女優・冨士眞奈美(85)が語る、古今東西つれづれ話。自身の暮らしについて言葉を紡ぐ。
冨士眞奈美が語る「住む場所」への想い
静岡県の三島から上京して、最初は従兄弟夫婦が住む横浜に、その次は“ぺこ”こと大山のぶ代と一緒に駒場へ。それからというもの、親族が入れ代わり立ち代わり同居し、ずっと東京暮らし。
ずいぶん昔、大橋巨泉さんから「住むなら都会の四畳半と田舎の豪邸、どちらがいい?」と聞かれたことがあった。「もちろん都会の四畳半よ」と答えると、巨泉さんは「それが田舎者の発想なんだよ」と豪快に笑った。でも、もう一度聞かれても、やっぱり私は都会の四畳半だと答えるだろうな。
引っ越すたびに、不要なものは捨ててきたつもり。でも、これだけ生きていれば、どうしたってモノは増えていく。ましてや私のように、一過性ではあるけれど買い物好きともなればなおさらのこと。
ざっと家にあるものを思い浮かべても、時計や指輪、記念にもらったバカラやロイヤルコペンハーゲンといった高級食器、毛皮のコートや一度も袖を通していない着物などなど……ああ、姉の雛人形もどこかに眠っているはず。はぁ~どうしようかしら。
そうそう。私は『開運!なんでも鑑定団』(テレビ東京系)に過去何度か出演した。以前他の番組で共演していた山下清さんが花束を描いてくださった色紙があって、それを鑑定してもらうことになった。
でもそれ、「経年劣化で紙の色が変わってしまったから、もう価値がないかも」「こうすればいいよ。ほら立派だろ」と、よくわが家に入り浸っていた新宿三丁目の酒場「どん底」の店長が道を描き加えてしまっていた。結果は30万円。「なにも描き加えてなければ60万円以上だった」なんて言われてね。でも頂いた際、山下さんは「これは3000円だな」なんて可愛いお顔でおっしゃっていたっけ。モノの価値ってわからないわね。
「私の人生は人に恵まれたと同時に、場所にも恵まれた」
わが家には「開かずの扉」がある。正確には「開けずの扉」なんだけど。その前に住んでいた新宿区四谷のマンションから持ってきたモノ一式を、保管しているだけの部屋。何を持ってきたのか、何が入っているのかわからない。恐ろしくって開けられない。小学生のころの通信簿とか、昔のラブレターとか。
このマンションには、ほんの数か月だけしか住んでいないけれど、私はとても気に入っていた。だって、大好きな新宿伊勢丹が近かったんだもの。それに、あのころはよく「どん底」へ飲みに出かけていたから、そこにも歩いてゆけてありがたかった。
でもその物件は「いわくつき」だと、ある大物芸能人の方がラジオで話していたことがあった。その方も密会の場所として借りていたんだけど、なんでも「高層階から飛び降りた老人が“出る”」と。
当時、私は母と娘と一緒に暮らしていた。ある朝、母が「昨日は本当に眠れなかった」と言う。「どうしたの?」と聞くと、「だってベッドの足元のほうにおじいさんがいて、ずっと話しかけてきてうるさかったのよ」と、母はあきれながら話し始めた。
うちの母は、俗に言う“見える人”だった。だからなのか、私はその言葉を聞いたとき、あの大物芸能人が言っていたことは本当なんだと思った。そういえば……外観や間取りは立派なのに、ずいぶん家賃が安かったのよね。
それから間もなくして、いま住んでいる一軒家が完成した。以来、ずっとここで暮らしている。ご近所さんとも仲よくなり、とりわけお隣さんとは、お料理をお裾分けしてもらうくらい親しくなった。
今でも忘れられない。(吉行)和子っぺと(岸田)今日子ちゃんと一緒に仕事で台湾へ行ったときだった。お隣さんは家族総出で私をお見送りしてくださった。お餞別のぽち袋まで用意して。私の人生は人に恵まれた──と同時に、場所にも恵まれたのだと思う。
大谷選手の載ったスポーツ新聞を読むために通っている、近所の喫茶店も優しくてお気に入り。まぁ、コーヒーを飲んでいる場合じゃなくて、そろそろ家の整理をしないといけないんだけど、アハハ。
(構成/我妻弘崇)