マキさん・宮本昌樹さん 撮影/吉岡竜紀

 フジテレビ系ドキュメンタリー番組『ザ・ノンフィクション』で8度にわたり「マキさんの老後」という人気シリーズに出演したマキさん。マキさんはどのような人生を過ごしてきたのか。ヤラセの告発をしてからは番組出演もないマキさんのこれまでに迫る──。

“過激なオカマ”として人気を博していたマキさん

 群馬県前橋市と栃木県小山市を結ぶ両毛線の沿線駅から歩いて約30分、利根川にほど近い場所に立つ賃貸マンションの3階に住むマキさんは、大好きなタバコを吸うときには部屋を出て、共用部の外廊下でひとり紫煙を燻(くゆ)らせている。視線の先には西から浅間山、榛名山、赤城山が連なり、64歳になったマキさんの身体には、山々を越えてやってくる上州のからっ風が容赦なく吹きつけてくる。

「還暦を過ぎてからね、20代のころの自分に言いたいことが2つあって。前橋に来たことは全然後悔してないの。いいところだしね。でもここで生きていくためには、車の免許はあったほうがよかったな、って。さすがに今から取るのは難しいものね。もうひとつは大学を卒業した後、一度は就職しておけばよかったなということ。学生アルバイトからそのまま女装専業になってしまったから。だからその2つはやっといたほうがいいよ、ってね」

 フーッと深いため息とともに煙を吐き出し、マキさんは言葉を続ける。

「親の死だったり、震災だったり、自分自身の老いも感じて、アタシもいろいろ考えたんです。目の前にあったチャンスを逃したり、間違ったほうへ行かないために、今のアタシが持っている知識と経験を20代のころのアタシの脳に移植できたらなぁって。たぶんあのころの可愛げはなくなるだろうけど(笑)。

 でももしそれができるなら、もっと強(したた)かな成功者になれたのかな、なんて。ここ前橋でお店をやって、失敗して潰(つぶ)してしまって、その借金を20年かけて返して。数千万円単位の貴金属の盗難被害に遭ったりもして、いろいろありましたよ……まあ、もちろん後からするから“後悔”なんですけどね」

 そう言って口角をスッと上げ、微笑(ほほえ)むマキさん。しかしその目には後悔の念はなく、視線の先の山々よりも向こうにある未来を見ていた。『ザ・ノンフィクション』(フジテレビ系)で“過激なオカマ”として人気を博していた凶暴なマキさんの姿は、そこにはなかった。

自分は女の子だと思っていた

 マキさんこと宮本昌樹さんは1958年、茨城県那珂湊(なかみなと)市(現ひたちなか市)に生まれた。生家の宮本家は古くは網元として廻船(かいせん)問屋を営み、その仕事を畳んだ後も手広く商売をする家として地元では知られた旧家であった。

 この宮本家、祖父以前の3代は皆婿養子をとった女系家族であり、久々に宮本家嫡男として生まれ、長く市議会議員を務めた祖父と祖母の間に生まれた子は、後にマキさんの母となる娘1人だけだった。お嬢様として育てられたその母が婿をとり、2人の娘を産んだ後に生まれたのが、宮本家待望の男子である昌樹であった。その後に生まれたのも妹だったため、マキさんは宮本家たった1人の跡取りとして大事に育てられた。

マキさんが生まれた宮本家は地元では有名な名家だった。最前列の左側の少女がマキさんの祖母

「でも、その息子がオカマになっちゃってねぇ(笑)」

 地元選出の国会議員や有力者などもよくやって来る家であったため、教育も含め厳しく躾(しつ)けられたものの、お稽古ごとも遊びも趣味も、自分の好きなことをやらせてもらえたというマキさんは、家の中で姉妹と遊ぶことも多く、幼いころから「自分は女の子だと思っていた」と言う。

「もともと細くて女性的な身体つきだったし、小さいときから“マキちゃん”と呼ばれていて、姉たちとよく一緒に遊んでいたのもあってずっと女言葉が当たり前で、家の中もかかあ天下でしたから、誰も不思議に思わなかったんですね。本当はアタシは女の子の心を持っていたんですけど、それには周りの誰も気づいてなかったんです」

