今年、デビュー50周年を迎えた宇崎竜童(77)。歌手、作曲家であり、俳優としても人気を集める。
山口百恵のヒット曲を量産した裏側
東京・赤坂─。数え切れないほどのギターが置かれた宇崎の仕事場を訪ねると「買ったことを忘れちゃったギターもあるんだよね」と、笑顔で迎えてくれた。とても77歳とは思えないスタイルの良さ。50周年という節目の年について話を向けると、
「コツコツ、という感じですね。コツコツやってきたら50年になっちゃった」
と振り返りながら、
「今ね、“うちの町でコンサートやってくれ”というオファーをたくさんいただくんです。呼ばれればどんな小さな町や村、山の中だろうが平気で行きますよ。こんなふうに呼ばれなくなったら引退なんだろうな、と思っているので」
さまざまなアーティストに楽曲を提供してきた宇崎だが、中でも“伝説のアイドル”山口百恵さんに、妻で作詞家の阿木燿子とのコンビで書き下ろしてきた曲は、今も色褪せずに歌い継がれている。彼女のヒット曲を量産した“裏側”について聞いてみると、
「百恵さんに書いているときは、阿木が詞を先に作っていました。その詞に僕がメロディーをつけてね。いわゆる“詞先”でした。それが’90年代に入るころ“この生みの苦しみを味わいなさい”と彼女に言われて(笑)。そこからは逆に、僕が先に曲を作るスタイルになりました」
このスタイルになってから、作曲するのがツラいんですよ、と宇崎は苦笑いする。
「まず1曲できたら阿木に聴いてもらう。そこで彼女が1回でも首を傾げたら、すぐに引き下げます。それでまたゼロからスタート。多いときで1作品のために15曲くらい作るときもありますね。そう、阿木にプレゼンしているんですよ」
夫婦で作り上げた百恵さんの黄金期
百恵さんへの提供曲は、『横須賀ストーリー』(1976年)に始まり、最後は『さよならの向う側』(1980年)、まさに“詞先”の時代の産物。阿木&宇崎コンビの楽曲が抜擢された理由を聞いてみると、
「実は僕らを指名したのは、百恵さん本人だと聞きました。彼女は自分からマネージャーに“あの人たちに作ってもらいたい”って言ってくれたらしいんですよ」
始まりはアルバム『17才のテーマ』中の4曲についての依頼だった。しかし、そのうちの1曲だった『横須賀ストーリー』はアルバム曲から外され、後日シングルとして発売されると66万枚という大ヒットを記録。
その2か月後には『横須賀ストーリー』というタイトルのアルバムが制作され、A面の楽曲すべてを阿木&宇崎コンビが手がけることに。
「横須賀は百恵さんが育った街。だから横須賀をテーマにした女の子の歌を作ってもいいよね、と阿木とプロデューサーと話したんです」
百恵さんと仕事をするうちに、宇崎はその才能に驚いたという。
「毎回、(曲の)主人公は違ってましたけど、僕らに作品のインスピレーションを与えてくれる見事な才能を持った人でしたね」
彼女は特に何も言わずに、ただ一生懸命歌うだけだったのだが、独特の振り付けやしぐさ、表情などは自分で拵えたものだという。
「主人公になりきる。ああしようこうしようじゃなくて、セルフプロデュースが自然にできちゃう。いろいろな人が彼女の曲をカバーしているけど、僕らから見ていても、作品の世界観をちゃんと出しているのは百恵さんだけですね」
宇崎は、百恵さんの引退はどう思ったのだろう。
「“あれれ?” という驚きがまずいちばん。それと“ほっとした”という気持ちがありました。そのふたつが五分五分かな。もう作んなくていいんだ、というね(笑)。
だって、レコード会社からは“次はもっと売れる曲”というリクエストが来ますから。これはプレッシャーですよ。で、レコード大賞を絶対獲るというのが目標。そういう気迫をレコード会社から感じるわけです」
あの当時、本当に注文が多かった、と苦笑いしながら宇崎はこう続ける。
「やっとそのプレッシャーから解放されるという感覚でした。3か月に1曲、シングルを書いていたからね。曲がリリースされた次の日には、次の作品を考えなければいけない。それが4年半続いたんですから。さだまさしさんと谷村新司さんのおかげで、2回休憩がありましたけど(笑)」
