人気アニメ『タッチ』の上杉達也を演じた三ツ矢雄二も現在68歳。一時は膵炎などの病気に見舞われたが、克服。現在もさまざまな活躍を見せる。声優だけでなく、劇団をつくり、ミュージカルに出演し、若き日に思い描いたやりたいことをすべて実現させてきたという。LGBTQの当事者でもある三ツ矢が、これからやりたいこととは──。
『タッチ』の上杉達也を演じ、「オネエ」キャラでブレイク
三ツ矢雄二といえば、人気アニメ『タッチ』の上杉達也を演じた声優、あるいは、「オネエ」キャラでブレイクし、「グレーゾーン」という言葉を流行(はや)らせたタレントとしての印象が強いかもしれない。
だが、それらは三ツ矢さんの活動の一部だ。アニメの音響監督、舞台の演出家や脚本家の顔も持つ。例を挙げると、1991年にデビュー間もないSMAPが出演したミュージカル『聖闘士星矢(せいんとせいや)』の脚本を書いたのは三ツ矢さんだ。2003年に始まったミュージカル『テニスの王子様』の脚本と、劇中の楽曲の作詞も手がけている。さらに、いち早く声優の養成所をつくり、これまでに2、3000人を育てた。
「声優をやりながら舞台の台本を書き、養成所で教えて……2足、3足のわらじを履いて、一時は何が自分の本業かわからないくらい、いろんな仕事をしていましたね」
そんな三ツ矢さんも60代になり、ここ一、二年は病気に見舞われることが続いた。
「一昨年秋、人間ドックで前立腺がんが見つかったんです。まだ腫瘍が小さく、手術する必要はないと言われて。今後、様子を見て、いずれ切除することになるかもしれません」
と淡々と話す。告知されたときも特にショックを受けることはなかったそうだ。
「僕の周りにも前立腺がんになった人はたくさんいますし、高齢になると男性がかかりやすい病気のようですから」
それよりも「昨年5月に膵炎(すいえん)で入院したときのほうがつらかった」と言う。
「ある日、尋常じゃない背中の痛みに襲われて、救急病院に行ったら、即入院と言われて。痛み止めを打ってもらって5日間絶食。こんなつらい経験は初めてでした」
原因はお酒でしょう、と医者に言われた。
「僕はお酒に強くて、よく朝方まで飲んでいましたからね」
入院の知らせを聞いて驚いた、と話すのは声優仲間の日高のり子さん。
「その数日前に一緒に仕事をしたとき、すごく元気でしたから。入院した三ツ矢さんからのLINEに『もうアルコールとはバイバイです』と書いてあって。仲間と楽しいお酒を飲むのが三ツ矢さんは大好きなので、飲めなくなるのが悲しいんだと思いました」
病が教えてくれた身体のSOS。これを機に減酒を心がけているという。
「休肝日を設け、飲むときも1、2杯にして、あとは炭酸水にかえるとか、自分で量をコントロールしています」
膵炎は完治し、徐々に仕事を再開。昨年9月には、自身の事務所が主になって製作したライブ『昭和歌謡曲歌い隊2』を上演。声優仲間4人で、軽妙なトークと振り付けを交え、昭和のヒット曲の数々を歌いまくった。
「昭和40年代の弘田三枝子、じゅん&ネネ、50年代のピンク・レディー、中森明菜などの曲をカバーして。お客さんがみなさん喜んでくれて、歌っている僕たちも楽しかった」
歌もトークもいけるエンターテイナーとしても健在。だが、三ツ矢さんは、68歳の今の心境を、率直にこう語った。
「僕は20歳のときに、将来やりたいことをノートに書き留めたんです。劇団をつくる、芝居の脚本を書く、レコードを出す、ミュージカルに出る……。気がついたら、全部実現していた。やりたいことをやり尽くした感はありますね。新たに何かに挑戦したいとか、そういう意欲はもう薄れています。
年齢に合ったペースで仕事をするのがいいのかなと。僕らの仕事に定年はないけれど、やはり60過ぎると興味や志向は変わりますよ。今、僕が楽しいと感じるのは、歌うことと、『テニスの王子様』の作詞など、書くこと。ものを書くことが一番積極的にしたい仕事ですね」
やりたいことをやり尽くした──そう言い切れる人は多くはないだろう。芸歴56年、
その第一歩は、音楽の先生のひと言から始まった。
“鬼の蜷川” “波平”ビッグな2人に導かれ
「三ツ矢君の声はオペラ向きだね」。テレビの、のど自慢番組で優勝した10歳の三ツ矢少年に、先生はそう言った。
