ジャニーズの伝説のグループとして知られる男闘呼組が、今年8月までの期間限定で活動を再開し、ファンを歓喜させている。だからこそ、気になるのは同時期に活躍したスーパーアイドルグループ・光GENJIの存在だ。
そこで、誕生日である2月28日に51歳のバースデーイベントを行った元メンバー・山本淳一に、光GENJIについて振り返ってもらった。山本が語る過去、現在、そして未来とは――。
「この後、どうすればいいんだ」という気持ちになった
1987年に始動した光GENJIが活動したのは'95年まで。後年、メンバーの諸星和己は「解散したのは僕のせい」とも口にしたが……。
「誰のせいっていうのではなくて、あの時代は10代の子がアイドルになって、20代半ばになると卒業する、というのが普通でした。22、23歳になったらもうキラキラした衣装は脱いで、自分を探す旅に出る。彼の中でも、ネクストステージで新しい自分を見せたいという考えがあったから、『自分のせいで解散した』と言ったんだと思います。
僕たちはありがたいことに、活動した9年間の密度が濃かったし、アイドルとして頂点に立たせてもらってやりきった感があるんですよ。だからこそ、『この後、どうすればいいんだ』という気持ちになった。『このまま、30歳40歳になってもローラースケートを履いて歌って踊れるの?』とか。
今になったら、KinKi Kidsの2人は現在40代なわけだし、できなくもないってわかるんですが、あのころは、自分たちだけでなくおそらく周りも、アイドルは卒業しなくてはいけないものだと信じ込んでいました。
でも、僕たちができなかったことを、SMAPやTOKIO、V6はやってくれた。『40代50代になってもまだグループのままでいられて、すごいな!』って、本当に思います。それは、事務所の人たちもびっくりしたんじゃないかなあ」(山本、以下同)
ジャニーズ次世代グループの評価
SMAPやTOKIOより下の世代のグループについて、山本はこう評価する。
「踊りにしても歌にしてもすごくレベルが高いし、素晴らしいと思います。みんなでそろって踊るシンクロダンスが、今の主流ですよね。特にSnow Manさんは、僕たちみたいな歌も踊りも未熟で、売りが若いということだけのまま世に出たグループと違って、見る人に納得されるようなレベルで人前に立つために準備に時間を費やしてからデビューしたのだと思います。世間に向けてパフォーマンスするときは、技術面でも精神面でもある程度大人になっている。
僕たちも同じ振りで踊ってはいたんですが、どこかで『目立とう』という気持ちをみんな持っていて。特に、真ん中にいてバンダナを巻いてた人は2回のターンでいいところを3~4回回って転んだりしていましたから(笑)。いい切磋琢磨(せっさたくま)だったと思いますが、現代ではそれは難しいでしょう。今の時代だったら光GENJIは、技術も低いし、メンバー間がそんな感じだから、すぐダメになったはずです(笑)」
当時の光GENJIのきらめきは空前絶後
山本は謙遜するが、当時の光GENJIのきらめきは空前絶後だった。「ジャニーズ史上、No.1の瞬間最大風速」の呼び声は、いまだに高い。当然、ジャニーズ首脳陣からの厚き薫陶を山本も受けている。
「光GENJIの解散後、海外ロケの仕事で、1人でパリ経由でサハラ砂漠に向かっているときのことでした。ド・ゴール空港を歩いていると、パリに旅行に来ていたメリー(喜多川)さんと森光子さんにばったりお会いしたんです。『淳一!』ってメリーさんに抱きしめられて、森さんには『はい、お小遣い』って、フラン札を何枚か握らせられました。僕はパリには滞在しないんですって伝えたのに(笑)。
同じく海外ロケで帰国する際、経由地のイギリスのヒースロー空港で、ロンドンにスタジオを持っていたASKAさんにばったりお会いしました。ASKAさんは僕たちの『STAR LIGHT』や『ガラスの十代』などの曲を作ってくれた恩人です。『今からうちのスタジオに来なよ!』と言われたけれど、『ごめんなさい、飛行機の時間があるのでさすがに無理です……』ってお答えして(笑)」
山本の親しみやすさも窺い知れるエピソードだ。
30周年の際に一度7人で集まった
'02年にジャニーズ事務所から退所した山本は、芸能活動だけでなく一般企業で働くようにもなった。インターネットのバナー広告を扱う会社で営業職を担当し、愛媛県内のバーではアルバイトに精を出した。
「グループを卒業して1人ぼっちになり、自分があまりにも世間知らずなことに悩みました。13歳からジャニーズにいて、芸能の世界しか知らないわけですから」このままではよくないと、一般職に足を踏み入れてみた。
「芸能界で鍛えられたから、なんとかなるだろうとも思っていました。でも、大変なことばかりで、すぐに鼻を折られました。接客業にしても、そのしくみがわからない。営業職でも“元・光GENJI”なんて肩書は、契約を取るのには全然通用しなかった。すごく情けない、いい時間を過ごしました」
山本が愛媛で活動していたころ、一般女性との間で起きたトラブルについての報道が世間を騒がせたことがあった。あのとき、山本から反論めいた発信はなかった。
「裁判も終わり契約を交わしたので、あの件について詳しく語ることはできないんです。ただ、自分のプライベートで光GENJIという名前を汚したことは本当に申し訳ないと思います。ファンにも、メンバーにも、ただ謝りたいです」
'22年夏に、本格的な芸能活動の再始動を “恩師”の墓前に報告したという。同年は、山本の芸能界デビューとともに光GENJI結成・デビューの35周年イヤーでもあった。
「光GENJIのデビュー日でもある8月19日に芸能活動を再始動すると決めたので、その前にジャニー(喜多川)さんとメリーさんのお墓に報告に行きました。『これからも見守っていてね』と」
ここで気になるのは、やはり光GENJIの再結成だ。
「誰かが中心になってメンバーをまとめるのではなく、全員が同じ熱量で、フラットな状態であれば、再結成は叶(かな)うと思います。たぶん、男闘呼組は全員がフラットな関係だから再結成できたんだと思います。
実は、30周年を控えていた時期に『また、やれたらいいね』と7人で集まったことがあるんです。でも、結局それぞれの思いは一つにならず……時期尚早でした。35周年も過ぎてしまいましたし、40周年のタイミングなら復活できる……かな?(笑)
でもそうなると、僕も56歳です。その年齢でローラースケートを履いて、歌って踊れるのか。グループ全員をその状態に持っていくには、最低半年はかかると思いますしね(笑)」
山本の現在の活動はソロが中心だ。
「あまり再結成ばかり期待されるとプレッシャーになるので、ファンの皆さまには気長に待っていただいて(笑)。でも、7人で集まったときのために、みんな体調に気をつけて活動してほしいと思います。僕自身、60歳になってもローラースケートを履いて踊れるように頑張っていたいです!」
1972年、東京都出身。'87年、光GENJIのメンバーとしてシングル『STAR LIGHT』でデビュー。爆発的人気を博し、社会現象になった。'95年に解散。現在はタレントやミュージシャンとして活躍中。
<取材・文/寺西ジャジューカ 撮影/伊藤和幸>