コメンテーターなどメディアでおなじみの内科医、おおたわ史絵さん。華やかに活躍する一方で、彼女が矯正医官という刑務所内の医師、通称「プリズン・ドクター」でもあることを知らない人は多いのではないだろうか。
「自分が医者になった意味とはなんだったのか深く考える時期があって、ちょうどそのころに法務省の方から矯正医官の人手が足りないことを聞いたんです」
おおたわさんが矯正医官として働き始めたのは2018年。最初に訪れた際、塀の中とは思えないほどやわらかい空気が刑務所の医務部には流れていると感じたそう。
法務省矯正局医師という立場から見た「塀の中の実態」
「今までやってきた医療と何ら変わらない世界が、そこにはありました。普通の病院と同じように医師がいて、ナースがいて、糖尿病やがんを患っている人がいて、彼らは切実に治療を必要としている。刑務所で働くなんて怖いんじゃ……と言われるのですが、私は被収容者をまったく怖いと思わなかった。不必要な偏見や先入観抜きに診察できるなと感じたので、この仕事を引き受けました」
プリズンドクターになって、もうすぐ5年目を迎えることとなる。その間、首都圏の刑務所以外にも北陸地方や少年院などを担当し、さまざまな受刑者との出会いがあった。
「抗争で片方の眼球を失った人、耳が切り落とされている人。『違和感を感じる』と、陰茎を自分で切ってしまった人。若い女性受刑者の背中にあった何本もの切り傷は母親の虐待によるものでした。また、背中一面に和彫りの刺青を入れた女性は、一緒に覚醒剤をやっていた男に誘われて彫ったと言っていました。塀の外で医者をやっているだけだったら、まず見ることのない傷をたくさん見ました」
特にこの数年は、コロナウイルスの対応に追われる日々だった。
「本来、刑務所でマスクはご法度。中に危険物を隠すこともできますし、受刑者の表情が読み取れないのもリスクがあります。ボールペン1本ですら持ち込み禁止ですから、マスク着用が当たり前となったのは異例のことでした。外部からの面会は禁止となり、いつも以上のストレスで、受刑者同士のちょっとした諍いは増え、刑務所内もピリピリとした雰囲気が充満していました」
終わりの見えない感染症との戦いは、塀の中でも同じ。そんな中でも光の見える瞬間があった。
刑務所の中には金属工場や木工工場、印刷工場など、さまざまな工場がある。
「希望となったのは、刑務作業の一環である医療用の防護服の需要が急激に伸びたことです。マスクや防護服の不足が叫ばれていたころで、所内の縫製工場はとても忙しくなりました。これには、コロナ禍に立ち向かっている人たちが助かるんだ、人の役に立てるんだと、みんな一気に覇気が出て、一生懸命作っていました。その様子はメディアに取材もされましたね」
刑務作業が、時にはこうして受刑者たちの希望にもなるようだ。
「人に頼りにされれば、これだけ力を出して団結もできるんだと認識を新たにした一件でした。感謝されることのないまま生きてきた人に夢や目標を持てというのは非常に難しいことですが、人の役に立つこと、褒められることを実感さえできれば、それが原動力になるんです」
普通の生活を知らない受刑者
感謝され、頼りにされ、求められる。人はその積み重ねで成長していくのではないか。塀の中で出会った人々の人生を知るとき、その思いは強くなった。
「親に褒められたり、人にありがとうと言われたり、誰かに優しくされたとか、そういう小さな関わりの連続で、人は人を信じる力をもらい、希望を持てるのだと思います。一方、塀の中にいる彼らの人生を知ると、生育環境や周りの条件がとてもマイナスに作用している人が多い。普通の人間関係を知らないから、普通に振る舞うことができない。そういう人が犯罪につながっていくことは、ここで働き始めて直面した現実です」
犯罪者が刑務所で医療を受けることを腹立たしく思う人もいるかもしれない。被害者の立場になればなお許せないのも当然だ。しかし、「刑務所はただ罪人を閉じ込めて懲らしめる場所ではない」と、おおたわさんははっきり言う。
「刑務所の本当の目的は、懲役という労働力をもって罪を償う場所なのです。そしてその毎日の中で自省や学びを経験し、更生の道が開けていく。心身がある程度健康な状態でなければ、規則正しく働き、罪を償うことはできません。
だからこそ国の責任として彼らの体調管理をするスタッフが必要であり、そのために私たちがいる。遠回りなようですが、それがもっとも再犯防止につながるんです」
私たちが偏見や差別をもって石を投げれば、結局社会に戻った彼らはまた悪に手を染めるしか生きる道がなくなり、新たな被害者を生む。負の連鎖は続いていくのだ。刑務所の中でも、何度も罪を重ねて収監される累犯率がもっとも高いのは薬物依存者だという。
母の依存症が関わる経緯に
「私の母は薬物依存患者でした。医療用のもので合法ではあるものの、鎮痛効果と多幸感、万能感は違法薬物に勝る部分もある難しいもので、母が依存症になるのに時間はかからなかった。幼少のころから母の依存症と戦いながら生きてきて、最後は命を落とした姿を見ているので、医者になった意義として、どこかで依存症の人たちと関わっていく医療ができたらというのはずっと考えていました。
ただ、依存症治療というのは精神科の領域なので、なかなか難しかった。刑務所で依存症患者と多く関わることができたとき、これで自分のこれまでやってきたこと、母のこと、なぜ医者になったか、いろんなことが初めてつながったなぁという気がしました」
最近は、受刑者たちの更生につながればと「笑いの体操」を指導しているというおおたわさん。「ホッホッハハハ」という掛け声に合わせて身体を動かし、文字どおり笑いながら運動するのだ。
「この体操を知った当初は私も半信半疑でしたが、疲れているときにやると嫌なことがバカらしく思えて、楽しい気分になってくる。笑うことで、人間の感情から離れた受刑者たちの更生の手助けになるのではと、提案してみたんです。
笑いながら罪を犯す人ってきっとそう多くない。笑うことを知らなかった、忘れていた彼らが、いつか出所したときに少しでもこの体操を思い出して、正しく生きる力になることを願っています」
塀の中も外も変わらない。そこには1人の医師として患者のことを思う、おおたわさんの姿があった。
『プリズン・ドクター』(新潮社刊 税込み968円)〈文身〉〈傷痕〉〈玉入れ〉などカルテに独特の項目はあれど、そこには切実に治療を必要とする人、純粋に医療と向き合える環境があった。医師人生を振り返りつつ、受刑者たちの健康と矯正教育の改善のために奮闘する日々を綴る。
(取材・文/片岡あけの)