 初恋は幼稚園児のとき、クラスの同級生だったという。

「背が一番高くて、走るのが速くてね。色の浅黒い男の子でした。その彼が親御さんの転勤で大阪へ行くことになって、わんわん泣いたんです。それが最初の恋でしたね」

 男子とはほとんど遊ばず、スカートめくりなどもせず、姉たちの影響で読んでいたのも少女漫画だった。

学生時代のマキさん。自宅の庭で

「池田理代子、一条ゆかり、萩尾望都……中でも一番好きだったのは楳図かずおね。もう全巻フルセットでそろえるくらい!それから女性誌もよく読んでいたし、もう少し年齢が上になってからはファッション誌もよく読みましたね」

 マキさんの2学年上で、当時のことをよく知る同郷の富永文也さんは「小さいころから明るくて頭が良く、可愛い子ではなく、可愛らしい子でした」と語る。

「お祖父(じい)さんが議員さんだったので上品なのだと思っていましたが、現在のマキさんを思えば、このころからオネエだったのでしょうね。でもまったく卑屈にならず、隠すという考えもなく、もちろんイジメなどありませんでした。これはマキさんの人徳かもしれません。

 また那珂湊は港町で、昔から船主さんが多く、海が時化(しけ)たといってはお酒、祭りだといってはお酒、何事かあるとお酒というように、船主さんと船員さんが楽しく飲む土地柄なんです。その宴席には芸者さんも入るのですが、これは郷土史にも載っているんですけど男芸者もいたようなところだったので、男女や上下などでの差別はなかったんです。そんな寛大で粋な土地柄の那珂湊で育って、マキさんは幸せだったと思いますよ」(富永さん)

現役早大生ゲイボーイ

 宮本家は女性が強い女系家族であったが、マキさんの母はその中でも特に強く、きらびやかだったという。

高校生のときのマキさん。頭が良く“神童”と呼ばれていた

「86歳で亡くなった母は、昭和2年生まれだけど背が166センチもあって、父が159センチしかなかったので、よく“蚤(のみ)の夫婦”と言われていたそうです。母はもうホントに派手好きでね、性格もハッキリしていてズケズケとものを言う人で、アタシもその影響をすごく受けていると思います。もう本当に母のことは大好きで。おしゃれで、シャキシャキとしてました。そうねぇ……今の女優さんでいうと、草笛光子さんや高畑淳子さんみたいな感じかしらね」

 婿養子の父はまじめで働き者であったが、家での発言権は祖父母、そして母の下だった。肩身の狭い思いをしてストレスをためていたのか、ある日酒に酔った父が母に暴力を振るってケガをさせ、祖父から叱責(しっせき)され家を追い出されることになってしまったという。マキさんは当時、多感な10代半ばの中学生だった。

高校生のときのマキさん。頭が良く“神童”と呼ばれていた

「でも祖父が戦前から市議会議員を務めているような家なので、父はしばらく離婚を許されず、祖父の選挙や親類の結婚式、お葬式などがあると家族として呼ばれていましたね。アタシは動揺はしたけれど、影の薄い父でしたから……しかもすぐに高校の受験があったりで、やがて普通の生活に戻っていきました。父はアタシの妹が結婚したときにお役御免となって籍を抜き、離婚しました。もう、その父も亡くなりました」

 高校へと進学したマキさんは地元の書店でゲイ雑誌を買うようになり、雑誌の通信欄で手紙のやりとりをした人に会いに東京へ出かけたり、やがて水戸にゲイが集まる隠れ家的なスナックがあることを知って通ったりなど、親には言えない秘密の冒険を繰り返すようになった。

 もともと頭がよく、成績の良かったマキさんは現役で早稲田大学教育学部国語国文学科に合格。上京し、早稲田鶴巻町のマンションで一人暮らしをすることになる。そしてすぐに向かったのは……そう、ゲイが集まる街・新宿二丁目だった。華奢(きゃしゃ)でスラリとした若いマキさんは、よくモテたそうだ。

