女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。女優の面白さに目覚めた経緯を振り返る。
もともと、私は女優になるつもりなどなかった。当時は、原節子さんや高峰秀子さんといった美しい方々が女優でいらっしゃったから、自分が女優になろうなんてとんでもないことだと思っていたのね。
女優という仕事に前向きに
そんな気持ちを変えさせてくれた作品が1967年に放映された『悲しみよこんにちは』(TBS系)というドラマだった。原作はフランソワーズ・サガンで、もともとは1958年に米英の合作映画として公開された作品。その後、ここ日本でも舞台を那須高原に置き換え、梓英子さん主演のテレビドラマとして放送された。私は、若原雅夫さん演じる主人公の父親の愛人という役柄で出演させていただいた。米英の映画ではミレーヌ・ドモンジョが演じた。
「文学的な芝居をする若い女優がいる」。そう朝日新聞に褒められたことを覚えている。お芝居をすることが恥ずかしく、でもそんなこと言ったら生意気だと思われるだろうと葛藤していた私は、その文面がとてもうれしかった。「女優って褒められると、こんなにうれしいんだ!」。この作品を機に、女優という仕事に、前向きになれたと思う。
余談だけど、上野駅から那須へ出発する際に、私は階段で転落してしまい足を折っちゃった。本来は、劇中でスキーをするはずだったのに、スキーを眺めるという脚本に急きょ変更。ご迷惑をおかけしてしまったなぁ(苦笑)。
前向きになれた──とは言ったものの、それでも根性は座りきらないところがあった。『悲しみよこんにちは』以降は、特に褒められることもなく、役柄も清純だったり良家の子女だったり、どこか似たようなキャラクターが多かった。それに、その当時は目をかけてくれる演出家の方もいなかった。
例えば、(小林)千登勢は、芸術祭などにも登場していたけれども、それも違うと感じていた。それに、活字に関わる職業への憧れもあったから、どこかモヤモヤしていた。
そんな最中に、出演オファーを受けたのが『細うで繁盛記』(日本テレビ系)だった。実は、当初は断るつもりでいたの。当時、私は20代の終わり。役柄的に難しいんじゃないかなって。でも、舞台が生まれ故郷の静岡だと知って、やけのやんぱちでやってみることにした。
台本は大阪弁で書かれていたけれど、私が方言指導をするという感じで伊豆弁になった──というのは、案外知られていないお話かもしれない。
私は、それまで伊豆弁のなまりがコンプレックスで、アクセントを直されるたびに、顔から火が出るような気持ちになっていた。ところが、演出家の小泉勲さんが「好きなようにやっていい」と言ってくださって、思い切り開き直って「犬に食わせる飯はあっても、おみゃーに食わせる飯はにゃーだで!」なんて、故郷の方言を遠慮なくまくし立ててみた。そしたら吹っ切れちゃったの(笑)。
コンプレックスだと思っていたものが、“面白いもの”だと感じることができた私は、演じれば演じるほど『細うで繁盛記』の現場が楽しくて仕方がなかった。
主役の新珠(三千代)さんも、「いいのよ眞奈美ちゃん。もっとやってちょうだい。蹴っても殴ってもいいのよ」なんて声をかけてくださるようになってね。演者がノリにノッていたからこそ、『細うで繁盛記』は人気ドラマになったのだと思う。
ちなみに、私が演じた正子のトレードマークである牛乳瓶の底のような眼鏡。あれって、縁がべっ甲でできた特製品だったのよ。記念に取っておいたんだけど、あるとき見てみたら、べっ甲の部分が虫に食われていて、持ち上げたらレンズがポロンと2つとも取れてしまった……。
女優魂なんて大それたものはないのね。どういう役に巡り合えるか、だと思う。正子役がヒットしたことで、その後、私は出戻りや行かず後家の意地悪な役ばっかり来ることになっちゃったけど!(笑)
(構成/我妻弘崇)