実相寺昭雄監督や岡本喜八監督など、日本映画界の“レジェンド”たちに認められ数々の作品に出演。それでも「自分で“かくありたい”と思ったことはない」と自身の“役者道”について語る寺田農。60余年、演じ続けてたどり着いた境地とは──。
監督のイメージで変わる“カメレオン俳優”
“寺田農”でググると、検索ワードの候補に“ムスカ”と出てくる。'86年に公開されたアニメ『天空の城ラピュタ』で、ムスカ大佐の声を演じた俳優・寺田農。だが、ラピュタが代表作と思われるたびに、寺田は困惑する。
「外国映画の吹き替えは何本かはやったけれども、アニメは初めてでね。収録の後半はまだ絵ができていなかったから、“15秒でこのセリフ”なんて指示が出て、時計を見ながらオレはムスカの声をやったの」
30年後。劇中曲をフルオーケストラで演奏するコンサートに、寺田はシータ役の声優とともにゲスト出演。満員のステージでセリフを読むことになったが、
「完成品を1度も見ていないからセリフがかみ合わないわけよ。そしたら指揮者に、“いやいや、みんなわかっています、わかっていないのは寺田さんだけです”って言われてさ。で、娘が持っていたDVDを借りて初めて見たら、意外にうまくやってるんだね(笑)。結果として狙いどおりにハマったのであれば、それは宮崎駿監督の力であって、オレはラピュタに何の思い入れもないんだよ」
では、代表作は?そう質問すると、寺田はもっと困惑した。
「“これがオレの”と言える作品はないの。以前、NHKの番組で、いみじくも“カメレオン俳優”と紹介されたことがあった。オレの役者としての色は、監督のイメージでいろいろ変わるから」
今、80歳。60余年の役者人生で出演した映画、ドラマ、舞台は、数え上げたらキリがない。そんな多彩なキャリアを持つ寺田を、昔から間近で見てきた人がいる。『ウルトラマン』シリーズで知られる実相寺昭雄監督の作品でカメラを回してきた撮影監督の中堀正夫さんは、こう話す。
「不思議なことにね、あれほどの演技力がある人なのに、主演した映画は3本しかない。そこが驚きであると同時に、寺田さんらしさなんです」
「農」は本名。「みのり」と読む。後漢の詩碑にある一文字を取って、洋画家の父・政明さんが名づけた。
'42年、寺田が生まれたのは東京・豊島区椎名町にあった長崎アトリエ村。戦前から芸術家たちが集う界隈(かいわい)は、パリの芸術の中心地にちなんで“池袋モンパルナス”と呼ばれていた。
「5歳のときに板橋区常盤台に引っ越して、親父はヒグラシの谷と称したけれども、何もないところでさ。家で絵を描くのも遊びのひとつだった」
父に絵を教わったことはない。が、小学2年生のときに描いた鰈(かれい)の絵が文部大臣賞に選ばれた。
「賞品にもらったのが木箱に入った52色のクレパス。金色や銀色もあった。でも、使った記憶がない。なぜかというと、オレの絵の興味はそこで終わったから。絵描きの息子でしょ?どうすればウケるか知っちゃって、リンゴをわざと真っ黒に描いたりするわけよ。そういうイヤなガキだった(笑)」
興味はキャンバスの外に向けられる。小3でサッカーを始め、カントリー&ウエスタンを聴きまくる。楽しいことは自分で見つける性格。憧れた職業は新聞記者だった。
「親父が新聞小説の挿絵を10年ほど描いていたから、家には新聞記者がしょっちゅう出入りしていた。決定的だったのは、夏休みに新聞社が車を出してくれて、房総まで海水浴に行ったときのこと。事故で大渋滞になったら、社旗をパッと立てて反対車線を走り出し、事故現場に差しかかると警官は咎(とが)めるどころか敬礼して道を空けてくれた。これは新聞記者になるしかないぞと」