早稲田大学在学中から女装をするように。普段の授業やゼミにも女装姿で通っていた

「でも初めて新宿二丁目へ行ったときは、まさかアタシが女装するなんてこれっぽっちも思ってなかったんです!」

 女装するきっかけは、新宿二丁目のなじみの店で遊んでいたところ、居合わせたひとりのオネエさんから「あんた、色白で華奢な感じだし、磨いたらきれいになるわよ?面白いし歌えるし、そこまでオネエだったらウチの店にバイトに来たら?」と誘われたことだった。その人が働いていたのが、六本木にあった老舗のゲイバー『プティ・シャトー』だった。テレビなどでその名前を知っていたマキさんは、迷ったもののアルバイトすることを決意、接客業のイロハと美しく装うことを一から叩(たた)き込まれたという。

卒業式にも女装で出席した

「でもある日突然東京のマンションへやって来た母に、部屋にあったドレスなどが見つかってしまって。怒り心頭の母にお店も辞めさせられたんだけど……ほとぼりが冷めると、そのまますぐ元に戻りました(笑)」

 さらにマキさんはテレビなどにも“現役早大生ゲイボーイ”として出演するなどしたため、実家から「もう帰ってくるな」と勘当されてしまったが、学校ではすべて女装で通し、7年かけて早稲田大学を卒業した。

 時は1984年。日本は未曽有の好景気であるバブル時代へと突入する前夜だった。

ジョンとの出会い

 大学卒業と同時に『プティ・シャトー』を退店し、全国を行脚してショーを行うようになったマキさん。あるとき先輩から呼ばれ、群馬県前橋市の店へ営業に行くことになる。そこで出会ったのが、後に結婚することになるジョンさんだった。

 ジョンさんは男装のレズビアンで、当時は男性ホルモンを投与しており、郷ひろみに似たルックスのイケメンだった。ちなみに「ジョン」という名前は高校1年生のとき、親友から「ザ・ビートルズのジョン・レノンに似ている」と言われたことがきっかけだったそうだ。

若いころのジョンさん。ジョン・レノンに似ていることからあだ名が「ジョン」になったという

「私は前橋出身で、当時は地元で『パブハウス・ジョン』という店をやっていたんです。するとあるとき知り合いのお店の人から『ショーがあるから、騙(だま)されたと思って一度見に来て!』と電話があったんです」(ジョンさん)

 半信半疑で店を訪れたジョンさんは、ショーをするマキさんの美しさに驚いたという。しかしあまりに驚いたせいか、席までやって来たマキさんに開口一番「顔、デカいね」と言ってしまったそうだ。

「本当に、ただ見たことを正直な気持ちで伝えてしまったんです(笑)。マキちゃんは『失礼ねっ!』と怒ってましたけど、でもね、カルチャーショックではあったんですよ。

 当時、前橋にも女装しているゲイの人はいましたけど、ここまできれいな人を見たのは初めてだったんです。だからあまりにビックリして、言ってしまったのかもしれないですね。ただ、今思い出してみると初対面でそんなことが言えちゃうような雰囲気がマキちゃんにはあったんだと思いますよ。

 そのお店にはいろんなところからいろんな人が営業をしに流れて来ていたけど、マキちゃんは本当にきれいだったし、接客もさすがに超一流店で働いていただけあって、洗練されていました。それからは、仕事が終わるとマキちゃんが働いていた店に毎日飲みに行くようになったんです。その店が終わった後も一緒に居酒屋へ行ったりして、よく朝方まで飲んでいました」

 やがてマキさんもジョンさんの店へ遊びに行くように。

ジョンさんはマキさんのことを「マキちゃん」と今でも呼んでいる 撮影/吉岡竜紀

「あるとき、マキちゃんにお通しでひじきの煮物を出したんですよ。それが美味しいと、おかわりをしたんです。味ですか?甘辛く煮た、普通のおふくろの味ですよ。だからマキちゃんの気持ちは、胃袋でつかんじゃったのかもしれませんね(笑)」(ジョンさん)

 マキさんは、ジョンさんにほかならぬ思いを抱いた日のことを今でもはっきりと覚えている。

「いつもお店が終わると、お客さんたちとアフターでアタシのいるお店へ遊びに来ていたジョンが来なかった日があったんです。雨の降る夜でね。

 いつもなら『これから◯人で行くから』と電話がある時間なのに、それもない。店にはお客さんもいなくて、こんな夜だから来てほしいのに、と。だんだんと時間が過ぎていって、寂しいなと思っていたら『これから行く』とジョンから電話があったんです。

