舞踏家・俳優 麿赤兒 撮影/矢島泰輔

 '72年に自身が率いる舞踏集団『大駱駝艦』を立ち上げてから今年で50周年を迎えた。強面で一度見たら忘れられないその風貌はテレビや映画の世界でも強い存在感を放つ。“麿赤兒”はどのようにして生まれたのか──。

50周年を迎えた舞踏集団『大駱駝艦』

 ひと目見れば忘れられない強面(こわもて)に、暗闇でギョロリと光るこの目玉。麿赤兒(まろあかじ)という名もおどろおどろしい響きだが、口を開けば低く静かに響くその声で場を和ませる。

「後期高齢者なんて言われるとわびしくなりますが、790歳だと言えば面白い。だとすれば、世阿弥はまだションベンタレだし、信長はただのガキですから」

 現世での年齢は79歳。そこにスッと立つだけで場の空気が変わる。

 NHKの大河ドラマや連続テレビ小説の重厚なキーパーソンから、『ルパンの娘』('19年フジテレビ系)などドラマでのコミカルな役柄まで、俳優としての出演作も多い。限られたシーンでも存在感を残し、ドラマ・映画の出演作はそれぞれ100本以上だ。

 しかし、活動の主軸は、自ら主宰する舞踏集団「大駱駝艦(だいらくだかん)」。舞踏家であり、振付家や演出家としても大駱駝艦を率いてきた。全身白塗り、全裸に近い状態の肉体の躍動が、見る人を時に異世界へと誘(いざな)う。

麿さん率いるカンパニー・大駱駝艦は創立50周年公演として新作2本立て『おわり』『はじまり』を上演した。写真は『はじまり』の様子 (c)川島浩之

「アートってのはインチキなんです。ないものをあるように見せ、虚構を見せる。やってることは何か?しっくりくるのは『見世物』ですね」

 1972年の旗揚げ以来、毎年公演を続け、国内外での評価も高い。2022年7月、創立50周年公演タイトルは『おわり』と『はじまり』。テーマは宇宙ではあるが、人間の出会いや別れ、日常の暮らしの営みも描かれているように見えた。

 公演後の会場には、2人の息子の姿があった。映画監督の大森立嗣(たつし)さん(52)、俳優の大森南朋(なお)さん(50)だ。2人は予定が合えば必ず麿さんの公演に足を運ぶ。長男の立嗣さんは父親としての麿赤兒をこう語る。

「50年も大駱駝艦をやり続けて、踊っていることは感動的です。加速度的に生きづらくなっていく時代に、大駱駝艦は希望の光になるような気がします」

 大駱駝艦はその様式を「天賦典式」と表している。その言葉には、「この世に生まれ入ったことこそ大いなる才能とする」というすべてを肯定する意味が込められる。それは、麿さん自らに対する言葉でもあるのかもしれない。

「自分の中にどこか虚無的なところがあったんだろうな。親がいないというのは、何かから切り離され、はぐれちゃっているようなところがあって、なんだかぼんやりしてるんですよ。確かなものは身体だけ。だからその身体を使って浮世の中で戯れているんです」

「あれはな、おまえのお母ちゃんじゃねえぞ」

 子どものころの最初の記憶を辿(たど)れば、そこにあるのは海辺の家と祖母の姿だ。

「ばあさんを『母ちゃん』って呼んでました。おっぱいもしゃぶってた記憶がある」

 第2次大戦最中の1943年、三重県津市で生まれた。

 父の潤一は海軍の主力艦隊・第一航空艦隊の参謀で、麿さんが1歳のころ、テニアンの戦いで自決したと聞かされている。母はその訃報を受けて心を病み、実家に戻されていた。物心がついたとき、本当の母はいなかった。

 小学校に上がる前のある日、近所の悪ガキがからかうように入れ知恵をした。

「あれはな、おまえのお母ちゃんじゃねえぞ」

 それからうまく言葉が出なくなった。「おか、か、あちゃ」と言い淀(よど)む。何と呼んでいいかわからない。

「ばあさんはそれ以降、母が鏡を見ながら独り言を言っていたとか、僕を逆さまにおぶって歩いたとか、母のことを悪くばかり言うようになりました。母がそうなら、僕もいつか頭がおかしくなるかもしれない。そんな不安をずっとどこかに持ち続けていた」

