「『オールナイトニッポン』が始まったのは、小学校の4、5年生ぐらいだったんですけど、社会現象になっているのは、子どもでもなんとなく知っていました。“今まで聴いたことがないものをやっている時間があるんだな”と思って、小学校5年のときに何度か聴こうとしたんです。でも、目覚ましをいくらかけても、もう朝になっていて(笑)。で、到達できないまま中学生になりました」
『あさぼらけ』ラジオアナウンサー・上柳昌彦のバックボーン
こう話すのは、ニッポン放送で平日の朝4時半から6時(月曜のみ5時から)に放送中の『あさぼらけ』を担当するラジオアナウンサー・上柳昌彦(65)だ。中学生になると、クラスで深夜ラジオの話題があがるようになり、やがて自らの好みで聴く番組が増えていった。
「『あのねのね』の清水国明さんと原田伸郎さんでやっていた『オールナイトニッポン』は、“ラジオっておもしろいな”と思ったきっかけの1つです。朝5時前の放送終了間際に突然、“今から僕たちは山手線に乗ります”と言って、本当に駅へ向かって電車に乗って、そのまま車内から放送をしたんです。
電車が駅に着くたびに、夜明けなのにリスナーの人がどっと乗ってきて。それを聴きながら“すごいことが行われている!”と興奮しちゃって、なんでか外に出たんですよね。すると、近所に住んでいた友達も偶然それを聞いて外に出てきていて、2人で多摩川の河川敷で最後まで聴きました。駅に向かうにはとても間に合わないけれど、なにか参加したいっていう気持ちになったんですよね。
で、“また(リスナーが)乗ってきた、えらいこっちゃ”“この車両だけ超満員や”って言いながら、番組が終わって。“ラジオってこんなことできるんだ”と思って衝撃を受けました。ニッポン放送に入社してから当時の話を聞いたら、無許可でやって当時の国鉄にものすごく怒られたらしくて(笑)。
ディレクターの一存でやったので、しばらくは国鉄との仕事がなくなるほどの大問題になったそうです。でも、リスナーからすれば、自分がその車両に乗っているような一体感があったんです。“映像もないのに、こんなに興奮しちゃうんだ”という」
リスナーだった上柳は、1枚の写真をきっかけにラジオの世界に憧れを抱くように。
「かぐや姫の3人がスタジオでしゃべっている写真で、ラジオブースのガラスの向こうには長髪でヒゲを生やした男性がいっぱいいて。当時はミキサーやディレクターなどの存在を知らないころでしたから、何をしている人かわかりませんでした。でも、なぜか“この空間で何かやりたいな”と思ったんです」
しかし、はじめからアナウンサーを目指したわけではない。
アナウンサーは向いていないと思った
「しゃべりたいだなんて、まったく思っていませんでした。あのころ誰しもがやっていたのですが、ラジカセで自分の声を録音して“ラジオDJ”のまね事をやってみると、“自分の声って、こんなにくぐもった声なのか”と思って。ラジオから聴こえてくるメリハリのある声とあまりにも違うので、“向いてないんだな”と思っていましたね」
その後高校に入り、人前での“しゃべり”を経験した。
「1年生の夏、遠泳合宿の夜に演芸大会が開かれて、なぜか僕が司会をやらされました。あんまり覚えていないんですが、それがちょっとウケたらしいんですよ。その流れで、1年の学園祭でやった『ロミオとジュリエット』の人形劇で、演出と照明を担当しながら、ナレーションを読むことに。それはそれで終わったんですが、“こういう学園祭みたいなことが一生、仕事でできたらいいな”と思ったんです。
2年の学園祭では、8ミリフィルムを持ってきたクラスメイトがいて、クラス全員で『エクソシスト』だとか、『ジョーズ』とか、『ロミオとジュエット』とかのパロディ映画を撮ることになって。でも、8ミリで撮ると音がないんです。それに気づいたのが完成ギリギリで、“セリフどうする?”となったときに、8ミリを持ってきたヤツが“お前(上柳)が映像を見て、映画の活弁士みたいに解説しろ”と言いだして。
しょうがないので、映像に合わせて“こいつはもう学校サボって~”とか“こいつはフラれたばかりで~”とか、いい加減なことをしゃべっていたら、 それがたまたまウケたんです。2日間の学園祭で2回だけ上映して終わりの予定が、見たいという人が列をなして並ぶようになり、そのうち、好きな女の子も見に来たり(笑)。 でも、学園祭が終わると“受験”という空気になり、つまらない高校生活が始まって、学校もサボり始めて、映画ばかり見て……。