 アタシがドアが開くのを待っていたら、いいコートを着た、濡れた傘を手にしたジョンがやって来たんです。その傘を傘立てに入れているジョンを見てね、アタシ、小学生のときのことを思い出したんです。アタシは丘の上にあった小学校へ通っていたんですが、その日はピーカンだったのに、帰る時間に雨が降ってきて。クラスメートたちは家族が迎えに来て、どんどん人がいなくなっていってとても寂しい気持ちになっていたところへ、傘を持った祖母が迎えに来てくれて、とてもホッとしたんですよ。

マキさんのショーはきらびやかで華やか

 そんなこと、そのときまで全然忘れていたのに……ジョンはアタシの祖母に雰囲気がよく似ているんです。アタシは祖母のことが大好きで、子どものときはよく食事も作ってくれたんですけど、ジョンの作る料理もその味にとてもよく似ていたんです。そこからですね、恋愛ではないけれど、ジョンに家族のような愛情を感じるようになったのは」

 その後、マキさんは東京のマンションを引き払って前橋に移住。ジョンさんと同じマンションの隣の部屋で生活しながら、『パブハウス・ジョン』でチーママとして働くようになった。

 そしてその2年後、マキさんは大勝負に出る。ためた金を注ぎ込み、借金をして『レストランクラブ 貴婦人』を前橋にオープンさせたのだ。きらびやかな店には多くの客が訪れてにぎわった。しかしバブル崩壊で景気が悪くなり、6年で閉店を余儀なくされてしまった。

 借金を抱えたマキさんを助けたのは、自分の店を畳み、伊香保の老舗温泉宿で働くようになったジョンさんだった。

ジョンとの結婚と3つの誓い

「アタシたち、戸籍上は男と女だから正式に結婚できるのよね。そうしたら、老後も寂しくないわね」

 借金返済のために全国を飛び回っていたマキさんは、こんなことをジョンさんに冗談めかして話したという。しかしよくよく考えてみると、「結婚」がふたりの抱えるさまざまな問題を解決する手段であることに気づいた。

 そしてふたりは「隠し事ナシ」「ノンセックス」「同性との恋愛の自由を認める」という3つの誓いを立て、友情結婚することを決めた。

 ジョンさんはそのときのことをこう語る。

「特にこれがあったから結婚する、ということがあったわけではなくて、だんだんそうなっていった、という感じですかね。それでマキちゃんが『ジョンの誕生日に籍を入れよう、忘れない日がいいでしょ』と言ってくれて」

自宅でインタビューに答えるジョンさんとマキさん。熟年夫婦のやりとり 撮影/吉岡竜紀

 1994年10月、ふたりは夫・宮本昌樹、妻・佳枝として戸籍上の籍を入れた。

 結婚すると、思ってもみなかった変化があった。長年勘当されていた宮本家からお許しが出たのだ。ふたりは実家に里帰りし、マキさんはジョンさんを「嫁さんです」と家族に紹介した。

 マキさんは結婚したことで得たものは「市民権」だと言う。

「正式に夫婦になったことで、扶養控除も受けられるようになったし、借金の保証人にもなれるようになった。それからアタシは結婚したことで親戚だけでなく知人からの冠婚葬祭の招待状も送ってもらえるようになったんです。“宮本夫妻”で招待状が来るのは、うれしいことでしたよ」

 実家からの勘当が解かれ、いつでも那珂湊へ帰省することができるようになったマキさんだが、もちろん女装は厳禁。今でもすっぴんの男装で帰ることが条件だという。その際には大好きな地元のお祭りである那珂湊天満宮御祭禮にも参加しているという。祭りでは締め込みの若衆が御神輿(おみこし)を海で揉(も)んだり、芸者姿のお囃子(はやし)が乗った山車が出るなど、街中が華やかになる。

 前出の地元の先輩である富永さんは「マキさんは人気者なので、若衆もお囃子さんもマキさんを見つけると大騒ぎなんです。だから私もゆっくりお会いする機会がないくらいなんですよ。できたらマキさんには芸者姿で屋台に乗って、お囃子をしてほしいくらいですね」と笑う。