 一方、父は立派だったと繰り返し聞かされた。麿さんは、その父の1人息子として祖母や親戚の期待を受け、可愛がられ、大事にされた。

 海軍の白い制服を着て6つの勲章を左胸につけた父が写真の中から麿をじっと見つめている。30代半ばの凛々(りり)しい顔立ち。それに応えようとする気持ちもどこかにあった。

1枚だけ残っている麿さんと母の写真

 小学生のころ、暇さえあれば目の前の海で1人で泳いだ。

「裸で海に飛び込めば、日常のややこしいことは大概解決する。日焼けして、消し炭みたいに真っ黒になってたな」

 台風で祖母と暮らしていた家が浸水し、奈良に住む叔父の家に引っ越したのは、小学校5年生のときだ。奈良には海はないが、叔父の家のすぐ裏の、三輪山の麓から見る夕日は美しい。四季が彩るなだらかな山も好きになった。

 6年生になる直前のある朝、大汗をかいて目が覚めた。肺浸潤という症状で結核の一種だ。安静と規則正しい生活が必要なため入院期間は9か月に及んだが、その入院生活は刺激的なものだった。

「男ばかり20人の大部屋で、いろんな人がいましたね。ひろし(麿さんの本名)、こっち来いと呼ばれては、いろんなことを教えてもらった。詩吟に習字、文学。春画を見せてくれる人もいた。下の階の女性の部屋に恋文を持っていくのも僕の役目でした」

 しかし、楽しいことばかりではない。昨日話していたおじさんが翌日亡くなっていることもある。ハラハラと散る桜を大部屋の窓から見つめながら、「来年になったら僕も死ぬのかな」と考えたこともあった。

「僕に親がいないことをみんななぜか知っていた。それで不憫(ふびん)だと思って気にかけてくれていたんだろうな。あの9か月で僕の情緒も随分膨らんでいったよね」

演劇部の部室が居場所になった

 退院するころには、身長もずいぶん伸び、「顔までひねちゃって今みたいになった」(麿)。1年遅れて学校に戻ると、頭がクリアになっていた。勉強も、不思議なほどできる。

 中学入学後は、また入院するのはごめんだと運動部を避け、全く稼働していなかった演劇部に入部。校内放送で部員を募ると、男女合わせて10人が集まった。

 同級生に比べ大人びていた麿さんは、先生からも一目置かれる存在だった。1年生から部長を任された。

「なぜか、お母さんがいないとか、親父が死んだとか、お母さんが2人いるとか、そういうやつらが演劇部に集まってきた。みんなでよく悩みを話し合ってね。いろんな事情があるんだなと思いました」

 部室になった講堂の控室は、格好のたまり場になった。

 叔父も叔母も優しいが、どこか心を開けない。弟や妹もいとこであって本当のきょうだいではない。少し遠慮するところがあった。家に帰っても2階の自室に篭(こも)るだけだ。

「家よりも部室にいるほうが落ち着く。あの部室はみんなにとっての居場所でした」

高校の演劇部時代の麿さん(後方右から2番目の太った男の役)

 演劇部での初舞台は、麿さんがオリジナルの脚本を書いた。タイトルは『父帰る』。父の本物の軍服を着て、サーベルを持ち、主演を務めた。

「もし父さんが帰ってきたらどうなるんだろうと思ってね。父さんが生きているという夢をよく見ていたから」

 同じような心情の先生や生徒も多く、学内でも好評だったが、麿さんにとっては演劇の面白さよりも仲間といることが何よりの救いだった。その部室だけが自分のままでいられる心の拠(よ)り所だ。