3年になるころ、教職用のトイレで用を足していたら、若い男性の担任と一緒になりました。“お前どうすんの。このままだとちょっと大変だよ。やりたいことないの?”と聞かれ、“いや……”と思っていたら“しゃべる仕事やってみたら”って言われて。
どんな職業があるか聞いたら、“アナウンサーしかわからない”と。それで、なる方法を尋ねると、“とりあえず大学は出た方がいいんじゃない”って(笑)。客観的に言われたので、向いているのかもしれないと思って、一応大学に行って、放送研究会に入りました。だけど、アナウンサーらしい実況やニュース読みは全然やらずに、音楽の間にラジオドラマを入れていくという、『YMO』と『スネークマンショー』のコラボレーションアルバムのまね事ばっかりしていたんですよ。
『オールナイトニッポン』への意欲もなかった
就職活動も、とりあえずドキュメンタリーの制作会社、CMの制作会社と、アナウンサー試験を受けました。たまたま、最初に採ってくれたのがニッポン放送だっただけで、“絶対に『オールナイトニッポン』のパーソナリティーをやりたい!”といった思いも、別になかったんです(笑)。
アナウンサー試験の日は午前がニッポン放送、午後がTBSでした。午前の面接でニッポン放送の方に“ここで君を採用するって言ったら、TBSの面接には行かないでニッポン放送に来る?”って言われて。そんなこと言われたら、“行きます!”と言ってしまうじゃないですか(笑)」
しかし、アナウンサーの仕事は学園祭のようにうまくはいかなかった。
「滑舌は悪いし、早口言葉も全然できず、喉は枯れ……、研修から挫折しました。 その年の入社は女性が多かったのですが、みなさんアナウンススクールにもちゃんと通っていたらしく、ものすごく上手でしたね。私は1回も行ったことがなくて、アナウンスなんてやったこともなかったので、“まいったな”と。
女性はすぐに番組も決まっていったんですが僕は全然だし、2年目の秋にやっと、週1回、若者向けの番組を担当したら、半年で番組自体が終わってしまっいました。すると、『オールナイトニッポン』の2部の枠が空いて“あいつ番組なくなっちゃったから、とりあえず”と、そこに入ることに。そんな感じだったので、“職業の選択間違えたかもしれないな”と思いましたね。
今でこそ、『オールナイトニッポン』の2部はスポンサーもついていますし、佐久間宣行さんみたいなすごい方がやって本当に面白いですが、あの当時はアナウンサーの兄ちゃんが入ることを許してもらえる時代だったんですよね」
それでも、だんだんと“ラジオっておもしろい”と思えるようになっていった。
「先輩のディレクター方に自分という人間をすごく知ってもらえたし、かわいがって育てていただいたので、本当によかったです。何か言えばリスナーからおハガキが来るし、中島みゆきさんが前の時間の番組をやっていたので交流を持てたりもしましたし。いまだにずっとそういうご縁が繋がっていますし、そういう場所をいただけたことは大きかったですね」
突発的なことを楽しめるのがラジオ
中でも印象的だった“神回”は……。
「新宿ワシントンホテルが開業するときに、営業企画みたいな感じで“とにかくずっと新宿ワシントンホテル何月何日開業って言えばいいから”と、スイートルームから放送しました。でも、午前3時なので、眠くてテンション下がっちゃって(笑)。別にこれといった企画もなかったので、 どうにもならず……。
そんなとき、外をふっと見たら夜景がキレイだったので、“今、放送を聞いている方は、部屋の電気をつけたり、消したりしてみてくれませんか”って言ってみたら、少し点滅があったんですよね。それで今度は、“こっちの方面を見るから、懐中電灯回してみてくれる?”と言ったら、結構ぐるぐるぐるぐる回ったんですよ。
それで、すごいと思って、やっちゃいけないことなのですが“甲州街道を走っているドライバーさん、パッシングしてみてください”と言ってみたらピカっと光って(笑)。“ごめんなさい! ダメダメ!”なんてことをやって、結局ずっと“男だったら、1回、女だったら2回”“イエスなら1回、ノーなら2回”“中学生は、高校生は~”とやっていたんです。