つらかったドキュメンタリー番組への出演

 結婚後、マキさんはジョンさんとともに「オカマとオナベの男女逆転夫婦」「日本で第1号の友情婚をしたあべこべ夫婦」として、テレビ出演などもするようになった。そうして前例となったふたりと同じように、男女逆転夫婦たちがたくさん増えていったという。

 そこへ、あるテレビ番組がふたりの生活に密着させてほしいと連絡をしてきた。日曜昼にフジテレビ系で放送されている『ザ・ノンフィクション』という番組だった。

 借金返済もあって少しでもお金が欲しかったマキさんは、1本20万円というギャラもあって、その依頼を受けることにした。

『マキさんの老後』のシリーズは全8回にわたって放送された。当時のマキさんは40代だった。『ザ・ノンフィクション』(フジテレビ系)より

 自宅にも容赦なく入る約1年にわたる長期間のカメラの密着はしんどいものがあった。しかしいちばん困ったのは「ヤラセ」だった。気性が激しいという設定にされたマキさんが突然怒髪天を衝(つ)くように怒り出し、ジョンさんや街の人を叱責するよう指示されたり、全然知らない人を知人として仕込みで出演させ、嘘の話をやるように仕向けられたりもした。

 番組は『マキさんの老後』というタイトルで2008年から始まったが、視聴者から好評を博し、2020年までに、なんと全8回+ダイジェスト版1回、計9回も放送される人気コンテンツとなった。

'20年当時、週刊女性の取材で『ザ・ノンフィクション』でのヤラセを告発した 撮影/吉岡竜紀

 マキさんはサービス精神が旺盛な人である。場を盛り上げるためについついやってしまったことが、相手に気に入られ、要求はどんどんエスカレートしていく。さすがにジョンさんが作ってくれた料理をひっくり返すよう指示されたときには、「それはできません」と断ったという。しかも近所での撮影もあったため、その被害は実生活にまで及んだ。

 放送後、ネット上にはマキさんを誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)する書き込みも数多くあった。マキさんは悩んだ。しかし最後の出演交渉の席で、めったに怒らないジョンさんが爆発したことで、ようやく出演にピリオドを打つことができた。

後輩の活躍と、ジョン&マキの未来

 不本意だった『ザ・ノンフィクション』への出演ではあったものの、マキさんの存在は思わぬところで話題になっていた。若き日に闊歩(かっぽ)した、新宿二丁目である。

「アタシは学生時代に『マキさんの老後』を見てから、その圧倒的なパーソナリティーに惹(ひ)かれて、マキさんのファンになったんです。もう放送後の二丁目は、いつもマキさんの話題で持ち切りだったんですよ!」

 そう語るのは、鈴木亮平、宮沢氷魚が恋人役を演じてヒットを記録している映画『エゴイスト』などにも出演する、今人気を集めるドラァグクイーンで歌手のドリアン・ロロブリジーダさんだ。ドリアンさんは早稲田大学の後輩でもある。

学生時代からマキさんのファンだというドリアン・ロロブリジーダさん 撮影/吉岡竜紀

「ぜひ一度お会いしたいなと思っていたんですけど、あるときマキさんが二丁目で出張ホステスをなさるという話を耳にして、会いに行ったんです。そこで話が盛り上がって、後日いろいろとやりとりするうちに、それなら二丁目でイベントをやってお呼びしよう、ということになったんですよ」

 ドリアンさんはドラァグクイーンと早稲田大学の先輩でもあるブルボンヌさんと一緒に『ザ・ノンフィクション マキさんと新宿二丁目』というイベントを企画、前橋から新宿のステージへマキさんを招聘(しょうへい)することとなった。

「壇上でお話を伺ったんですけど、マキさんのトークは凡人が想定するレベルをはるかに逸脱されて、百戦錬磨のブルボンヌさんでも手に余るほどでした(笑)。

 さらには早稲田の校歌『都の西北』を歌い出す始末で!でももう華やかだし、圧倒的なキャラクターなんですよね。早稲田の先輩であり、女装の先達でもある。なんだか不思議な縁のある方ですね。開拓者として尊敬もするし、お姿を見たり、お会いしたりすると元気になる大好きな方だけど……バイタリティーがすごいので、ずーっと一緒にいると疲れて、大変な方かな、なんて思います(笑)」