「オペラって何?って聞いたら、歌いながらお芝居をすることだと。じゃあ芝居を勉強しようと地元名古屋の児童劇団に入ったんです。そして 12歳のとき、NHKの少年ドラマのオーディションを受けたら、合格しちゃって」
『海からきた平太』で主役デビュー。中学3年生からは『中学生群像』(後の『中学生日記』)の生徒役でレギュラー出演する。当時、中学1年生役で出演していた女優の戸田恵子さんは、こう証言。
「3年生役には竹下景子さんもいらして、生徒役の中でもおふたりは人気がありました。私は学年が違うので接する機会は少なかったけれど、三ツ矢さんは当時から、いろんなことにアンテナを張って物知りで、頭がいいお兄さんという印象があります」
とんとん拍子で役者の道に進んだ三ツ矢少年。だが、成長するにつれ、挫折を味わう。
「17、18歳のころからオーディションに受からなくなったんです。僕は背が低いでしょ。子役としてはいいけれど、大人の男優としてはマイナス要素。相手役の女優さんのほうが背が高い場合もあるので」
ただ、そこで落ち込むことなく、新たな道を考える。
「年齢的にもう背は伸びないだろうと思って。役者に固執するのではなく、もともと興味があった裏方の仕事、演出や脚本を学ぼうと東京の専門学校に進みました」
ここでまた壁にぶつかる。
「芝居の脚本って自分の年齢なりのテーマや問題意識を持たないと書けないんです。僕は仕事をしていたから高校生活の中で濃密な人間関係に接する機会が少なかった。これではいけないと思い、20歳のとき大学に入学しました」
同時期に、知り合いの監督の紹介で、“鬼の蜷川”と呼ばれた伝説の演出家、蜷川幸雄さんの芸能事務所に入り、『王女メディア』の美少年役で舞台にも立った。
「僕は特に集中的にダメ出しされ、蜷川さんによく怒鳴られました。でも根は優しい人。『おまえに言っていることは、みんなに言っていることだから、耐えてくれ』と。そう言われていたのでまったくつらくなかった。蜷川さんのところで、舞台を一から作り上げる作業を間近で見て学んだことが、後に自分で劇団をつくるときの礎になっていると思いますね」
さらに、知り合いのプロデューサーから、人形劇の“声”の仕事を紹介され、初挑戦。そこで出会ったのが『サザエさん』の波平役で知られる声優界の重鎮、永井一郎さんだ。
「人形劇の最終日に打ち上げがあったのですが、僕は参加するつもりはなく、その日はバイトをしていたんです。でもバイト先のサンドイッチ店の店長が『お酒の席も仕事の一部、大人の社会では大切だから行っておいで』と背中を押してくださって。遅れて会場に着くと、永井さんの隣の席が空いていたので座ったら、『きみ、面白い声しているね。明日オーディションがあるから、受けてみなさい』と」
それは、アニメ『コン・バトラーV』のオーディションだった。結果は主役で合格。運命に導かれるように、声優・三ツ矢雄二が誕生した。
が、役者経験は豊富でも、“声”で芝居をするのは勝手が違う。
「声優界の大御所、富田耕生さんや野沢雅子さんはじめ、周りはベテランの方ばかり。僕ひとり新人で、NGを連発。“コン・バトラーV!”という決めゼリフを50回以上録り直したことも。毎朝、公園で“コン・バトラーV!”と叫んで練習していましたね。
共演の皆さんにもいろいろ教わりました。富田さんは厳しく、『ちゃんと絵を見ろ!台本ばかり見るな』と怒鳴られたりしました。
野沢さんは、家が同じ方向だからと車で送ってくれて、車中で『絵がどう動いているかで身体の使い方が変わるでしょ。それによってしゃべり方も変わるのよ』と、富田さんのおっしゃったことを、わかりやすく解説してくださって。おふたりにはとても感謝しています」
これを皮切りにアニメの仕事が次々に舞い込む。アニメブームもあり、週にレギュラー11本を抱え、アイドル声優としてレコードも出す。だが、27歳のとき、仕事をすべて降りて、ニューヨークに旅立つ。
「気がついたら、声優として売れっ子になっていた。そこでハタと立ち止まって自問自答したんです。このままでいいのか?僕は何のために東京に出てきたんだっけ?そうだ、舞台やものづくりがやりたかったんだ、と。原点に返って舞台に気持ちが向いたんですね。舞台の中でもミュージカルが好きだったから、本場ブロードウェイに行こう!と。1か月ニューヨークに滞在し、30本以上の作品を見まくりました」
劇団を旗揚げ!夢を叶えたが経営は赤字
