芸能界やスポーツ界で活躍するフィリピン2世がいる一方で、日常生活の中で苦しみもがいている人も多い。中でも、フィリピンパブで働く女性と、その子どもの苦悩は、今の日本社会では表面化しづらい。背景を知らなければ、よくある親子の葛藤として扱われ、子どもの心情が見えてこない。
フィリピンパブで働く女性と、子どもの苦悩
フィリピン人の母親と日本人の父親を持つ、高校2年生のサチ(仮名、16)は家出を繰り返し、警察や児童相談所に何度も保護されている。担当職員が母親に電話をすると、夜働いているために、すぐには連絡が取れず、取れたとしても日本語での会話はうまくできない。
「父親とは一緒に住んでいません。モヤモヤしているものがありますが、いったい、何に悩んでいるのか自分でもわからないんです」(サチ)
フィリピンパブで働く女性とその息子の生活を描いた映画『世界は僕らに気づかない』の監督、飯塚花笑さんは自身もトランスジェンダーということもあり、フィリピン2世が抱えるマイノリティーの問題を取り上げた。
現在フィリピンパブで働く女性が'90年代から2000年代前半に入国した時点では興行ビザによって在留資格を得るのが主流だった。しかし、客との同伴ノルマなどがあったことで、'04年にアメリカが「人身売買の温床」と指摘したことにより姿を消した。その後は“偽装結婚”が多くなる。そうした事情も、親子関係に影響しているのだろうか。
「私の出身地である群馬県を舞台に映画を作りました。出稼ぎのブラジル人が多く暮らす地域ですが、フィリピン人のコミュニティーとは別です。
女性はパブで働いている者同士のコミュニティーに属していて、日本人のコミュニティーとつながっている人はまれでした。パブで勤める方は彼女たちのコミュニティーだけで完結していることが多かった」(飯塚監督)
映画製作時にはフィリピンとのミックスルーツとして育った人たちにアンケートを取った。そこで見えたものは、両親とも日本人である私個人とは、全く異なる生活環境だった。
「母子家庭、つまり日本人の父親との間に子どもを授かり、シングルマザーとして子育てする方が多かった。話す中で“偽装結婚”にも触れることになりました。子どもはきょうだいが多く、全員父親が違うという家庭もありました」(飯塚監督)
どんな日常生活を送っているのか、
「カトリック信者が多いです。家族の中で宗教の関わりがあり、習慣的にミサに通っている方も。女性はパブで働いている人が多いので、日本人から見ると、ネグレクトとみなされるような状態がありました。
例えば5歳の子がいても、ほかのきょうだいに世話を任せて、パブに働きに出たりします。日本で生まれ育った子どもは他の家庭との違いを感じ“母親に愛してもらえない”と思っていたりしますが、母親は仕送りに精一杯でそれが当たり前になっていました。昨年フィリピンに行ってスラム街を歩いたときに、そうなってしまう事情もなんとなく理解できました」
フィリピンパブで働く母親と子どもとの関係はどうか。
「子どもが思春期になると悩みも出てきますが、母親は難しい日本語がわからない。学校から配られるプリントも読めない。すると子どもは悩みを打ち明けるのを諦めてしまうんです」
弁当が臭いとからかわれた経験も
映画では、子どもが抱える問題に気がつかない母親を責めるシーンが出てくる。
「母親がパブで働く子どもの7〜8割はいじめを受けたり、からかわれた経験を持っています。例えば、お弁当にしても日本人はキャラ弁だったりしますが、フィリピン人の母親が作る弁当は、日本にはない調味料も使うので、日本人からしたら独特な匂いがしたりします。
弁当が臭いとからかわれた経験を持つ方が何人かいました。友達を自宅に招いて誕生日会を開いても、全部、フィリピン料理ですので、友達が引いてしまったという方も。食文化の違いで差別されたり、傷つく経験を持つ方は本当に多かった。授業参観のときも、母親は出勤前のため、香水がキツく、からかいの対象になったという話もありました」
この映画を見た、映画監督の稲津勝友さんもフィリピン女性の母親と日本人男性の父親を持つ。母親は興行ビザで入国。かつて、フィリピンパブで働いていた。
「小さいころは父親はトラックドライバーで、両親共に夜はいませんので、おばさんに預けられていました。一方で母親は過干渉でした。友達の家に泊まることは許されません。財布の中身をチェックされていました」(稲津さん、以下同)
朝、学校へ行く時間に、寝不足な母親が時間もないなか、「宿題はやったの?」「勉強はしたの?」「友達とは何をしているの?」などと聞いてくる。無視したり、逆らうと父親が怖い。常に顔色をうかがっていた。
「4年生になると、母親を鬱陶しく感じ始めました。父親は短気で怒りっぽく、“昭和の人間”という感じ。逃げ場がなかった。毎日がケンカで、それ自体が親とのコミュニケーションでした」
小中学生時代はゲイである自分を押し殺し、高校生のときには家出もしたことがある。
「高校生のときにやっと希望を見つけて、ダンススクールに行こうと思いました。しかし、両親とうまくいかず希望を消されてしまったんです。そのため、17歳のとき、統合失調症の診断を受け、精神科病院に医療保護入院をすることに。入院以降、両親の態度が変わって、関係が築けていけるようになったんです」
ただ、フィリピン人と日本人のミックスルーツであること、精神疾患を持っていること、さらに同性愛者であることは生きづらさを増した。「自分は普通じゃない」と思い、20歳のとき、処方薬をウイスキーで過量服薬(OD)した。
在日フィリピン人女性の孤立感や差別をケアするだけではなく、フィリピンとのミックスルーツの子どもたちの文化的疎外感もきちんとしたケアが必要。それには十分なサポート体制が不可欠だ。
(取材・文/渋井哲也)