7月にプロのフィギュアスケーターに転向した、羽生結弦の単独アイスショー「プロローグ」の最終公演が12月5日、青森・八戸で行われた。横浜に次いで行われた今回のショーには各地からファンが駆けつけ、羽生のこれからに期待を膨らませた。
そんな羽生の2004年から2022年までの528点の報道写真とニュース原稿をまとめた『羽生結弦 アマチュア時代 全記録』。9歳のときの記事からスタートする同書籍は、羽生が世界トップをめざし、2度五輪チャンピオンになり、3度目の五輪に出場してプロに転向するところまでを網羅している。本稿では羽生の背中を強く押し続けてきたものはどんなものだったのかに迫る。
記憶よりも、かなり幼い表情
サッカーや野球に比べて、フィギュアスケートは、年間の出場試合数がそれほど多くない。世界トップレベルで戦う選手なら、出場するのは年間6~7試合くらい。
そのため、フィギュアスケートを取材してきた私は、「○○年のあの大会」といったらすぐに、羽生の順位やおおよその演技内容、印象的なシーンを思い出すことができる。
それなのに、本書のページをめくるたびに、静かに揺さぶられ続けた。「あれ、このとき、こんなふうに笑っていたんだっけ」とか「記憶より、かなり幼い表情をしているなあ」とかいうふうに。
2014年ソチ五輪で優勝したときも、2015年NHK杯で世界最高得点を更新したときも、羽生の表情は、記憶よりもかなり幼い。記憶とは、時の経過とともに変化していくものではあるけれど、それにしても幼く見える。それは裏を返せば、まだ表面的には幼さや青さを感じさせる年齢だったにもかかわらず、それ以上に深く、強く、大人だという印象を残してきた、ということなのかもしれない。
仙台出身の羽生は、2011年、16歳のときに、東日本大震災で被災した。震災当初は、スケートを続けることに迷いもあったけれど、「元気に滑るところを見てもらい、少しでも力になれたら」とスケートを続けていく。
と同時にその時から、震災にまつわることを背負うことにもなった。ソチ五輪優勝時の会見を含むあらゆるところで震災について問われ、そのたびに彼は、真摯に答えてきた。それは、彼にとって、どれほどの重さを持つことだったのだろう。どれほどのものを引き受けて、それでもスケートに向かっていったのだろうか。
すべてを黙って背負い続けてきた彼の発する言葉が、実年齢より深まった印象を与えてきたのかもしれない。
変化や進化を続けてきた
一方でアスリートとしての輝かしい業績は今さら語るまでもない。
2010年、「ソチ五輪で優勝するためには、シニアの大会に出て慣れておいたほうがいい」と15歳でシニアに上がることを決めると、シニア初めてのGP大会であるNHK杯で自身初めての4回転(トウループ)を成功させた。簡単に1文で書いたけれど、これは、そんなに簡単なことではない。その後、4回転サルコウにトライして、さらに4回転を2つ入れて……と一気に世界トップに駆け上がっていき、2013-14シーズンには、GPファイナルとソチ五輪、世界選手権で優勝を果たした。
そう、羽生は、本当にずっと、変化や進化を続けてきたのだ。
さらに、2014年中国杯、他選手と激突し、頭にテーピングをぐるぐる巻きにして臨んだフリー『オペラ座の怪人』。2015年NHK杯とGPファイナルの2大会連続で、ショートプログラム、フリー、総合得点すべてで世界最高得点の更新。2016年、史上初の4回転ループの成功。故障に次ぐ故障。ショートプログラム5位(首位と10.66点差)から逆転優勝した2017年世界選手権。平昌五輪優勝(五輪2連覇)。男子史上唯一のスーパースラム(主要な6つの国際大会すべてでの優勝)達成。4回転半への挑戦。3度目の五輪・北京出場。キャリアを通して世界最高記録更新は19回ーー。
驚くほどの進化のスピードで、ときにはドラマよりドラマチックな演技や試合運びを見せてきた。栄光を、つかみ続けてきた。