帰国後、三ツ矢さんは積極的に舞台の仕事に取り組む。
「友人の戸田恵子とジョイントコンサートをすることになって、その中で短いミュージカルをやろうと。『ジミーとジョアン』というオリジナル作品を書きました。これが僕の初めての脚本です」
そして30歳のとき、声優仲間の田中真弓さんと念願の劇団を旗揚げ。自ら脚本を書き、演出も行った。
「ミュージカルをメインに年間4本ぐらい公演していたのですが、ミュージカルは普通の芝居よりお金がかかるんです。音楽の製作費とかミュージシャンへのギャラとか。資金繰りが大変になって経営が赤字に。5年で解散しました」
しかし、この経験が人生においては大きな黒字をもたらす。アニメ『聖闘士聖矢』がミュージカルとして舞台化されることになり、脚本家に抜擢(ばってき)される。
「声優だからアニメのことをわかっている、ミュージカルも作っている。アニメとミュージカル、両方の世界を知っているから書いてほしいと依頼されたのです。これがきっかけで、後の『テニスの王子様』も手がけることに」
また、1996年に、宝塚出身の涼風真世さんが、テレビアニメ『るろうに剣心』の主人公の声を演じることになり、三ツ矢さんは音響監督(アフレコ演出)を任される。
「音声収録のときに声優さんに演出をし、監督が求める声の演技を引き出すという仕事です。宝塚の舞台をよく見て知っているし、演技指導もできるからということで僕にお声がかかって。この作品は評判がよく、以後、音響監督の仕事も増えました」
また、声優の養成所を任されたり、演劇雑誌の編集長を務めていた時期もあったというから、その多才ぶりに驚く。
「振り返ると、何かの仕事をすると、それに関連して別の仕事がきて、そこからまた別の仕事がきて、という具合に展開していった気がします」
浮き沈みの激しい世界で、一度も沈むことなくスイスイ泳いできた。「いろんな人が導いてくれて、自然な流れに乗ってきただけ」と三ツ矢さんは言うが、それは本人の努力と能力があってこそ。
「僕はどんな仕事も、引き受けたからには120%以上の力でやっています。100%は当たり前。プラス20%があると、僕を起用してくれた側にお得と思ってもらえる(笑)。おのずと次につながっていきます」
代わりがいない唯一無二の声優に
声優としての三ツ矢さんをよく知るのが『タッチ』で浅倉南を演じた前出の日高さんだ。当時、新人だった日高さんは、三ツ矢さんから多大な影響を受けたと話す。
「キャラクターの心の動きを考えてセリフを言う。それは演技の基本ですが、私は絵に合わせて尺にセリフを収めることに一生懸命になってしまい、疎(おろそ)かになっていたんですね。
そしたら三ツ矢さんが真剣な顔で、『もっと僕を愛して!』と。僕の演じている達也を愛して、ってことです。達也を本当に愛していたら、南は、このセリフをどう言いますか?と、私に考えさせて、私の中から演技を引き出そうとしてくれたんです」
こうしなさいという具体的なアドバイスではなく、本質的なことを教えてくれたのが三ツ矢さんだったという。
「タッチで2年間ご一緒したことが、私の声優としての土台になっていて。今でも、新しい役に出合うたび、そのキャラクターの背景や、どういう気持ちでそのセリフを言っているか深く考えますね」
一見、大らかな三ツ矢さんだが、実は「繊細な人」だと日高さんは評する。
「だから、表面はある種のいいかげんさを見せていても、本当は誰よりも優しい──上杉達也の繊細な心理を表現できるんです。私は音響監督や演出家の三ツ矢さんとも仕事をしたことがあって。声優や役者の個性を尊重してくださる印象があります」
“個性”は三ツ矢さんが大切にしていること。声優業界の現状を、三ツ矢さんは危惧する。
「今は声優が人気の職業になり、養成所が山のようにある。そこで標準的な演技を教えられると個性が消えてしまうんです。深夜アニメを見ていると、女の子の声って、みんな似たようなしゃべり方。区別がつかないんです」
声優のお金事情にも言及。
「声優のギャラって、人気や視聴率に関係なく決まっているんです。ランクがあって、1本30分のアニメで最低ランクが1万5千円。実績やキャリアでランクが上がっていき、上限が4万円ほど。
今は作品制作の予算が限られる中で、若手をたくさん起用する。その若手声優さんたちが何年か頑張ってギャラが上がると、使ってもらえなくなる。
