在日三世として東京に生まれ、人気シンガー、クリスタル・ケイ(36)を女手ひとつで育てたシンシア(60)。小学校から朝鮮初中級学校に通い、朝鮮コミュニティーの一員として朝鮮語で教育を受けてきた。そんななか、彼女のアイデンティティーを一変させる事件が起こる。
思想の変革をもたらした父方の祖母からの手紙
「ある日学校から帰ったら、家の中の様子がなんだかおかしい。キッチンへ行くと、父と母が手紙を握りしめて泣いています。それは北朝鮮へ帰った父方の祖母から届いた手紙で、『こっちはとんでもなく生活が苦しい。だからもう北朝鮮には帰ってくるな。おまえはそのまま日本で頑張っていきなさい』と書かれていた。
父があんなに泣くのを見たのは初めてでした。父がかわいそうで、私もおいおい泣きました。中学1年生の6月のことでした」
日本で生まれ育ち、戸籍は韓国の釜山の近くなのに、祖国は常に北朝鮮だと教えられていた。「いつか万景峰号(北朝鮮の貨客船)に乗って北朝鮮へ帰る」と言われ続けてきた。いつになるかはわからない、けれどそうなるものだと信じていた。
「厳しく叩かれ教育されてきたのも、すべて『いつか北朝鮮に帰る』ための準備だった。だけどそこで“帰らなくていいんだ、じゃあもういいじゃん”という気持ちになった。今振り返ると、思想的な変革が私の中であったのでしょう。
学校では朝鮮語で金日成を教えられるけど、日本で暮らしていると“やっぱりそれは違うのでは?”と疑問に感じることがいっぱいありました。でも“北朝鮮へ帰る”という大きなイベントがあるから仕方がないと思っていた。子どもとしては複雑です。あの手紙をきっかけに、いろいろな意味で気持ちが変わった。“何のために叱られてきたんだ”と思った。それからは一切勉強をしなくなりました」
朝鮮学校に進みディスコにもデビュー
北朝鮮は遠のいたものの、高校はそのまま朝鮮学校に進んだ。朝鮮高級学校は都内に1校だけで、当時住んでいた日吉から学校のあった十条まで電車とバスを乗り継ぎ通学していた。
「東京のほか千葉や埼玉など関東近郊から同胞が集まり、高校になると生徒数が一気に増えました。入学試験は一応あるけれど、朝鮮高級学校に入ることは難しくなかったですね。ほかの学校を退学になって転入してきた人もいました。
日吉に越したのは12歳のとき。しばらくして母が2駅先の大倉山で焼き肉店を始めています。父はもともと考古学者で、本ばかり読んでいるような人。それもあって祖父が起こした金型工場で社長業をしていたけれど、商売に興味もなければ、お金を稼ごうという意欲もありません。
母が焼き肉店を始めたのも、たぶん家族が生きていくため。父が稼げないからしょうがない、という考えがあったのだと思います。私も高校時代に少し店を手伝っています。けれど忙しくて母と話す暇もなかったですし、手伝いもほんのわずかな期間だけでした」
高校1年のとき喫茶店でアルバイトを始めた。ブラックミュージックのレコードやコンサート代、当時流行っていたスケボーを買ったりと、遊ぶための小遣いが必要だった。
学校はバイト禁止だったけど、そんなことはまったく気にもしませんでしたね。ディスコ・デビューは高校時代。横浜・中華街の喫茶店でアルバイトをしていたときのことでした。(次回に続く)
<取材・文/小野寺悦子>