そうしたスピーディな進化と並行して、羽生には、長い間静かにあたため、育ててきたものもあった。「支えてもらっている人たちへの思い」だ。
被災した16歳のころからずっと、自分を支えてくれた人、応援してくれた人がいたからこそスケートを続けられたと、羽生は、彼らへの感謝の言葉を頻繁に口にし続けてきた。
そうした思いは、長い時間を経て次第に、「今の自分の根底にあるのは、支えてもらっている方々の期待に応えられる演技をしたい(という思い)」(2019年オータム・クラシック)、「(直前の世界選手権は3位だったが、勇気や希望をもらったと多くの人から前向きな言葉を掛けられたことで)誰かのためになれているのかな、という感じがして」(2021年国別対抗戦)、「応援してくださる方がいるから僕がここで話すことができて、スケートをやってこられて、これからもスケートを更に突き詰めていこうって思えています。自分が特別な存在とか、特別な力があるとかそんなことは全く思ってなくて。人一倍応援していただけるからこそ、僕はうまくなってるだけだってすごく思います」(2022年プロ転向会見)と、羽生自身の力の源にも変わっていった。
平昌五輪からの約4年間、羽生は当時まだ誰も成功させていなかった4回転アクセル成功に挑んでいたのだが、その最終盤の時期である2021年12月の全日本選手権になると、「(4回転アクセル成功は)皆さんが僕に懸けてくれている夢だから、自分のためにももちろんあるが、皆さんのためにも叶えてあげたい」と話した。小さなころからの夢だった4回転アクセル成功と、支えてくれる人たちへの思いを、いつの間にか融合させていたのだった。
プロになってもチャレンジは続く
2022年7月19日、羽生は「プロのアスリート」に転向した。
「むしろここからがスタートで、これからどうやって自分を見せていくのか、どれだけ頑張っていけるのかが大事だと思っている」と話していた羽生は、それから4カ月半ほどしか経っていない今、すでに、これまでに見たことのないものをいくつも見せている。
自身のYouTubeチャンネル『HANYU YUZURU』を開設し、自ら発信するようになった。「SharePractice」と命名したホームリンクでの練習を、報道陣だけでなくYouTubeチャンネルの生配信でも公開(10万7000人超がライブで中継を視聴)。
さらに、90分間完全に1人で滑り切るアイスショー「プロローグ」を立ち上げた。羽生は総合プロデューサーとして、企画からショーの構成、演出なども手掛け、11月に横浜で、12月に八戸で、公演を終えたところだ。これらいずれも、数カ月前にはだれも想像もしていなかったこと、前代未聞の初めてのことばかりだ。
プロ転向後に新たな形で活躍する姿を見て感じるのは、この先も羽生にしかできない、彼だからこそできるものを、彼ならばきっと見せてくれるだろうという期待だ。そうしたものはきっと、「(羽生が)支えてもらっている人たち」の支えになっていくだろう。
そして羽生は、次の挑戦も明らかにした。やはり単独アイスショーである「GIFT」を、来年2月26日、東京ドームで開催する。観客に「感謝の贈り物」を届けるこれまでにないスケールのショーだという。
「これまで演技をしていくに当たって、本当に心が空っぽになってしまうようなこともたくさんありました」「自分のことを大切にしてきてくださった方々と同じように、自分自身も大切にしていかなきゃいけないなと思っています」
叶うのならば、これからの羽生が挑むものが、羽生自身にとっての支えに、もっと言うと生きる喜びのようなものにつながれば、と思う。
長谷川 仁美(はせがわひとみ)Hitomi Hasegawa
ライター。静岡市出身。1992年からいちファンとして、2002年からはライターとして、国内外フィギュアスケート全般を観戦&鑑賞。雑誌や書籍、世界選手権などの大会やアイスショーの公式プログラム執筆。スケートの一筆箋も。