番組の最後には、オートバイや原付がワシントンホテルの下に集まって、上に向かってライトを照らしていて。現場にいた人間はものすごく興奮して、“おもしろい放送になった”と思いながらニッポン放送に帰ったのですが、スタジオにいたディレクターから“何やってるかよくわかんなかった”って言われ、“そうでもなかったんだな”と……。
でも、次の週にいつもの数倍の量、リスナーからのハガキが届いたんです。“和歌山でも見えた”とか“俺も博多で振ってた”とか。“こんな風にして遊べるのね”という学びがありましたし、“瞬発力でこんなことになるんだな”と驚きました。眠いままだらだらやっていたら、そのまま終わっていたんだと思いますが、逆境をおもしろがって、逆手に取って突発的なことを楽しめるのがラジオなんだなと思いました」
その後も多くの番組を担当した上柳は定年の60歳を迎えたが、ニッポン放送のグループ会社に所属し、アナウンサー業を続けている。いったいなぜ、この選択をしたのか。
「何らかの形でどこかでしゃべりたいとは思っていました。そのとき、ニッポン放送の嘱託になるとか、どこかの事務所に入るとか、選択肢はいろいろあったんですけど、たまたま今所属しているミックスゾーンの前身の会社が“うちでやらない?”と言ってくれたからですね。それと、“そんな理由かい”と怒られてしまいますが、荷物を(ニッポン放送がある)有楽町に置いておけるのもあるかもしれません(笑)。 それに、仕事仲間に恵まれているので、この仲間と一緒にやり続けたいと思ったからですね」
そんな上柳の人生の転機は、現在の担当番組『あさぼらけ』が始まったことだった。
番組のリスナーは「運命共同体」
「これまで多くの番組をやらせていただいたんですが、それって“=長寿番組がない”ってことなんですよ。アナウンサーなので、ある程度のことはできますが、そこからもう1段階上げて、長寿番組にすることはできていなかったんです。若いころやっていた音楽番組が4年ぐらい、テリー伊藤さんと一緒にやっていた番組が4年半、あとは1人で午前中の番組をやっていたのが5年ぐらいとか、全体的に短くて。
何か理由があったり、経費削減でなんとか社内のアナウンサーでやりたいという番組も多いんですけど、なかなかうまくいかず……。そんな中、現在のニッポン放送の社長がまだ編成局長だったときに、“嫌だったら断って”と、早朝の時間帯を頼まれて、“そこじゃないかって思ってたんですよ。ぜひやらせていただきたいです”と、『あさぼらけ』が始まりました」
経費削減のため、関わっているスタッフはディレクターとミキサーと上柳の3人だけ。
「昼の番組は、放送作家やアシスタントディレクター、サブ作家、サブディレクターがいたりと、スタッフが多い。それを3人でやっていかなければいけないことに、やりがいを感じています。ラジオって、関わる人数が少ないほうがおもしろいんじゃないかって昼の番組をやったときに思っていたんですよ。
台本があって、読み合わせして……というのではなく、もっと自由にやりたいなと。図らずもそれができることになり、いざ始まったら、“朝4時半から始まるけど、深夜放送をやっているんだな”ということに気づいたんです。やっぱり、特殊な時間ですからね。“運命共同体”って言ってくださったリスナーがいるんですけど、“こんな時間に聴いてるなんて”という結束力や、不思議な連帯感があるんです。
リスナーにお会いして話をする機会があると、みなさん親戚みたいな感じで話しかけてくれるし、身内意識みたいなものを持って接していただいているように感じて、すごくうれしいです。『あさぼらけ』を担当して、もう1度、ラジオがすごくおもしろいものだと思えました」
『あさぼらけ』に欠かせないのが、やはりリスナーからのメッセージだ。
「みなさんのメールをきっかけに僕のトークが始まることも多いです。たかが1時間半なのですが、かなりメールを読む量が多い番組だと思うんですよ。それは全部僕がメールに目を通して、選んでいるからかもしれません。偉そうですけど、リスナーの人生を紹介して、“そういう人って俺だけじゃないんだな”と思ってもらえるような番組になればいいなと思っています」
自身が病を患ったことで、上柳自身もその思いを体感した。