「現実を真っすぐ見るよりも、虚構に逃げたんだろうな。芝居という虚構の世界に疑似家族をつくっていたんだと思う」

新宿、唐十郎、土方巽との出会い

 高校は進学校に進み、演劇を続けた。チェーホフ、イプセン、シェークスピア、木下順二──。図書館にあるかびくさい戯曲や演劇の本にも手を出した。卒業後、新劇俳優を目指して上京し、早稲田大学に進学したが、当時は学生運動の真っただ中だ。

「金がないからヤクルトの寮に住み込みで働いた。仕事は早朝3時間の配達だけ。配達用の自転車で大学に数回行ったけど、大学はやってないし、やっていてもつまらない。そのまま自転車で新宿に行って、わけのわかんない映画見て、パチンコして1日が終わる」

進学校に進んだ麿さんは新劇俳優を目指し、早稲田大学に進学

 大学は3か月でやめた。木下順二作の戯曲『夕鶴』の「つう」役を務めた山本安英さんに憧れ、山本さん主宰の劇団「ぶどうの会」に合格し入団するも、半年で劇団が解散してしまう。

 週に1度、土曜日は徹夜で印刷所の梱包バイトをして4500円を稼ぎ、それ以外は新宿であてもなくフラフラしていた。ヤクルトの寮を出て、帰る家もなくなった。仲間の家を身ひとつで泊まり歩く。時給100円の時代、4500円は大金だった。

 当時、新宿には文化人や芸術家、その卵が集まっていた。ゴールデン街などの飲み屋と並び、名曲喫茶の風月堂は有名で、岡本太郎や谷川俊太郎、寺山修司も出入りしていた。

「絵描き、役者、劇作家、ヒッピー、フウテン、みんな芸術家みたいな顔して座ってる。僕も毎日窓際の定位置に座って新宿東口の通りを見ながら1杯のコーヒーで1日過ごした。コーヒーもハイライトもあのころは70円だったね」

 劇団『状況劇場』を立ち上げた劇作家の唐十郎さんと出会ったのも風月堂だ。1965年、22歳だった。

「やりたいことは新劇じゃない。演劇からはみ出したものを欲していたところに声をかけられてね。すっかり意気投合した」

唐十郎さん率いる『状況劇場』時代の麿さん(左)(c)井出情児

 唐さんが女優の李麗仙さんと暮らす4畳半のアパート。みかん箱を机にしてカリカリと音を立て台本を書く唐の背中に、「ほら、早く書けよ」とはっぱをかけたあの日から、運命は動き始めた。

 しかし当初、演劇評は酷評ばかり。劇場を飛び出し路上で上演すれば警察に捕まり、新聞に大きく掲載された。

「載るのはいつも文化面じゃなく社会面。自称劇作家とか自称俳優なんて書かれてました。皮肉なことに、それが宣伝になって客はどんどん増えていったけどね」

 その後、状況劇場は花園神社の紅(あか)テントで上演するようになり、一世を風靡(ふうび)する。

(c)井出情児

 舞踏家の土方巽(ひじかたたつみ)さんと出会ったのもちょうどそのころだ。

「ある日、風月堂で可愛い女性に手招きされて、ついていったんです」

 着いたのはごく普通の一軒家。中に入るとバレエの稽古場のようだった。赤いハイヒールが天井から吊(つ)るされている。壁には横尾忠則や寺山修司のポスターがあった。

「先生、連れてきました!」

「おう、上がれ〜」

 よくわからないまま声のする2階へ梯子(はしご)で上る。そこには、火鉢の前で背中を丸め、どてらを着た男性が座っていた。よく見ると舞踏家の土方巽さんだ。高校時代、雑誌『美術手帖』で見たことがある。