家には文壇の個性派たちも出入りしていた。新聞連載小説『人生劇場』で売れっ子だった尾崎士郎は、アトリエで昼間から政明さんと酒を飲み、学校から帰ってきた寺田を「新聞記者になるなら早稲田に行け!」と焚(た)きつけた。何がなんだかわからないまま、さりとて深い考えもなく、寺田は早大政経学部を受験。
「面接教官だった政経学部の教授がサッカー部の部長で、内申書を見ながら“キミはサッカー部に入りたくて早稲田を受けたのか?”って聞くから“もちろんです”と答えた。それがよかったのかどうか……。合格したわけだよ」
面接で言った手前、義理でもサッカー部に貢献しなければならない。当時の早大サッカー部は天皇杯で優勝を狙える最強チーム。練習は厳しい。球拾いを3日間やると、義理は果たした気になった。
「いい女がいる」の誘い言葉で文学座へ
そして、'61年に運命の扉が開く。
「文学座が研究生を募集しているから一緒に受けようと、友達から誘われてね。芝居なんか見たこともないし、興味もなかったけれども、“いい女がいる”っていうから冷やかしで受けた」
文学座は俳優座、劇団民藝と合わせ新劇三大劇団のひとつ。今でいえばオーディションで、面接官の顔ぶれにどこかで見覚えのある人がいた。「あの人、誰?」と尋ねると、「杉村春子先生だぞ」とほかの受験生にあきれられた。
音楽の試験。配られた楽譜が読めない。「ドは、どれですか?」と聞き、譜面に「ソ、ファ、ミ」と書き込みながら読んでいると、「キミ、朗読じゃないんだから歌いなさい」とイエローカード。
声楽の試験では、後に世界的指揮者として名を馳(は)せる若杉弘さんのピアノ伴奏で、各自が得意なクラシックの楽曲を歌った。でも、寺田の十八番はカントリー&ウエスタン。
「伴奏できないって言われたから、Am(マイナー)とDmとFの3コードで弾ける曲を自分でギターを弾いて歌ったんだ」
ピンチを奇策で切り抜けた。そして、最終試験はシェークスピアの『ハムレット』にある「第一独白」の朗読。
《この穢らはしい體──》
劇団の演出家でもある福田恆存(つねあり)さんの翻訳は旧仮名遣いで漢字も旧字体、新劇を志す者なら知っていて当然。ふりがななんかついていない。
「これ何と読むんですか?」
「けがらわしい、です」
「次の、この字は?」
「からだ、です」
「じゃあ、次の……」
「キミ、もういいです」
2枚目のイエローカード。だが、タイムアップの直前に面接官をしていた名優・芥川比呂志さんが聞いた。
「大きい声、出せますか?」
デカい声ならいくらでも出せる。なにしろ中高時代はサッカー部のキャプテン。思いっきり大声を張り上げて、寺田の試験は終わった。
結果は、合格──。「これからの時代、ああいう変なヤツがひとりくらいいても面白い」という芥川さんのひと言で、寺田は文学座の研究生になった。
「だけど、入ってみたら“いい女”なんかいないんだよ。オレ、高1のときにヒッチコックの『めまい』を見て、主演女優のキム・ノヴァクが憧れの女性だったの。そんな年上のすてきなお姉さんと出会えるかと思ったら、横にいたのは希林だもん(笑)」
研究所の第一期生は、北村総一朗、草野大悟さん、岸田森さん、小川眞由美、橋爪功……、最年少の18歳が寺田と樹木希林さんだった。
出番はすぐに訪れる。その年の暮れ、三島由紀夫が書き下ろした『十日の菊』の初公演。愚連隊のような変なヤツが登場する芝居に「ちょうどいいのがいる」と、寺田に白羽の矢が立った。
