尾崎豊とXJAPANのhide

「今も後悔の気持ちはあります。あのとき少しだけ、話せていればって……」

 遠い目をして、そう語るのは門野久志さん。“伝説のロックバー”といわれる『レッドシューズ』のオーナーだ。'81年、東京・西麻布にオープン。“カフェバー”ブームの先駆けとなった店でもある。

「オシャレな人たちのたまり場で、デザイナー、カメラマン、スタイリストなどの一流どころが集まっていた。ミュージシャンでは内田裕也さん、坂本龍一さん、高橋幸宏さん、矢沢永吉さん、桑名正博さん、シーナ&ロケッツ、チェッカーズのメンバーらが通っていました」

 来日した外国人アーティストも訪れた。デヴィッド・ボウイ、ブライアン・フェリー、ジミー・ペイジら。門野さんは2代目オーナーで、'90年代以降は“店の顔”だった。

「そのころから、YOSHIKI、奥田民生さん、横山剣さんといった人も常連になります。店は'95年にいったん閉めますが、'02年から南青山に場所を移して、今も営業しています」(門野さん、以下同)

 門野さんの悔しい思いは、親しかったミュージシャンの2人が命を絶ったこと。尾崎豊と、X JAPANのhideだ。

女性同伴のときの尾崎は“シラフ”

2代目オーナーの門野さん

尾崎は、私が店に入る前から常連だったそうです。営業時間の後でも、店のマイクを引っ張り出してアカペラで歌っていたとか。僕が最初に見かけた彼は泥酔状態でした。バーボンをダブルのロックでグイグイ空けて。一緒にいた吉川晃司さんは、付き合いきれないと思ったようで、同じものを頼むふりをしてウーロン茶を飲んでいましたよ(笑)

 当時のロッカーはハイボールではなく、バーボンをダブルのロックが“粋”とされていた。ただし、女性同伴のときの尾崎は“シラフ”だった。

きれいな女性を連れてきて“彼女に似合うカクテル、作ってよ”って。『ホワイト・レディ』というカクテルを作ると満足そうでした

 尾崎は'92年4月25日の早朝、民家の軒先で全身傷だらけの状態で発見される。その後、病院に運び込まれたが、自宅マンションに戻ると容体が急変して帰らぬ人に。

その1週間ぐらい前、店に来ていました。その日はずっと満席で忙しくて、落ち着いたら声をかけようと思っていたけど、余裕がなくて話せないまま。チラッと彼を見たら、“抜け殻”のような表情だった。その後“尾崎が死んだ”と聞いて、すごくショックでした

hideは「事あるごとにケンカしていた」

 それから30年以上たつが、今も多くのファンがレッドシューズを訪れる。

「ファンは、ここが聖地みたいに思っている。今も20代の若者が“尾崎、好きなんです”って言って来てくれる。尾崎ファンが店を貸し切りにして集ったこともありました。彼らの思いに応えるためにも、この場所は守っていかなければと思っています」

 hideは、大きなハットをかぶり、サングラスをして、大声で怒鳴っているのを見たのが最初だった。

「事あるごとにケンカしていた。そういう時代だったんです。みんな血気盛んで、音楽業界は盛り上がっていた。バンド自体も序列が厳しくて、後輩バンドを呼びつけては蹴飛ばす人もいて(笑)」

XJAPANのhideさんの遺影

 ビジュアル系バンドには武勇伝が語り継がれる半面、アイドルの追っかけのようなファンも少なくなかった。

ぬいぐるみを抱えた小学生の女の子が店に来て、困ったこともありました。もちろん未成年はバーに入れませんが。hideが店にいると、ファンの間で情報が回って、西麻布に集まるんです。スマホはない時代ですが、気がつけばあちこちからファンが集まって。静かに飲みたい常連からは文句を言われましたね

 苦労はあったが、hideと過ごす時間は楽しかった。

シーナ&ロケッツの2人を紹介したら大興奮。“スゲー! シーナと鮎川だ!”って騒いでいました。自分だって有名なミュージシャンだろうって思いましたが(笑)」

 門野さんは一時、レッドシューズを離れて近くに別のバーをオープン。すぐにhideがその店にやってきた。

「場所を伝えていなかったのに、探して来てくれたんです。うれしかったですね。毎日、入り浸っていました。相変わらずケンカしてたけど」

hideが自死をした前日のこと

 hideはソロ活動を始めており、'96年にレーベルを設立。'97年にX JAPANが解散し、音楽以外にも活動の幅を広げていた。

「原宿に複合ビルを作って、音楽レーベルとアパレルショップ、ヘアサロンを開きました。自分のバンドをやりながら社長業もやって。アルバムのジャケットも自分でデザインして、できあがったら店に持ってきてくれました。当時はまだ、1人でいろいろやる人はあまりいませんでしたから、すごい才能だと思いましたけど、頭の中はぐちゃぐちゃだったんでしょうね」

 多忙な生活が、悲劇を生んだのかもしれない。

 '98年5月1日、音楽番組の収録を終えたhideは、メンバーやスタッフと一緒に店を訪れていた。

10人ぐらいでワイワイ飲んで、そんな酔っ払っている感じでもなかった。でも、時間が深くなって、何か意見がぶつかったのか、メンバーと怒鳴り合いを始めて……

 店を飛び出したhide。しばらくして戻ってきたが、表情は暗いまま。門野さんと店の外で話をすると、子どものように泣きじゃくった。

アーティストと社長業の両立は難しいと思っていたので、私は“やっぱり両方は無理だよ”と言いました。彼はメンバーと対等なバンドにしたかったけど、メンバーはあくまでhideのサポートという意識で、その“ボタンの掛け違い”はあったんでしょう。“両極端な仕事を完璧にこなすのは誰だって難しいよ”と言って慰めましたが、ずっと泣いていました

 翌朝、hideは自宅で首をつった状態で発見された。病院に運ばれたものの、死亡が確認された。

僕のせいだって思いました。僕がもうちょっと、付き合ってあげられたら、こんなことにならなかったと……。あのとき、どっかに飲みに連れていけば、ちょっとは違っていたはずだと、後悔の気持ちがあるんです

 死の原因は、今もわからないが、振り返るだけでなく、前を向く必要がある。

「僕は、このレッドシューズという店に育てられた部分が大きいので、店を続けることで、次の世代につないでいきたい。ロックにこだわって、やれるだけやっていきたい」

 尾崎やhideも、そう願っているはずだ(敬称略)。

オープン40周年を記念して、2代目オーナーの門野さん(右)が著した単行本『レッドシューズ40~ロックの迎賓館の40年〜』が発売中(ぴあ/2200円)※画像をクリックで購入ページへ
 
尾崎豊

 

尾崎豊、デビュー前デモ・テープ7曲をオーケストレーションにアレンジ

 

尾崎豊さんの実家近くのクリーニング店に飾られている本人のサイン

 

尾崎豊さんの実家近くのクリーニング店に置かれている愛用していたサングラス

 

尾崎豊展で歌う、息子の尾崎裕哉(2012年)