「餅、食え」

 座った途端、火鉢で焼いた餅をいきなり素手に渡された。

「アチ、アチッ、アチチ!」

 熱くて持っていられないから餅を何度も持ち替えてハフハフと食べる麿さんの様子を見て、土方さんはこう言った。

「面白い餅の食い方するねえ。その動きは面白いぞ」

 自分の身体の反応を意識したのはそのときが初めてだった。

 そのまま一緒に酒を飲み、翌朝起きると今度は稽古を見学した。稽古が終わるとまた呼び出された。

「よし、今晩仕事だ。金粉を身体に塗ってこのキャバレーに行け」

 何が何だかわからない。楽譜と金粉とスーツケースを渡され、都内のキャバレーに1人で向かう。

「こうなったらやってやろうじゃないか」と腹を括り、15分2ステージをなんとかやってのけた。

 裸で全身に金粉を塗り、音楽に合わせて身体を動かす「金粉ショー」。イロモノ的な扱いだったが、これが思いのほか金になる。

 2000円のバイト代をもらうとその日から土方さんの稽古場に住み、状況劇場の公演がないときは金粉ショーで食いつなぐようになっていた。

土方さんの金粉ショーを見習って

「基本的に客は、金粉ショーには興味がない。だからあれこれ工夫する。そのうちに身体の面白さに目覚め始めた。そのころから唐のセリフが邪魔になってきてね。僕にとって、唐という才能との訣別(けつべつ)は、芝居をやめることだった」

 状況劇場をやめたのは29歳のとき。その少し前に長男の立嗣さんが生まれ、生活費も必要だった。

 後に2人の息子の母となる当時のパートナーは“風月堂の女王”と呼ばれていたマドンナ的な存在の女性だ。出産のために入院はさせたが、退院させる金がない。

 知り合いから「米を仕入れて産地直送で売れば荒稼ぎできるぞ」と聞き、仲間を集めてやってはみたが、どうもうまくいかない。手間ばかりかかって利益も少なく、米が大量に売れ残った。

 さらに、妻が長男の立嗣さんを連れ帰ったアパートに、麿さんを慕ってきた若い衆が7、8人居着いてしまった。

初めて赤ん坊を見たときは、よく泣くもんだと思ったけど、愛(いと)おしいもんです。お風呂も入れました。ただね、若いやつらがそのアパートにゴロゴロといて、まるで中学のころの演劇部の部室みたいになって。まあ、子どもが泣けば誰かがあやしてくれたけど」

 近くの公園であてもなく稽古をしたり、身体を鍛えたり。この先どうするかもわからないままに過ごしていた夏の日、ハッとひらめいた。

「クソ暑い日に若い衆がアパートの部屋で寝ているとき、マーラーの曲をなんとなくかけたんです。そうしたらみんなのアホづらが急に高貴なものに見えてきた。

 誰にでも天から与えられた才能は何かある。そう思えました。道端の花も、いい音楽が流れるだけで意味のあるものに見えてくるでしょう。身体には歴史が刻まれている。そのままでひとつの作品なんだ」

 この考えをもとに、ショーをやろうという思いが、沸々と湧き上がってくる。そのころには、次男の南朋さんも生まれていた。生活費と活動資金集めが必要だ。

「そうだ、金粉だ!と思ってね。土方さんのやり方をいただいて、教わったとおりにやったらザクザク稼げました」

『大駱駝艦』旗揚げ当時の麿さん

 金粉ショーの稼ぎで東京都大田区・大森に稽古場を借りた。稽古して金粉ショーで稼ぎ、稽古場で寝泊まりする日々が始まった。売り上げは年間2億円に及ぶ年もあったが、ほとんどを本番と稽古につぎ込んだ。稽古場は大森、自宅は阿佐ヶ谷。往復している時間も惜しい。麿さんは自宅に帰ることが徐々に少なくなっていった。幼いころの立嗣さんにとって、父親の記憶は「たまに現れる、怖い、めんどくさそうな男の人」だった。

来るもの拒まず、去る者追わず

 1972年9月、牛込公会堂の「大駱駝艦・天賦典式」旗揚げ公演では、置き場に困っていた大量の米をトタンの背景に雨のように降らせた。

「それが斬新な演出だと『美術手帖』に特集されて、弾みがついた。売れ残りの米も役に立った。高校生のときに土方さんを知った、あの『美術手帖』に載ってうれしかったな」

稽古中の麿さん。自分の肉体ひとつで表現をする

 全身白塗りで全裸に近い状態で踊る肉体、そしてその斬新な演出が話題を呼び、公演は大成功。全国に広がっていく。

 劇場だけでなく、その構想はとどまるところを知らず、屋外へも飛び出した。アメリカやフランスのフェスティバルへの参加をはじめ、海外公演も増えていった。

 大駱駝艦の制作やマネジメント、広報などを長年担当し、30年以上をパートナーとして公私共に支え続ける新船洋子さん(65)は、そんな麿さんと仲間たちの様子を客観的に見つめてきた。