「困っちゃってね。大学には行けなくなるし、稽古では演出家からバカヤローって怒鳴られるし。台本を放り出して帰ろうとすると、文学座の先輩だった山ざき努さんが“我慢しろ、芝居はこういうもんなんだ”ってなだめてくれたけれども、オレは我慢、苦労、忍耐、努力って言葉が昔から大嫌いなんだよ」
イヤイヤ上がった初舞台。寺田の演技を「実にイキイキしていた、素晴らしい!」と大絶賛したのは、作者の三島だった。以降の舞台でも役がつく。稽古が忙しくなり、大学は中退。家も出て寺田はひとり暮らしを始めた。
「ズルズルと役者の道に入ったという感じだね。いまに至るまでオレは自分の意志で“かくありたい”と思って生きたことがないの。飽きっぽいし、すぐに目移りするし。そういう意味ではプロフェッショナルじゃない。“偉大なるアマチュア”なんだ(笑)」
巨匠・名優に出会い、走り出した役者人生
いくつもの“出会い”が寺田さんの役者人生の道導(みちしるべ)になる。21歳のとき。文学座のアトリエ公演を見に来ていたTBSの演出家・久世光彦(てるひこ)さんから紹介されたのが実相寺昭雄監督だった。
26歳にして“鬼才ディレクター”といわれていた実相寺監督は、自身が担当するTBSのドラマの次回作に出演する若い役者を探していた。そのために久世さんが寺田を引き合わせた。すると、なぜか、ウマが合った。
「赤坂にあった寺田さんのアパートに、実相寺さんは友達を連れて毎日遊びに行ってましたね」(前出・中堀さん)
そして'64年にスタートしたドラマ『でっかく生きろ!』の収録で寺田は、“光と影”を操る実相寺監督の映像世界を垣間見る。演出も尋常ではなかった。
「あと2センチ前に出て、まばたきしないで、息も止めてって……。レントゲン撮ってんじゃないんだからさ(笑)。でも、そこに文句を言う役者をジッソーは嫌うの」
撮影現場をよく知る中堀さんも、こう述べる。
「実相寺さんにとって役者は動く小道具なんです。撮影中、小道具は自分勝手に動いちゃいけなかった」
それでも番組では好き放題やれた。寺田、実相寺監督、そして共演の古今亭志ん朝さんの3人は、毎晩のようにつるんで飲み歩く。しかし、楽しい毎日は続かない。ドラマは不評で実相寺監督は途中降板。その決定に最後まで抵抗した寺田も、8年間TBSに出入り禁止になった。
「ジッソーとは顔を合わせるたびに、お互いに知り合った不幸を嘆き合ったもんだよ」
この一件で実相寺監督はTBS映画部に異動し、特撮映画の道へ。すでに新進気鋭の役者として人気が出始めていた寺田は、日本テレビから声をかけられ'65年、石原慎太郎の小説を東宝がドラマ化した『青春とはなんだ』に不良学生役で出演。次作『これが青春だ』('66年)にも起用され、自身の人気にますます拍車がかかることになった。
「大ファンです、サインくださいって、ノートの切れっ端みたいなのを出すおばさんがいっぱいいた。オレはテキトーにサインしてたんだけれども、後に三浦友和さんと共演したときに、“ウチのおばあちゃんが寺田さんにサインをいただいて神棚に飾ってあります”って言われて驚いちゃってさ。それからは、どんな切れっ端でもワタクシはちゃんと心を込めてサインをするようになりました(笑)」
そして、東宝映画のエース監督・岡本喜八さんとの出会い。'68年公開の『肉弾』で、寺田は主役に大抜擢(ばってき)。実は、前年に軍部の終戦を描いて大ヒットした『日本のいちばん長い日』のキャスティングから、岡本監督は寺田に目をつけていた。
「扮装(ふんそう)テストというのに呼ばれて、軍服姿で写真撮影していると、やたらオレの身体をベタベタ触ってくるから、心の中で“このカントク、オネーサンかよ?”って思っていたら、オレのヤセ具合を確かめていたんだね」
