関根勤

 芸能人の転機を考えるうえで、わかりやすいのが芸名の変更だ。ある世代以上の人なら、関根勤がラビット関根だった時代のことを覚えているだろう。

 1974年、バラエティー番組の素人コーナーで注目され、翌年、本格デビュー。桂三枝(現・桂文枝)に芸名をつけてもらった。

「12年間で芽が出なかったら…」

 これはその年がうさぎ年だったことにちなんだもの。もし売れなければ、ドラゴン関根(辰年)スネーク関根(巳年)と干支に合わせて変えていき、

「12年間で芽が出なかったら、あきらめてほかの職業に行きなさい」

 という意味も込められていたという。とまあ、芸名からしてキワモノ的だったが、芸風もクセが強かった。

若手時代はクセの強い芸風だった関根勤

 当時の代表作は『カックラキン大放送!!』(日本テレビ系)で披露していたカマキリ拳法。コスプレで空手もどきのトリッキーな動きをする芸だ。

 今年1月には『ヒルナンデス!』(日本テレビ系)でその映像が紹介され、バラドルの王林によってティックトック風にアップデートしてもらうという趣向が展開されていた。このとき彼は「今でいえば、江頭2:50のような芸風だった」と分析していたが、そこにハリウッドザコシショウの芸風も交ざっていたように思う。ジャイアント馬場さんなどの誇張されたモノマネをやっていたからだ。

 そんなラビット関根に転機が訪れたのは'83年。所属先である浅井企画の「大将」こと萩本欽一『欽ちゃんのどこまでやるの!』(テレビ朝日系)に彼を起用するにあたり、本名の関根勤でやるように命じた。もともと、浅井企画にはソフトな芸風の人が多く、関根の後輩には小堺一機、見栄晴、キャイ~ン、ずん、ANZEN漫才などがいる。関根の芸風を異端視した萩本は、

「カマキリ男を続けていたら、それをエスカレートさせるしかない。(略)関根を普通に戻す」

 として『欽どこ』では『クロコとグレコ』という、前に出ない役回りを与えた。コンビを組んだのは小堺で、こちらは女性に「カワイイ」と言われるタイプの芸人。女性ウケがイマイチだった関根の弱点も、おかげでカバーできたわけだ。このイメチェンは成功し、2年後には『笑っていいとも!』(フジテレビ系)のレギュラーに。29年間にわたって出演し続けた。

『さんまのSUPERからくりTV』(TBS系)にも22年間出演。不祥事も起こさず、むしろ愛妻家ぶりや娘・関根麻里への溺愛ぶりを積極的に語って、好感度を上げていく。

改名後に励んできた“毒消し”

 今年2月には「脱・老害のために必要なこと」と銘打たれたネットニュースに登場。モノマネをやった際、オリジナルを知らないのに「似てね~」と言った女性客に「バーカ」とキレた過去について、

「最大の失言でした」

 と、振り返った。これを反省材料にしたようだ。

麻里や孫娘らと近所をゆっくりお散歩する関根勤(右)。仲睦まじい姿は、まさに理想の家族('18年)

 なお、1月には自身の動画チャンネルでナイツの塙宣之とともに島田紳助の強面ぶりをネタにしている。自分は対極なタイプだ、ということでもあるのだろう。

 ただ、モノマネ芸には批評性が不可欠だし、悪目立ち芸も得意だった人だ。本来、毒も持ち合わせているし、改名後はひたすらその毒消しに励んできたように見える。つまり、それをしていなければ、現在のような息の長い芸人にはなれなかったのではないか。

 それこそ、今年はうさぎ年ということで、12年ぶりに注目され、往年のカマキリ拳法を披露、なんて光景が繰り広げられていたかもしれない。

ほうせん・かおる アイドル、二次元、流行歌、ダイエットなど、さまざまなジャンルをテーマに執筆。著書に『平成「一発屋」見聞録』(言視舎)『平成の死 追悼は生きる糧』(KKベストセラーズ)。

 

YouTubeで「東京03恫喝騒動」を再現した関根勤とナイツ・塙宣之(関根勤チャンネルより)

 

関根勤と娘・麻里

 

麻里の自宅マンションから1人で出てきた関根。直撃が終わると、記者に一礼して去っていった(‘18年)