冨士眞奈美、吉行和子、故・岸田今日子さん三人旅(TV)上海

 女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。1960年代を追憶する。

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 これまで、さまざまな媒体で対談をさせていただいた。その一つに、『しんぶん赤旗日曜版』がある。手塚治虫先生との対談も赤旗。とても優しい方だったことを覚えている。

宮本顕治委員長との思い出

 たくさん印象的な方とお話しさせていただいたけれど、中でも、1958年に共産党の書記長に就任し、その後約40年にわたって指導された宮本顕治委員長は、とてもユーモアに富んだ方だった。

 昭和初期に生きたプロレタリア作家・小林多喜二の愛と青春を描いた、今井正監督の 『小林多喜二』。この作品で、私は宮本委員長の奥さまである、小説家、評論家の宮本百合子さんを演じた。

 このとき私は、ふっくらしたお顔立ちの宮本百合子さんに似せるために、役作りで口の中に “含み綿”を入れ、撮影に臨んでみた。映画で、頬を膨らませた私を見た宮本委員長は、「そっくりだ!」ととても気に入ってくださったらしい。

 あるとき、テレビで宮本委員長が息子さんとキャッチボールをしていらっしゃる光景を見たことがある。投じた一球が抜群のコースでキャッチャーミットにおさまると、宮本委員長は「ストラーイキ!」と声を上げていた。その後も、宮本委員長はストライクのボールをずっとストライキと叫ぶ。冗談なのか本気なのかわからないけれど、洒落だったら最高。

 このころは、ここ日本でも社会運動が盛んだった。

 1960年代に、石原慎太郎さんや永六輔さん、谷川俊太郎さんら若手文化人によって結成された「若い日本の会」という組織があった。'60年の安保改正に反対を表明するために作られたこの会に、実際に名を連ねるにはいたらなかったけど、私も誘われた。

 社会運動といえば、三島由紀夫さん。私は所々でばったりお会いしたことがあるくらいだったけど、岸田今日子ちゃんは偉い。文学座の新人のころ、三島さんに抜擢されて、三島さん演出の舞台『サロメ』で主演を務めたほどだったのだから。尊敬する。

名女優として知られた、冨士さんの親友・岸田今日子さん

「句友が亡くなるのは本当にさびしい」

 この時期、私はジャーナリストの矢崎泰久さんが立ち上げた、ミニコミ誌の草分け的存在である『話の特集』のメンバーになり、よくお酒を飲んでいた。『話の特集』は、こちらも谷川俊太郎さん、寺山修司さんといったユニークな文化人が多数登場する気鋭の雑誌だったから、私は『話の特集』で十分楽しかった。

 実際、私はこの雑誌にとてもお世話になった。

 先日、敗血症のため78歳で亡くなった、矢吹申彦さんも『話の特集』の主要メンバーの一人。彼は人気イラストレーターで装丁家だったけど、俳号・矢吹猿人(さるんど)という俳人としての顔も持ち合わせていた。よくご一緒した。句友が亡くなるのは本当にさびしい。

 私が俳句を始めたのは、20代半ばのころ。俳人・中村汀女先生が主宰する『テレビ句会』に出演したことがきっかけだった。「なかなか面白いな」と思い始めていたころ、『話の特集』の矢崎さんが音頭をとって「毎回ダラダラと飲んでいるだけじゃなくて、頭を使った知的な遊びでもしようじゃないか」──というわけで句会を開催するようになった。

 和田誠さん、山下雄三さん、中山千夏さん、下重暁子さん、山藤章二さん、小沢昭一さん、野坂昭如さん、藤田敏雄さん……いろいろな方々と俳句をきっかけに交流するようになり、気がつくと、仲よしの岸田今日子ちゃん、(吉行)和子っぺも加わっていた(笑)。

 句会では、誰がその俳句を作ったのか無記名で披講される。選ばれて初めて「それは私です」と名乗る。肩書や年齢なんて関係ない。民主的だから楽しかった。いい趣味を見つけたと、私はどんどんハマっていった。

 最近は、ねじめ正一さんを頼りに、定期的にWEB句会に参加。参加者はLINEで自分の俳句を送る……んだけど、どうにも私はLINEが苦手。私だけFAXでねじめさんに迷惑をかけている。

冨士眞奈美(ふじ・まなみ)●静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。

(構成/我妻弘崇)