「大駱駝艦は、来るもの拒まず去る者追わず。舞踏の戦士が帰ってくる母艦のようなイメージですね」

 時には飲みに来て住み着いてしまう人、踊らず絵を描く人もいた。経営を考えれば稽古場を維持することが難しい時期もあったが、新船さんはそこも大駱駝艦らしいという。

「今は20代から50代まで幅広い年齢層の舞踏手たちがいますが、それぞれ誰もがここにいていいと思える空気がある。麿にとっては、大駱駝艦のメンバーは仲間でもあり、干渉し合わない、良い距離感の家族なのかもしれません。いろいろな人が来て、ワイワイ踊りを創ってまた旅立っていく。それが50年続いたのは、やはり麿の懐の深さによるところが大きいと思います」

2人の息子、立嗣と南朋

 少し時を戻して、1979年。金粉ショーで資金も潤沢に増やし、真っ赤な3階建ての稽古場・豊玉伽藍を練馬に構えた。そのころのことを、南朋さんはよく覚えている。

「豊玉伽藍には何度も行きました。キャッチボールもしました。でも親父が白塗りで近づいてくると怖くて泣いてた。大きくなると、うちの父親は他の家庭とはちょっと違うことに気がついて、友達には親父はサラリーマンだって嘘ついてました(笑)」

 2人の息子の名前は麿さんが名付けた。

「立嗣は、机の上に龍が立つイメージから龍机(タツキ)としたかったけど、役所でダメだって言われてね。響きの近い立嗣(たつし)に。南朋は、なんとなく呑気(のんき)そうだったから、南という字を使おうと。字画はよく考えました。僕の本名、大森宏は字画が最悪なんだ。だから悪いことばかりあったんだろうと気にしていたからね」

 しかし、大駱駝艦が充実するほどに、家族での時間は減っていく。立嗣さんと南朋さんが中高生のころは麿さんとはあまり行き来はなくなった。

 再び交流が始まったのは、それぞれが高校を卒業したころからだ。大学で映画を作り始めた立嗣さんは、そのころになって改めて、父親である麿さんに「この人は一体何なんだ?父親だけど何者なんだ?」と興味を持ったという。

 麿さんとしても息子たちとの距離感は独特のものだ。

「疎遠にしてましたからね。大きくなってお互い付き合えるようになり、2人とも親父って呼んでくるから、おまえたちが親父だと思ってるなら、親父ってことにしておいてやるという感じです」

 世間一般の親子関係とは少し違うようだ。

「ただ、遠目では何してるかは知っててね。立嗣は学生のころから映画を撮っていたから、やりたいことがあるんだなと思って見ていたけど、南朋はフラフラしてたから、踊りの稽古でもしろと言ってみたことがあるんです。一度だけ白塗りで舞台も出たが、結局逃げられたな(笑)」

2人の息子と関わることが多くなった。右は長男で映画監督の大森立嗣さん、左は次男で俳優の大森南朋さん

 麿さんは息子たちと3人で同じ作品に関わることもある。立嗣さんの監督デビュー作となった映画『ゲルマニウムの夜』(2005年)や、『まほろ駅前多田便利軒』(2011年)などの仕事を振り返り、立嗣さんは「親父や南朋と仕事をするのは、一番楽しい」と話している。

「僕が二十歳くらいのとき、正式に離婚したことを母に聞かされました。世間一般でいう親に持つ情のようなものがなかったので、寂しさとか怒りとか、その他の感情も湧いてきませんでした。