60歳で前立腺がんを患う
「僕は60歳で前立腺がんになり、昨年の10月には下垂体腺腫の手術をしました。それを番組で話したら、楽しいメールばっかりくれていた人が実は壮絶ながんとの闘いをしていたり、リスナーの中にも同じような経験をされた方が多いことがわかって。
“下垂体腺腫って何なの?”という感じだったのですが、“私も下垂体の手術しました”という人も、今で15人ぐらい。“今は普通の生活をしていますよ”っていうメールをいただくのも、ものすごく力を与えてくれますよね。
大病した人が頑張っていることを知ると“俺も負けてられないな”と思います。だから、同じように大病をした人は、“何回も手術してるけど、朝早く、というより夜中に起きてしゃべってる人がいるんだから、私も頑張ろう”って思っていただければいいなっていうふうに思いますね」
番組は今春で7年になる。
「担当した中ではいちばん長いんじゃないですかね。どのくらいまで続けられるかは聴いている方の判断ですから、“もういいよ”って言われたらそれはそれ。でも、やれるところまでやりたいなと思いますし、これが終わったらきっと次のレギュラーはもうないですから。ここで自分のしゃべり手としての人生を終えられたらいいなと思ってますけどね」
テリー伊藤から学んだ信念
上柳の“しゃべり手”としての信念は、テリー伊藤から学んだという。
「テリーさんがとにかく元気だったころ、'98年から'02年に『テリーとうえちゃんのってけラジオ』という昼の番組をやらせていただきました。僕はちょっとひねくれていたり、斜に構えたりするんですけど、テリーさんはすごく前向きで、すべてを“いいじゃないですか”って肯定する方。そういうところが本当にすてきだなと思ったんです」
テリーは日本大学に通っていたころ、学費値上げ闘争のデモ隊に参加していた。
「当時の新聞に載っている写真を見ると、テリーさんらしき姿があるくらい、学生の先頭に立って闘っていたんです。でも、学生が投げたであろう石が目に当たってしまい……。失意のうちに入院していたときに、巨人対阪神戦の中継をラジオで聴いたそうです。その試合で、王貞治さんの頭にデッドボールが当たって、命の心配をされるくらい昏倒(こんとう)してしまって。騒然とする中、次の打席の長嶋茂雄さんがホームランを打ったんです。それを見てテリーさんは、“この人に一生ついていこう”と思ったそうです。
なので、長嶋さんがジャイアンツの監督になったときにものすごく興奮して、“日本一になったら、東京ドームから長嶋さんの家まで、リスナーとみんなで提灯(ちょうちん)行列をする”って。僕は、はじめ“できるわけがない”というスタンスでした。でも、乗っかったほうがおもしろいと思って、“やりましょう!”と、2人で荒唐無稽なことを言うようになったんです。
それで、'00年に巨人が優勝すると、ニッポン放送のスタッフが一丸となって準備をして、結果的に東京ドームやミスターの家は行けませんでしたが、駒沢公園から多摩川の河川敷まで、何千人という人たちとの提灯行列が実現したんです。交通情報では、“デモ行進があって渋滞しています”と流れて、“俺らだよね!”と盛り上がったり、渋滞の車はテリーさんを見てゲラゲラ笑っていたり(笑)。」
ゴールの河川敷にはステージが用意されていた。
「みんなで一斗樽(だる)を割ろうとしたら、車がスーッて河川敷に入ってきて、そこから長嶋さんが降りてきたんですよ。これはすごかったですね。テリーさんも僕も泣いちゃいましたし、リスナーも大喜び。それを見たミスターがいちばん喜んでくれて。普通だったら、“許可がおりるわけがない”“常識で考えろよ”ってなりますよね。
ですが、こういう姿を見て、“俺たちがそれを言っちゃおしまいだよ”という“テリーイズム”を教えていただきました。“そんなのできないよ”とか“前例ないですから”というのはよくあること。でも“絶対どこかに抜け道がある”とか“絶対おもしろくなる”と考えるようにしようと。
とはいえ、それも意外と難しいんですよ。企画だって、“前もやった”とか、“できるわけがない”と、なんとなくまず否定から入っちゃうじゃないですか。それでも、なんとかやれる方法をみんなで集まって考えて……ということを、若い人たちにも経験してほしいなと思います」