路優勝。
「オツオリがいないと駄目というイメージもありましたが、チーム全員がオツオリの分まで頑張ろうという結束力があったんです」
そして復路も順調に襷を運び、山梨学院大学がトップでゴールする。初優勝だ。
「はじけるような喜びを感じました。恩師の澤木先生が『おめでとう』とガッチリ握手してくれて、本当にうれしかったですね」
称賛や応援ももちろん多かったが、なかには「外国人を使うな」「日本文化を汚すな」と批判の手紙が寄せられたという。上田さんはそれを隠さずにオツオリさんに伝えた。
「オツオリは甲州弁で『そんなもん気にしちょ(気にしないで)』と笑い飛ばしたんですよ。『ケニアはもともとイギリスの統治下だったから差別は珍しいことじゃない。でも甲府には頑張れって応援してくれる人がいるから』って。逆にオツオリに教えられたような気がします」
その後、オツオリさんは'06年にケニアで交通事故に遭い、この世を去る。山梨学院大学のグラウンドには、先代の古屋忠彦理事長が建立したオツオリさんのモニュメントが建っている。
胴上げで感じた手のぬくもり
ケニアの留学生をスカウトする際に重視したのはキャラクターだった。
「ただ単に走力だけではなくて、日本の文化になじめるか、チームに溶け込めるかを重視していましたね」
それはオツオリさん、イセナさんと入れ替わりで入学したステファン・マヤカさんを見てもよくわかる。
「マヤカは最初に会ったとき、屈託のない笑顔が印象的でね。とても陽気で人を惹きつける魅力があったんです」
マヤカさんは「上田先生に騙(だま)されて日本に来た」と冗談を言うが、来日直後は日本語がよくわからず、慣れるまではいろいろと苦労したそうだ。
「やっぱりあいさつすることが大事。諦めずにあいさつすれば、相手も変わってきますよ」(マヤカさん)
彼の買い物を断ったことがある八百屋さんがフルーツを差し入れてくれたり、お風呂で避けていたおじいちゃんが背中を流してくれたり、だんだん周囲が優しくなったとマヤカさんは言う。そんな留学生たちに上田さんは、
「オツオリやマヤカら留学生には、駅伝とは何か襷とは何かをよく話しました。襷は“団結と絆の象徴”だと思うんです。練習を積み重ねて時間を紡いでこないと絆はできない。選手が同じ目標に向かっていくなかで団結が生まれるんです。留学生もそれをきちんと理解していて、チームとして走る喜びを感じていたと思います」
マヤカさんの箱根駅伝デビューは、連覇を狙った第69回大会('93年)。花の2区でいきなり区間賞を獲得する。しかし圧倒的な戦力を誇る早稲田大学が優勝。山梨学院大学は惜しくも総合2位となる。
「初めての2位と、一度優勝した後の2位というのは気持ちが全然違います。大学は選手が入れ替わるので勝ち続けるのは本当に容易ではありません」
雪辱を果たそうと挑んだ'94年の第70回大会。やはり早稲田大学が優勝候補と目されていた。1区で早稲田大学に先行されるも、2区のマヤカさんが区間タイ記録の快走で逆転。そのままトップを維持して往路を制す。
復路の勝負どころは9区だった。託されたのは前年に区間賞を獲得したキャプテンの黒木純さん(現・三菱重工マラソン部監督)。
「実は区間新記録を狙っていたんです。でも直前に上田先生から電話がかかってきて『記録なんていきがって狙うなよ』ってアドバイスをもらいました。それで緊張がほぐれて落ち着いて走れました」(黒木さん)
しかし2位早稲田大学の選手が猛烈に追い上げてくる。黒木さんは上田さんがゼッケンの裏に書いてくれたメッセージを思い出していた。
《苦しくなったら思い起こせ。耐えし日々と支えてくれた人を。そして淡々と泰然と》
その言葉どおりの冷静な走りで最後は早稲田大学を突き放す。アンカー10区は、後に北京五輪マラソン日本代表となる尾形剛さんだ。盤石の走りで一番に大手町へ駆け込む。史上初めて11時間の記録を破る好タイムで、山梨学院大学は2度目の優勝を遂げる。
「2回目の胴上げはたくさんの手のぬくもりを感じました。初優勝のときはワーッと宙を舞って目の前に広がった青空を見ていましたが、このときは胴上げって何のためにやるのかなと考えていました。それは胴上げを支える人たちが『支えているこの手があったからだと感じてください』と伝えるためのセレモニーだと思うんです」
連覇を目指した翌年の箱根駅伝は、早稲田大学と激しいデッドヒートを繰り広げる。1、2区で先行するも3区で逆転され往路2位。復路6区でトップに立つが8区でひっくり返され、9区で再び抜き返して最後10区は逃げ切った。
「目まぐるしく順位が入れ替わって気が気じゃなかった。3度目の優勝はやっと勝てたという思いが強かったですね。一度勝つと守勢に転じてしまう、切り替えの難しさを感じました」
ちなみに連覇に貢献したマヤカさんは、日本国籍を取得して真也加ステファンさんに。現在、桜美林大学の監督として、箱根駅伝出場を目指し奮闘している。
途中棄権の試練乗り越え
試練もあった。
「恥ずかしながら、私は途中棄権を2度経験しているんです。中村祐二とエノック・オムワンバ。特に中村のときは指導者として痛恨の極みです」