つまり個性がないと、ギャラの安い他の誰かに代わられ、言葉は悪いけど、使い捨てみたいにされちゃうんです。
個性を大事にし、声の芝居で勝負できる声優さんを目指してほしいと思いますね」
達也の他、『キテレツ大百科』のトンガリ、そして映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のマーティなど数多(あまた)の当たり役を持つ、唯一無二の声優だからこその言葉だ。
バラエティー番組に出なくなった理由
声優の仕事が落ち着いてきた50代、バラエティー番組から声がかかり、タレントとして活躍の場を広げる。
「あの『タッチ』の上杉達也を演じた声優が、実は、オネエキャラの“グレーゾーン”だった、という意外性が面白がられたのだと思います」
人に求められれば、流されるまま波に乗ってみるのが三ツ矢さんだ。最初は自身も面白がって本音トークを展開していた。しかし、やがて「しんどくなってきた」と言う。
「初めのころは、僕が演じたアニメの声を再現するだけで喜んでもらえ、周りのお笑い芸人さんたちがいろいろツッコんでくれてトークもウケた。存在そのものが珍しがられたのだと思います。でも、笑ってもらえるエピソードがたくさんあるわけではないし、芸人さんのような笑わせるテクニックも持っていない。それでも笑わせなきゃいけない。おかしくなくても笑わなきゃいけない。だんだん心の負担になってきたのです」
やがて不眠症に陥る。
「バラエティーに出るときはすごくテンションを上げるから、帰宅後も頭が興奮していて、すぐに寝られないんです。それが何日も続くと、うつっぽくなるし、疲労もとれなくて仕事にも影響する。バラエティーは自分には向いていない、引き際だなと思って。お断りするようになったのです」
バラエティー番組で見かけなくなったのは、そういう事情があったからだ。
「ただ、声優としてトーク番組に出ることは続けています。本音で話せますし、声優というものをみなさんに理解していただきたいですから」
三ツ矢さんは自分の心にうそをつけない人なのだろう。
公には、自身のセクシュアリティーを“グレーゾーン”とぼかしていたが、2017年にバラエティー番組でカミングアウトしたと話題になった。
「番組の会話の流れの中で、『三ツ矢さんは、本当はどっちなの?』と聞かれて、うそつく必要はないので『ゲイかストレートかって言われればゲイ』と答えたんです。
そしたら、その部分だけをクローズアップされ、翌日のネットニュースで報じられたのです」
20歳から12年間、彼と同棲
そもそも三ツ矢さんは自身のセクシュアリティーを隠したことはなく、友人や仕事仲間はみんな知っていて、「何を今さら言っているんだろう」という反応だった。
子役時代からの友人で、毎年のようにニューヨークのブロードウェイの舞台を一緒に見に行くほど仲のいい、前出の戸田さんは、こう語る。
「三ツ矢さんは『中学生群像』のころも、同級生役の竹下景子さんなど女の子たちとキャッキャッとおしゃべりしていた印象があり、男女の壁なんかなかったんじゃないかしら。私も三ツ矢さんが男とか女とか考えたことないです(笑)。三ツ矢さんにパートナーがいたことも、もちろん知っていますし、その方も一緒に旅行したこともあります」
子どものころから女の子とばかり遊び、しぐさもやや女の子っぽかった三ツ矢さん。小学校5年生のときに好きだったのは6年生の男子。
「まぁそのころはうぶなので、同性愛という言葉も知らない。ただ、児童劇団にいた中学生のとき、マネージャーに『三ツ矢君ってオカマみたいだね』と言われて。そのとき初めてオカマという言葉が何を意味するのか知って。友達の竹下景子ちゃんに『僕、オカマらしいよ』『そうなんだ』と会話したのを覚えています。
そのころから、なんとなく同性愛というものがあるのだなとわかってきて、三島由紀夫の『仮面の告白』や『禁色』を読みましたね。中学生には難しかったですけど」
20歳のとき、同い年の大学生と恋をし、同棲する。
「彼は大学卒業後に会社勤めをし、僕の仕事の現場まで車で送り迎えしてくれて、僕の仕事仲間と一緒に食事したりも。だから、みんな彼のことを知っていました。いつも彼がそばにいたので、僕はひとりで遊びに行く機会もあまりなく、一途(いちず)でしたね」
だが、その男性は、女性と結婚する道を選んだ。