 映画の現場では、生まれも育ちも、考え方も違う多くの人が短い時間に集まってひとつの映画を作るのですが、親父や南朋は探り合うことなく何となくわかるとこがあるし、理屈ない肯定感があるので味方がいると感じます」

たった1人のキョーダイ

 麿さんが子どものころからずっと抱えてきた「何かから切り離されてはぐれてしまっているような」感覚を補うかのように、麿さんの周りには、いつも仲間がいた。中学の部室で戯れていたような疑似家族。もしかすると、麿さんにとっては、仲間たちが大きな家族であり、息子たちもその仲間なのかもしれない。

紫煙を燻らせながらロングインタビューに応じてくれた麿さん、強面の姿とは真逆の優しい語り口に引き込まれる 撮影/矢島泰輔

 しかし、この10年ほど前から、麿さんにとって仲間とは少し異なる「キョーデエ」と呼び合う存在もできた。「ゲージツ家のクマさん」こと篠原勝之さん(80)だ。共通の知人も多く新宿時代から互いの存在を知ってはいたが、親しくなったのは70歳を越えてからだ。篠原さんは、45周年記念公演『超人』『擬人』に出演したこともあり、大駱駝艦の裏艦長とも呼ばれ艦員にも親しまれている。篠原さんは語る。

「キョーデエなんて呼ぶのは麿だけだな。最初はヤクザ映画のノリだったけどよ。麿とは、なんだか本当の兄弟みたいな感じがするんだ」

 そしてお互いに真逆のタイプかもしれないと笑う。

「麿は俺と違ってきまじめで真っすぐな人間だから、一緒にいると可笑(おか)しいんだよ。80歳近くなってもさ、ケツの割れ目まで白く塗ってさらけ出してるけど、頭の中は冷静で勉強家。あの強面もうらやましい。俺はだいたいヘラヘラしてるからね」

 お互い、フェイスタイムでも連絡を取る。時折、「かっちゃん(篠原さん)、あそぼ」と子どものようになってふざけてやりとりもする。何の損得も関係なく、ただ一緒にいるだけで楽しい。

「子どものころのことはあえて話しはしないけど、なんとなく知ってるよ。麿は親に怒られなくて寂しかった。俺は親にひどく怒られてばかりいた。麿とはな、性格、考え方、面白いと感じることも違う。でもそれがいい。自分にないものがお互いにあって、不思議な存在。でも根底には、どこか共鳴してるところがあるんだろうな。ジジイ同士、この先も機嫌よく生きたいね」

クマさんこと篠原勝之さんは大駱駝艦の公演に客演したことも(上左がクマさん、右が麿さん)(C)川島浩之

 2023年2月、麿さんは80歳を迎える。コロナ禍で延期となったフランス人ダンサーとのデュオ作品「ゴールドシャワー」のフランス公演は2023年4月、大駱駝艦の新作は2024年に上演予定だ。大駱駝艦も麿さんも、その歩みはまだまだ止まりそうにない。

クマさんこと篠原勝之さんは大駱駝艦の公演に客演したことも(左が麿さん、右がクマさん)

3歳の孫にはこの顔で近づくといまだに泣かれるから、一定の距離を保ってチョンチョンっと触るだけ。

 腰痛いなあとか、足痛いなあとか、自分の身体の変化も今はまた面白い。僕の踊りは日常のちょっとした狭間(はざま)から生まれますから、どれも踊りのネタになりそうですよ。

 かなり先の予定も入っているが、死んだら知らねえぞ、という気分だけどね。まあ、舞台で死んだら、音楽に合わせて電流でも流してもらえれば身体がピクッと動くだろ。それも面白いかもしれないね

〈取材・文/太田美由紀〉

 おおた・みゆき ●大阪府生まれ。フリーライター、編集者。育児、教育、福祉、医療など「生きる」を軸に多数の雑誌、書籍に関わる。2017年保育士免許取得。Web版フォーブス ジャパンにて教育コラムを連載中。著書に『新しい時代の共生のカタチ 地域の寄り合い所 また明日』(風鳴舎)など。