しかし、撮影日程が劇団の公演と重なり、出演は見送り。満を持して起用された『肉弾』でも、思わぬ問題が生じた。主人公の「あいつ」は丸刈りの兵隊。放送中の青春ドラマでコーチの役を演じていた寺田の髪型が突然変われば、話がおかしくなる。だが、
「ドラマの台本が書き換えられてね。いつの間にかコーチがしくじってアタマを丸めるシーンが追加されていた。そんないい時代でしたね」
かくして撮影は始まった。『肉弾』は陸軍予備士官学校で終戦を迎えた岡本監督が、自らの体験を投影した作品。魚雷とともに敵艦に突っ込んで散る人生を軍に強いられた「あいつ」は、上官に張り倒され、全裸で砂浜を駆ける。「少女」役の新人・大谷直子とのラブシーンも鮮烈。身体を張った演技で、寺田は毎日映画コンクールの男優主演賞に輝いた。
でも、喜びはなかった。
「戸惑いのほうが大きかった。終戦は3歳のときだから、オレは戦争を知らないの。いくら考えたって、“あいつ”を自分で理解して演じることなんかムリ。受賞は、すべて監督の指示に従って、動く小道具のようにやった結果なんだ」
思い出の写真がある。岡本監督と並んだ笑顔の一枚。
「同じ笑いじゃない。オレは、明日は必ず来ると思って能天気に笑っている。岡本さんのは、明日は来ないかもしれないという笑い。死んでいった多くの戦友のためにも、“今日を大切に生きる”という目だよ。その目に見られながら毎日一緒にいたんだから影響を受けないわけがない。ただね、オレの中では“今日が楽しけりゃいい”という解釈になっちゃうんだな(笑)」
『肉弾』に続き、翌年の『赤毛』でも岡本監督は寺田を起用した。時代は幕末。主演の「赤毛」は三船敏郎さん、寺田が演じる「三次」は江戸前のスリ。撮影は冬のオープンセットで行われた。
「スリの扮装が素足にわらじでさ。寒いし、痛いから、映るときだけ履きゃいいだろってふてくされてふんぞり返っていたら、“そう言わないで、ハイ、履く!”って、誰かがオレにわらじを履かせてくれるんだよ。で、見たら三船さん(笑)。世界のミフネにわらじを履かせてもらった男ってんで、みんなに怒られた」
この年の『キネマ旬報』の助演男優賞を最後まで争ったのが、『黒部の太陽』で石原裕次郎さんの相手役を務めた三船さんと、『赤毛』の寺田だった。
「もちろん三船さんが受賞するんだけれども、獲(と)りたかったね。役者として初めて何かをやろうとしてやったと思えた映画が『赤毛』だった」
岡本作品で、寺田は役者としての存在感を存分に示した。仕事は一気に増える。28歳で結婚もした。そして、“生涯の師匠”と呼べる役者と出会う──。
演じる面白さに開眼。主演2作目は──
「スターは三船、役者はのり平」といわれていた当時の芝居の世界。希代の舞台人・三木のり平さんの座長公演からお呼びがかかった。役は『おれは天一坊』の山内伊賀亮(やまのうちいがのすけ)。
寺田は、すでにのり平さんと何度か共演していた。'70年に放送されたNHKの『男は度胸』には、徳川幕府転覆を謀る天一坊事件の場面があり、寺田は黒幕の1人である伊賀亮を演じた。それを脇で見ていたのり平さんが、自分が主役の天一坊を演じる舞台に寺田を呼んだのは、役者として持っている力を認めた証しだった。
「のり平さんとはちゃんと話をしたことがなくて、映画で親子役として初共演したときも、寺田です、寺田です、寺田ですって3回言って、ようやく返事をしてくれた。気難しいことで有名な人だから、どうしようかなと思ってチョーさん(古今亭志ん朝)に相談したの」
落語家の志ん朝さんを芝居の世界に引っ張り込んだのはのり平さんだった。直弟子の志ん朝さんは寺田の迷いを吹き飛ばさんとまくし立てた。