 マキさんは『ドリアンくん』『ブルボンヌさん』と呼び、後輩としてとても可愛がっている。

「ドリアンくんはすっぴんのときに初めて会ったから“くん”で、ブルボンヌさんは女装のときに会ったから“さん”なの。ドリアンくんは芸術家肌、ブルボンヌさんは学者肌ね。いつだったか、ジョンから『彼らのこと、羨(うらや)ましくないの?嫉妬心はないの?』と言われたんだけど、それはないんですよ。アタシたち世代では果たせなかった夢を彼らが実現して脚光を浴びているのは、田舎住まいの老齢の女装には、まるでわがことのようにうれしいんです。

 ブルボンヌさんはアタシより干支(えと)ひと回りくらい下、ドリアンくんはさらにブルボンヌさんのそのまたひと回りくらい下なので、まるで弟や甥(おい)っ子が活躍するような気持ちなんですよ。もちろんアタシも若いころから中年くらいまではチヤホヤされたり、テレビに出演したりして、とびっきりのおしゃれをしましたけど……アタシの時代では、まだ早すぎたんでしょうね」

早稲田大学の後輩でもあるドリアン・ロロブリジーダさん(左)とブルボンヌさん(右)の活躍をマキさんはうれしく思っているという

 マキさんはそんな後輩たちに「ちょっとお願いしたいことがある」と言う。

「アタシが結婚したことで家族の許しが出て、ふたりで宮本家のお墓に入れるようになったんです。それでジョンとアタシが一緒に入るお墓は、もうどんなデザインにするかも決めているんですよ。“John&Maki”と英語で名前を入れてね。墓石は藤紫色にして、形は蓮の花がいいね、なんて。生前に除幕式とかやってね、皆さんをお呼びしたいな、と思っていて。

 それで、お墓のすぐ近くには美味しいお魚が食べられる『那珂湊おさかな市場』があるんですよ。だからそこへドリアンくんやブルボンヌさんが遊びに行ったりしたら、帰りに『ジョンとマキのお墓に行ってみようか』って言ってもらえたらいいなって。それでお線香を供えてもらったらね、その煙がジョンとマキの形になってお礼をするから、それを写真に撮ってSNSに載せてもらったり、『ご利益があるのかも?』と話題になったりしたらいいな、なんて夢も見てるんですよ。

 死ぬまでにそのくらい有名になって、観光地になってくれたらいいよね、なんてジョンと話しているんです」

 来年はマキさんとジョンさんが結婚して、ちょうど30年の節目の年を迎える。

マキさん・宮本昌樹さん 撮影/吉岡竜紀

「ジョンとふたり、老いは感じてますけど、この先まだまだ生きると思うんですよ(笑)。だからアンチエイジングもちゃんとやってね、いつまでも若くいて、人生最後の花火を打ち上げたいんです。

 来年の結婚30周年は、ジョンが最初に就職した高輪のプリンスホテルで、ゲストを呼んでイベントをやって、華やかにお祝いしたいんですよね。だから今年はアタシもジョンも仕事をバリバリやって、お金を稼ぎたいんです!ですので、ステージのお仕事も全国からお声がかかればいいな、なんて思っていて。もしアタシのショーをご覧になりたいという方がいらしたら、あなたの街までこのマキが参りますので、ぜひお声がけくださいね!」

●ブログ「ジョン&マキ♡公式ブログ」https://ameblo.jp/john-maki/

●HP「ジョン&マキ倶楽部」http://www5e.biglobe.ne.jp/~johnmaki/

●「【公式YouTube】ジョン&マキちゃんねる」https://www.youtube.com/channel/UC_bpW3DacQv4twhUx4H-sQQ

〈取材・文/成田 全〉

 なりた・たもつ 1971年生まれ。イベント制作、雑誌編集、漫画編集などを経てフリー。幅広い分野を横断する知識をもとに、インタビューや書評を中心に執筆。「おしんナイト」実行委員。