これはさだまさしが提供した『秋桜(コスモス)』と谷村新司による『いい日旅立ち』のことである。それにしても名曲の数々はどんなふうにして誕生していったのか。
「最初はレコード会社の人と、レコーディングのひと月前くらいに、食事しながら打ち合わせをするんです。タイトルを先にプロデューサーが言うときもあるし、漠然とした“その感じいいですね”みたいなことだったり。誰かが発言した一端を捉えて、それを歌にしてみましょうか、と言われたこともありました。
それでこんなテンポだよね、こんなビートでいったらどうかなとか、アンサンブルはこんな感じとか」
そしてそのイメージをもとに、阿木は真っさらな状態から詞を紡いでいくのだ。
「阿木がすべてをのみ込んで、メロディーも何もない状態で詞を書いてたんです。その詞を僕が見ると、メロディーがバーッと出てきちゃう。メロディーだけじゃなくて、コードからアンサンブルまで出てくることもありました。
詞の中に、すでにメロディーが潜んでいるんです。僕はそれを拾い上げるだけ。彼女はそんなふうに思ってないんだけど、詞を書いている段階でもう、音楽が成立しているんです。まあ、それを楽曲にするという、僕と彼女のコンビネーションの力はあるんだろうけど」
宇崎と阿木は、共に明治大学在学中に軽音楽クラブで知り合い、その後、コンビで楽曲を作るようになっていく。
「阿木のそういう感性は、大学時代から感じてました。初めて詞を書いてもらったのは結婚するちょっと前。僕らのコンビのデビュー曲ですね。『ブルー・ロンサム・ドリーム』という曲(1969)」
この曲は『ジュリーとバロン』というGSのバンドへ書き下ろしたもの。ただ、リリース直後にボーカルのジュリーが脱退。今では超希少レコードになっているという。
そして、宇崎が、『ダウン・タウン・ブギウギ・バンド』を結成。’75年に作詞家阿木燿子のデビュー曲となる『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』を発表し、ミリオンセラー(100万枚突破)を記録する。決めゼリフの「アンタ あの娘の何なのさ」は流行語にもなった。
自分の書きたい楽曲とファンが求める音楽
宇崎は、その当時から楽曲作りを本格的にやりたいと思っていた、と話す。
「作曲家としての仕事は、願ったり叶ったりですね。とんでもなく忙しかったけど、全然苦にならなかった。人に提供する曲を書いているのは楽しい。逆に自分のバンドの曲を書くのがいちばんツラかった。お客さんが求めているイメージにとらわれたくないんですよ。お客さんたちは『スモーキン・ブギ』や『カッコマン・ブギ』『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』みたいな不良っぽい、やさぐれた歌を求めている。それでファンになった。だからずっとやさぐれていてほしいわけですよ。
僕としてはもっと違うことがやりたいのにね。そうこうしていると『横浜銀蝿』とか『クールス』が出てきて、ファンたちはみんなそっちにいっちゃった(笑)。これは大ラッキーでしたね。もう何作ったっていいんだと」
『ダウン・タウン・ブギウギ・バンド』は、トータル8年半にわたって活動。宇崎はその後、’85年に『竜童組』を立ち上げた。’90年まで活動の後、冒頭にあるようなさまざまな場所でのコンサート、また俳優としても活躍を続ける。
4月14日、宇崎は、昨年に続いて『阿木燿子プロデュース 宇崎竜童コンサート~風のオマージュ2023~』というコンサートを行う。2部構成で1部では、阿木や宇崎に大きな影響を与えた、今は亡き人たちへのレクイエム(鎮魂歌)として、彼らに捧げた楽曲をショートエピソードを添えて歌い上げる。松田優作さん、根津甚八さん、原田芳雄さん、桑名正博さん……。ナレーションは阿木だ。
「2部は、みなさんがよく知っている曲から新しい曲、今の日本が置かれている状況のニュースみたいな歌も歌います。きっと楽しんでいただけると思いますよ」
取材・文/小泉カツミ