「おばあちゃんに『おまえが結婚する姿を見たい』と言われた、と。どうしようと聞くので、『じゃあ結婚すれば』と僕も賛成したんです。
12年間も一緒にいたから、もう熱い愛情は冷めて、彼に対しては親戚みたいな感情でした。幸せになってくれればいいと思って、32歳で別れました」
そのときも、そして今も「1人が寂しい」と感じることはないという。三ツ矢さんには、気にかけてくれる友人がたくさんいる。戸田さんは「私はいつも三ツ矢さんのことを『おばです』と人に紹介するんです、もう親戚みたいなもの」と笑う。
「私が演劇の舞台に立つときは必ず見にきてほしい人のひとり。演劇全体の出来や、私のことや他の役者さんの演技もきちんと見て意見を言ってくれる、頼りになるおばです」
三ツ矢さんの誕生日は毎年お祝いをするそう。「共通の友達を呼んで食事して、プレゼントを渡して。日頃から、三ツ矢さんの好きなミョウガの甘酢漬けやピクルスを作って持っていったりも。そういうハートウォーミングな交流はずっと続けていきたいですね」と戸田さん。
日高さんは、ユーモアを交えてこう語る。
「昔は私が教わる立場でしたけど、今は小姑(こじゅうと)のように、『三ツ矢さん、声が若いころのまま変わっていないんだから、もっと声優のお仕事もすればいいのに』とか、ああだこうだ言っちゃうので、うっとうしいと思われているかも(笑)。
でも三ツ矢さんはもう十分すぎるくらい活躍されているので、これからはご自身が好きなことを存分にやって、楽しんでほしいなと思います」
ふたりの言葉には、三ツ矢さんへの温かい思いがにじむ。
LGBTQの当事者だから言えること
カミングアウト以降、三ツ矢さんはLGBTQの講演会などに講師として呼ばれることが増えた。
「LGBTQとは何なのか、理解を深めてもらえるよう、お話をしています」
また、女優の東ちづるさんが理事長を務める、「まぜこぜの社会」を目指す一般社団法人『Get in touch』の活動にも理事として参加している。
「LGBTQだけじゃなく、障害のある方とか、要するにマイノリティーの人も、そうじゃない人も、みんながまぜこぜの社会で、平等に住みやすい世界になったらいいね、と。それを目指す活動です。その一環で講演会やイベントがあると、僕もお話しして啓発活動を行ったり、ホームページの動画のナレーターを務めたりしています」
そもそも“グレーゾーン”と言っていたのも、「ゲイかストレートか、白黒をつけようとする、世の中の風潮がイヤだった」と明かす。ゲイもストレートも、白人も黒人もみんな混ぜたらグレーという意味が込められていたのだ。
「僕自身は、親や兄姉も気がついていたけど普通に接してくれていたし、友達も普通に受け入れてくれていたので、ゲイであることをオープンにして生きてきました。でも人それぞれ事情があり、カミングアウトできずに生きづらさを抱えている人もいます。
だから『え、あの人、ゲイなの?』みたいな好奇な目で見ないでほしい。笑い上戸とか癇癪(かんしゃく)持ちとか、みんな性格の特徴がありますよね。LGBTQも性格のひとつ、そんな捉え方をしてほしい」
そして、こう続けた。
「僕が若いころゲイに対して侮蔑や差別があり、新宿2丁目(ゲイタウン)に行くと、顔を隠して歩いてる人も多かった。でも今はみんなが顔を上げ立ち上がって活動を始めた。その一翼を担うことは、世の中のためになるし、意味のあること。
お金にはならないですけど(笑)、これからはちょっとそこに自分の時間を割いていこうかなと。今春は、『Get in touch』の活動で、身体の不自由な人やダウン症の子とかみんなで舞台をやることになりました」
多才な三ツ矢さんの力を発揮する場所が、また広がっていきそうだ。
〈取材・文/村瀬素子〉
むらせ・もとこ ●映画会社、編集プロダクションを経て'95 年よりフリーランス・ライターとして活動。女性誌を中心に、芸能人、アスリート、文化人などの人物インタビューのほか、映画、経済、健康などの分野で取材・執筆。
※日高のり子さんの「高」は、正しくは「はしごだか」です。
まぜこぜ一座公演、月夜のからくりハウス『歌雪姫と七人のこびとーず』を開演。
日時:2023年3月5日(日) 13:00~(開場12:30)と、17:30~(開場17:00)の2回公演 場所:渋谷区文化総合センター大和田6階 伝承ホールにて