「農なら先生と合う、幕内のことは全部アタシが面倒見るから絶対におやんなさい。断ったりしたら縁を切るよ!」
親友の太鼓判で出演を決めた。ところが、本番3日前になっても台本は半分も上がってこない。できている台本を読むと、伊賀亮は天一坊をしのぐ大役。稽古もできず、またふてくされそうになると、のり平さんは言った。
「舞台で演(や)りながら教えるよ」
初日。寺田の耳元で「客はスイカだと思えばいい」と、のり平さんが囁(ささや)いた。
「古典的な励まし方をされて舞台へ上がると、のり平さんは芝居をしながらオレの位置や身体の動かし方を教えてくれて、(わかったかい?)という目をする。手取り足取り、まさにプレーイングマネージャーだった。この人が役者としてのオレの師匠だと、そのとき思ったね」
演じることの面白さを知り、寺田の活躍の場は広がる。'81年、相米慎二監督の『セーラー服と機関銃』に出演すると、以降の相米作品に欠かせない役者となる。相米組チーフ助監督だった桜美林大学教授(映画演出)の榎戸耕史さんは言う。
「台本ができると、寺田さんは自分のスケジュールでやれそうな役を、自分で選んでくれるんです。そんな出演依頼ができた役者さんはほかにはいませんでした」
'85年。『ラブホテル』の台本が上がり、榎戸さんは寺田に届けた。その場で読んだ寺田は、榎戸さんにこう告げた。
「オレが、村木をやる」
村木は主役。しかも作品は日活ロマンポルノ。榎戸さんが相米監督に伝えると、「おお、いいんじゃないか!」という返事。寺田にとって『肉弾』以来となる2本目の主演が決まった。
「あそこまでのハードコアは寺田さんも初めてだったと思いますが、心配なのは主演女優の速水典子さんのほうでした。ほぼ新人で、相米の演出に耐えられるような技量はまだなかった」(榎戸さん)
「相米監督の演出に泣かない女優はいない」といわれていた。簡単にOKは出ない。細かい演技指導もない。役者なら自分で考えろと、時に罵声も浴びせられる。だが、
「ビビっていた速水さんを寺田さんがリードし、カバーしたんです。撮影はハードで徹夜の連続でしたけれども、現場には一体感があり、進行は順調でした」(榎戸さん)
『ラブホテル』は'86年2月に開催されたヨコハマ映画祭で作品賞に選ばれ、寺田は主演男優賞を、速水も最優秀新人賞を受賞した。
ちょうどそのころ、寺田を「師」と仰いだ青年がいる。大学のサッカー部で将来を期待されながら、CMに映ったことがアマチュア規定に触れて試合に出られなくなった椎名桔平だ。
「サッカー部をやめて役者を志してはみたものの、何のあてもない中で悶々(もんもん)としていたときに、知人から寺田さんを紹介してもらい、付き人として撮影現場を経験させていただきました」(椎名さん)
しかし、寺田に「付き人」という感覚はなかった。
「インポッシブル・ドリームというサッカーチームをつくったときで、オレとしてはエースストライカーとして迎えたつもりだった。3年くらい一緒にいた後、オレから離れて桔平は売れたね(笑)」
師匠らしいことは何もしていないと言う。しかし、椎名は役者の道を進む中で、寺田との日々を思い出しては感謝していると話す。
「寺田さんの舞台の楽屋で支度のお手伝いをしていたら、ある日、机の上に何冊も本が積んであった。でも、読んでいる様子がない。その本は僕が夢を探せるように、わざわざ持ってきてくれたんですね。寺田さんが親交のある監督に頼んでくれ、小さな役でいくつか出演させていただきました。芝居がまったくできず、寺田さんには申し訳なかったのですが、インポッシブル・ドリームではそれなりに活躍できたと思っています(笑)」