それは'96年大会の4区だった。中村さんは2キロくらいから左足を引きずるようになり、何度も立ち止まってしまう。当時は選手に触れたら即失格というルールだった。ケガの状態を判断するには身体を触ってみないとわからないが、それはできない。
「もっと早く止めるべきだったと思いますが、責任感が強い中村の性格を考えると簡単にはできなかった。もしすぐに止めたら彼は荷物をまとめて田舎に帰っていたでしょう」
上田さんは並走しながら声をかけ続けた。「もう大丈夫だから、みんなわかっているから」と。それでも中村さんは歩き続け、壮絶なレースが終わったのは12キロ過ぎだった。
「このとき自分自身に腹を立てていました。選手につらい思いをさせ苦しみを背負わせて、どんな言葉をチームにかけていいのかわからなかった」
このアクシデントをきっかけに、監督など第三者の同意があればレースを中止できるようにルールが改正された。'14年にオムワンバさんが疲労骨折を起こしたときはすぐに止めることができたのだ。
「そしてチームにも『過去を変えることはできないけれども、その受け止め方次第で自分の未来を大きく変えることはできる。1年後の未来を共に変えよう』と伝えて、前を向くことができたのです」
翌年は、後に世界陸上マラソン代表となる主将・井上大仁さんの力走などにより、総合9位でシード権を獲得する。
妻への感謝と珍しい父子鷹
34年の監督人生を振り返り、上田さんは多くの人の支えがあったからこそと感謝する。やはりいちばんは妻・秀子さんだろう。
顧問の秋山さんの長女だった秀子さんと'91年に結婚。家業のホテルを手伝ったり弟妹の面倒を見たりと、「年下なのに本当にしっかりしている」ところに惹かれたという。
秀子さんは「事あるごとに陸上に没頭してしまう父を見ていたので、絶対に陸上の関係者とは結婚しないと思っていたのに」と笑う。
そして長男の誠斗さん、次男の健太さん、長女の歩実さんと3人の子宝に恵まれる。
「主人は合宿や大会で忙しいなかでも、時間がある限り子育てに協力してくれました。家族のことを本当に大切にしてくれます」(秀子さん)
上田さんが思い出に残っているのが、家族でディズニーランドに行ったこと。
「ファストパスを取るためにビッグサンダー・マウンテンへ一目散に走っていって。本当に楽しかったですね」
秀子さんは長年にわたって、選手の姉代わり母代わりとして献身的にサポートしてきた。
「体調の悪い選手を自宅で面倒見たり、骨折した選手を送り迎えしたり、日常茶飯事でしたね。普段の会話からして山梨学院がベースでした」(秀子さん)
実は山梨学院大学の襷も秀子さんの手作りだったという。
「最初は襷にペンでロゴを写したりアイロンプリントを使ったり試行錯誤しましたね。肌にも触れるものだから、山梨の地場産業の柔らかい甲斐絹織を使っていました」(秀子さん)
そして'14年、山梨学院大学を間近に見て育った次男の健太さんが、その山梨学院大学に入学する。息子と距離感を保つのは難しそうだが。
「中学のころから一緒に練習をしていたので、健太には自然体で接していましたね。逆に健太のほうが気を使っていたかもしれないけれども」
箱根駅伝の歴史で初めて「父子鷹」が登場したのは'16年のこと。2年生となった健太さんが3区で箱根デビュー。同じチームで父子が監督と選手という関係で出場するのは史上初の快挙だった。
実はその前年、健太さんは1年生ながら1区にエントリーされていた。山梨学院大学附属高校で全国高校駅伝を制し、即戦力として期待のルーキーだった。しかし当日のメンバー変更。くしくも父親と同じ経験をしたことになる。
「故障明けで万全ではなかったので、健太には数日前に『今回、おまえを使うことはない』と伝えました」
戦略を考えての苦渋の決断。伝える指揮官の目には光るものがあった。
「選手を交代するとき、励ましとか慰めの言葉はあえて言わないようにしています。でも後から健太に『親父のほうが目ウルウルしてたよ』って言われましたね」
息子を思いやる優しい父親の顔をのぞかせた。
1年前の悔しさを健太さんは走りにぶつけた。3区で格上の駒澤大学の選手と競り合いながら、わずか1秒差で3位を死守。区間7位の粘りの走りを見せた。
「前半は緊張していたようだけれども、後半は本来の動きが戻って何とかいい走りをしてくれましたね」
3、4年で健太さんは父親と同じ5区山上りを担う。
「故障を抱えていても耐えて、よく頑張ってくれました。特に最終学年ではキャプテンを務めて、悩みながらもチームをまとめてくれたと思います」
箱根駅伝を上田さん自身は3回、健太さんも3回、そして義父の秋山さんは4回走っている。親子孫で計10回。世代を超えた襷リレーに駅伝ファンは胸が熱くなったに違いない。
'19年に上田さんは、34年間務めた山梨学院大学の駅伝監督を、コーチだった飯島理彰さんに託すことになる。それでも上田さんは“走り”を止めない。現在は関東学生陸上競技連盟の駅伝対策委員長として箱根駅伝の大会運営に尽力する。新型コロナや韓国の群衆雪崩事故を受け、開催には厳しい道のりが待ち受けている。だから上田さんは走り続ける。箱根駅伝という襷を次世代に渡すために──。
〈取材・文/荒井早苗〉