タクシー会社の制服に身を包み、人懐っこい笑顔で取材現場に現れたのは、12歳から20歳までの8年間、ジャニーズ事務所に所属していた国分博さん(44)。
「小学校6年生のときに姉が応募した履歴書が通ったことがきっかけです。“オーディションだよ!”と連れていかれた六本木の会場には、他にも100人くらいの男の子がいて。“85番”の札を胸につけて“とりあえず踊ってみて”と言われて、ダンスを見せました」
長瀬智也に「ダンスで負けたくない」
オーディションに合格して、次の週からレッスンに参加するようになった。当時の思い出は意外にも……。
「少年隊の『PLAYZONE '91 SHOCK』というミュージカルに出ることになり、中学1年生の夏休みはレッスン漬け。事務所のレッスン室やテレビ局のリハーサル室に行くと缶ジュースが飲み放題だったのですが、みんなカルピスウォーターが好きで、ジャニーさんも含めて取り合いでした(笑)。
“YOUたちお腹空いてるでしょ”とハンバーガーを100個以上持ってきてくれたこともありましたね。僕は食べることが大好きだったので、ドラマの撮影でオーストラリアに行ったとき、ドリトスにハマって太ってしまったんです。
オーストラリアに行く前から継続していたドラマの撮影があって、前の話と繋がらなくなってしまうので、帰ってきてからジャニーさんに怒られてしまいました。食事制限とトレーニングで急いで体重を戻しましたね」
ストイックに努力をし続ける日々。切磋琢磨できる仲間もいた。
「当時仲が良かったのは、同期の長瀬智也です。お互いの家を行き来したり、僕の地元の祭りに一緒に行ったり。背が伸びて、どんどんカッコよくなる長瀬を間近で見ていて“ダンスでは絶対負けたくない”と思っていましたが、結局、彼は『TOKIO』としてバンドでデビューしたんです」
20歳のときに、2年間座長を務めた舞台を終えた。
「京都の劇場で開催された『Kyo to Kyo』という舞台に出演しました。最初から最後まで座長として参加したので、僕にとっては集大成。全公演が終わったときにハタチという節目だったこともあり“やりきったな”と、退所を決めました」
ジャニーズを辞めてからは、知り合いの紹介を通じて飲食店で働いた。
「10年間ほど東京でバーテンダーをした後、京都の飲食店で働きました。ジュニア時代に京都でご飯を食べたときの感動が忘れられなかったんです。おでんや京野菜を使った定食など、とにかく京都の味が大好きでしたし、ジャニーズ時代から仲の良かった人たちとの縁もあったので」
「ジャニーズが原点」
しばらく京都で料理の勉強をした後、東京で再出発。
「それまでは、知り合いの繋がりで飲食店を転々としていましたが、そろそろゼロから自分で何かしたいと思って、1年ほど前にタクシードライバーに応募しました。運転するのも好きだし、お客さんと話して笑ってもらえるとうれしくて。
僕の根底にはずっと“人を笑顔にする”というジャニーさんからの教えがあるんです。今は道を覚えるのに必死ですが、この仕事は自分に合っているので、これからも続けます。将来は、買い物に出かけられない人やお年寄りなど、困っている人を運転で助けたいですね」
新しい“道”に進んでも、ジャニーズ時代の絆は健在。
「僕の1か月後に事務所に入った喜多見英明とは今でも親友で、去年の12月から、彼を含めた友人たちと『全力生存確認』というYouTubeチャンネルを始めました。当時のジャニーズ仲間を探して、現在の活動をインタビューしています。まさにこの企画のように(笑)。
ジャニーズJr.は、ファンの方が知らない間に、説明もなく辞めていく人が多いので、本人の口から退所の理由や感謝の気持ちを伝えてもらって、当時のファンへの恩返しができればいいなと思っています。正直、20代のときは“元ジャニーズ”と言われるのが嫌でした。
ただ'19年に亡くなったジャニーさんのお別れ会で、当時の仲間と、久しぶりに顔を合わせて。そこから自然と連絡も取るようになり、YouTubeを始めるきっかけにもなったので、やっぱりジャニーズは僕の原点だなと感じています。これからもファンの方々に喜んでもらえるような活動をしていきたいです」