森英恵さん

 今年8月。日本のファッションデザイン界の草分け的存在だった森英恵さんが、老衰のため96歳で逝去。孫の森泉や森星はモデルやタレントとして活躍していた。

東洋人で初の偉業

「森英恵さんは島根県の医師の家に生まれました。小学4年生のときに東京へ転居し、東京女子大を卒業。繊維会社の子息であった森賢さんと結婚後にドレスメーカー女学院で洋裁技術を学び、‘51年に新宿東口に洋裁店『ひよしや』を開きました。

 石原裕次郎さんや月丘夢路さんの映画衣装を手掛け、‘65年にニューヨークコレクションに参加すると、‘77年にはパリコレクションに進出しました。この年に東洋人で初めて、高級注文服をつくるデザイナーたちのオートクチュール組合に加盟しました」(ファッション誌編集者)

 ‘55年に銀座にオープンしたブティックから始まったブランド『ハナエモリ』は成長を続け、‘80年代半ばには年商400億円に達した。

 皇后雅子さまのご婚儀に際してはローブ・デコルテなどをデザイン。美空ひばりさんのラストコンサートの不死鳥ドレスやバルセロナ五輪の日本選手団のユニフォームなども手掛けた。

 ‘96年には文化勲章を受章するなど、順調な活動を送っているかに思えたが‘02年5月30日に民事再生法の適用を申請する事態となった。

「負債額は101億円で実質の倒産となりました。本業以外にも手を出し、‘90年代初頭には出版・番組制作などの情報部門や美容室経営などの美容部門など、『ハナエモリグループ』として19社を抱え、徐々に経営状態が悪化。経営面をリードしていた夫の賢さんが‘96年に亡くなると、息子の顕さんが後を継いだもののさらに経営が悪化しました」(経済誌記者)

第一線を退いた後は美術館で館長

【追悼】森英恵展のフライヤー

 その後、森英恵さんは‘04年のパリコレクションで第一線を退いた後は、彫刻の森美術館や美ヶ原高原美術館などの館長を務めた。

 そんな森さんの功績を称えるとともに追悼の意を込めて、12月22日から‘23年1月29日まで地元の島根県立石見美術館で特別展が開催される。所蔵する森さんの作品約30点が展示されている。

ブランド初期にモチーフとして多用した蝶が『ハナエモリ』のシンボルとなっていますが、この蝶は森英恵さんが幼少期に、郷里である島根県吉賀町で目にした記憶からきています」(前出・ファッション誌編集者)

 郷土への思いが強かった森さん。今回の追悼展を開催した経緯について同美術館の学芸員はこう話した。

森英恵さんは当館が所在する島根県西部の出身です。当館はファッションを活動の柱にしていることもあり、また、郷里の美術館としてご本人と交流があったことから、訃報を受けて今回の追悼展を開催するに至りました

作品の3分の2ほどは森さんが寄贈

島根県立石見美術館外観

 この美術館とは設立当初から深い関わりがあった。

「公立の美術館がファッションを扱うのは非常に珍しいことです。森さんからは“美術館でファッションを扱うならば、その専門の学芸員を育成していかなければいけませんね”とお話しいただきました。以降は、私ともう1人の学芸員がその分野の勉強をしています」(前出・学芸員、以下同)

 所蔵作品の3分の2ほどは森さんが寄贈したものだという。

「ご本人から寄贈のお申し出がございました。‘07年と‘15年に大規模な展覧会を実施した際には森先生にお越しいただきました。‘15年には開館10周年ということもあり、受付スタッフの制服をデザインしていただき、現在も大切に使っています」

 今回の展示に合わせて“2代目社長”も登場するという。

特別展を行うにあたり、ご家族からのご意向などはございませんでした。追悼展の開催についてご報告したところ、長男の森顕さまから “母の大好きだった郷里のこの場所で、母の話をしてみたい”というごお申し出がありまして、講演会が実現しました。内容については、ご長男という立場から、森英恵さんの思い出話をなさると聞いております

 長男・森顕氏の講演会は1月21日に開催予定。母のブランドを立て直せなかった息子は、母の故郷で何を語るのか――。