助演として作品に尽くす“カメレオン”
インポッシブル・ドリーム──“見果てぬ夢”という言葉には、寺田の役者人生がにじみ出ている。前出の榎戸さんは言う。
「寺田さんなら社長役もできるし、ホームレスの役もできる。善も悪も演じ分けられる。ものすごい読書量で博識だから、演出だってできる人なんです。けれども自分から“真ん中”に立たず、監督のために、そして作品のために力を発揮してくれる。今はいなくなってしまった昭和のバイプレーヤーのいちばん正しい形だと僕は思います」
バイプレーヤーは脇役ではなく「助演」が本懐。時代が昭和から平成、令和に変わっても、寺田はさまざまなテレビドラマや映画で力を尽くしてきた。
テレビではNHKの大河ドラマや朝ドラ、映画では是枝裕和監督のデビュー作『幻の光』('95年/撮影・中堀正夫)等々。そして『風花』('01年)は相米監督の遺作。『ユメ十夜』第一話('07年)は脚本の久世さんと実相寺監督が亡くなった翌年の公開だった。
「仲がよかったヤツがみんないなくなって、オレだけ元気でも昔みたいな映画はつくれないよ。この10年、20年で、テレビも映画も小説も若年齢化しすぎて、面白くなくなった。白か、黒か、ハッキリ結果が出るものばかりで、警察や病院の内部とか、企業や業界の裏側とかを描いても、それは情報であって人間のドラマじゃない。
ドラマを演じるためにオレが芥川さんから教わったのは、“本を読め”と“恋をしろ”だった。恋をすればときめくでしょ?情熱も、嫉妬も、恨みも、つらみも、涙も、笑顔も、すべての感情は恋に凝縮される。ときめきがない人生は、生きていても仕方がないと思うね」
寺田は'06年に離婚。'11年、68歳で30代の女性と再婚した。真剣に恋をし、ときめくことを忘れてはいない。
'18年9月、樹木希林さんが75歳で亡くなった。
「希林はドラマをドラマとして演じられる最後の女優だったと思う。役者が芝居だけではやっていけない時代になっちゃって、もう希林みたいな女優は出てこないだろうね」
希林さんとは同い年。ドラマをドラマとして演じられる役者として、寺田が“真ん中”で力を見せる機会が'19年に訪れる。武田信玄の父・信虎の視線で武田家の存亡を描いた映画『信虎』('21年公開)で3度目の主役。
「話が来たとき、何でオレ?誰かに断られたのって聞いたら、そうじゃないと。“寺田さんにはスリリングなところがある”という大変なホメ言葉で。それならばと台本を読むと、『武田家の滅亡』というドキュメンタリーなら完璧だと思った。
だけど、映画は再現ドラマじゃない。ここはいらない、こうすると面白くなるって、ずいぶん口出しした。それでもまだ主役の信虎がしゃべりすぎだったけれども、最後は宮下さんの好きにおやんなさいって(笑)」
脚本を書いたのは共同監督も務めた茶人の宮下玄覇(はるまさ)さん。歴史・美術研究家でもあり、撮影では重要文化財クラスの茶道具や甲冑(かっちゅう)が使われ、実際に合戦があったお寺がロケ地になった。“本物”が持つ重みはスクリーンからも伝わってくる。『信虎』はマドリード国際映画祭など海外でも高く評価された。
「続編を……、という話があった。でも、“どなたかほかの方に”って答えた。飽きっぽいカメレオンだからね、楽しい夢を見て、ときめいていたいわけよ。生きているときは夢を見ているとき、死ぬときは夢が終わるときだと、いつもオレは思っているから」
ひとつの役に執着しない寺田の演技力は、いまも多彩で色褪(あ)せない。あのとき使わなかった52色のクレパスは、寺田の見果てぬ夢の中にあるのかもしれない──。
〈取材・文/伴田 薫〉