'36年の十二代目・片岡仁左衛門襲名時の写真。ほぼ同時期に東京へ移住となった(遺族提供)

《「伝統歌舞伎」を次の世代に継いでいかなければならない。使命を背負っているんです》

 3月7日、『婦人公論』が運営するサイト上に十五代目・片岡仁左衛門のインタビュー記事が掲載。江戸時代から続く名跡・仁左衛門という名前の重さを振り返っていた。

「仁左衛門は関西歌舞伎の特徴である色気や気品あふれる芸風で知られており、現・仁左衛門さんもその伝統を継ぐ大名跡です」(歌舞伎愛好家)

 代々、関西を中心に活動している仁左衛門だが、1人だけ東京に居を構えていた仁左衛門がいたという。

「明治から昭和にかけて活躍した十二代目・片岡仁左衛門です。彼は美形で男役も女役も演じられるなど芸の幅が広く西の人気役者でした。50歳のころに女形が不足していた東京の歌舞伎界に招かれて移住。その後“片岡仁左衛門一家殺害事件”という凄惨な事件に巻き込まれました」(同・歌舞伎愛好家)

住み込みの“作家見習い”が起こした惨劇

 戦後間もない'46年の3月16日に、東京の渋谷区にある十二代目宅で強盗殺人事件が起きた。

「事件の犯人は、歌舞伎の脚本を書く“座付き作家”の見習いだった当時22歳のI田T明。彼は12歳の妹と一緒に十二代目宅に身を寄せていましたが、事件の日の明け方、就寝中だった当時63歳の十二代目とその妻・登志子さん、当時2歳だった息子、住み込みで働いていた69歳のお手伝いさん、さらには自身の妹の計5人を殺害。現金約600円、現代の価値に換算すると約100万円を盗んで逃亡しました」(全国紙記者)

 当時絶大な人気を誇っていた役者の一家が、壮絶な殺人事件に巻き込まれたことは日本中の関心を呼び、新聞で連日報道されるように。

「すぐさま全国指名手配されたI田は事件から数日後に逃亡先の宮城県で逮捕。当時の報道によればI田は犯行動機として、十二代目や家族たちが3食白米を食べる一方で、自身や妹は量の少ない配給米ばかりだったことや、夫婦から毎日嫌みを言われたり、叱責を受けて不満がたまったことで犯行に至り、止めようとした妹まで勢い余って手にかけてしまった、と供述したと記録されています」(同・全国紙記者)

 '47年、I田は5人も殺害したにもかかわらず責任能力を考慮されたためか、死刑判決ではなく無期懲役が確定。'60年ごろには恩赦で出所して、その後の詳細な消息は不明とされている。

未だ癒えぬ遺族の心

 77年前の出来事ではあるが、今なおこの報道に心を痛めている人がいるという。

「十二代目と登志子さんの娘で当時3歳だった片岡照江さんが現在もご存命なのですが、周囲に“事件の真実を伝えたい”と語っているそうです」(前出・歌舞伎愛好家)

 伝えたい真実とはなんなのか。3月初旬、照江さんに取材を申し込み、急なお願いにもかかわらず自宅で話を聞くことができた。

「事件が起きた日、私は神田にいた母方の祖母の家にたまたま泊まっていたため難を逃れましたが、家族を失った悲しみは昨日のように覚えています」(以下、照江さん)

十五代目片岡仁左衛門

 照江さんが語るには、I田は空襲で妹以外の家族全員と家を失い途方に暮れるも、I田の父親が、長年にわたり十二代目の座付き作家だったという縁を頼って'45年の9月ごろから片岡宅に住み込むようになった。

「まず、I田の犯行動機である“食べ物の恨み”というのが間違いです。わが家では住み込みの人たちとも区別せず食事をしていましたし、父は知人の遺児であるI田を気にかけていました。本当の動機は単純にお金だったんです」

 周囲の役者からはI田の評判は良くなかったようだ。

「生前の父と交流のあった役者さんが言うには、I田が歌舞伎の楽屋に出入りするようになってから、紛失物が増えたそうです。仲間の役者さんたちからは“いつか後ろ足で泥をかけられます”と忠告されていたそうですが、父はI田を庇っていたとも聞いています。結局、そのとおりになってしまったのは口惜しい限りです」

 事件から数年後、照江さんのもとに獄中のI田から詫び状が届いたという。

「手紙には“弁護人から犯行動機を食べ物の恨みと言えば減刑されると聞いて嘘の供述をした。申し訳なかった”と、書かれていました。しかし報道で“食べ物の恨み”と散々書かれたことで、世間からは“住み込み人に食べ物を与えず恨まれて、殺された人の子”として、無視されたりいじめに遭いました」

真相が伝えられなかった要因

 誤った情報はこれだけにとどまらないようだ。

「I田は“片岡宅の廊下に落ちてあった薪割りの斧につまずいたのが犯行のきっかけにつながった”と供述したとされていますが、凶器はマサカリ状の薪割りで、それも当時近所に住んでいた警察関係者の家にあったもの。そして父と母もI田を内弟子としてわが子のようにかわいがっていたことを記憶しています。ここまで間違った情報が広まったのは、犯人の供述ばかりが新聞で取り上げられ、事件を担当した警察官が第一発見者の祖母に“事件当時、一緒に住んでいない人の話は聞く必要がない”と、ほとんど聞き取り調査をしなかったことが大きいと思います

'46年3月24日の朝日新聞に掲載された十二代目・片岡仁左衛門一家殺人事件の犯人逮捕の記事。犯人・I田の供述が書かれている

 当時、歌舞伎の興行主である松竹や役者仲間も、十二代目の人柄を警察に証言するなどフォローしたが、汚名を晴らすには至らなかった。

現在でも過去の報道を引用して事件が語られていますから、発端が“食べ物の恨み”という嘘は覆せていません。父・十二代目仁左衛門の功績も忘れられつつあるのが悲しい限りです。何度かテレビで事件の再現ドラマが放送されましたが、一度も娘である私に事前の相談や連絡などはありませんでした。私が事件の遺族と知る人もいないのでしょうね。I田から届いた犯行動機を明かした詫び状も、新聞記者に事件の資料として貸したあと返却されずじまい。今となっては新事実を示す証拠も残っていません」

 現在80歳の照江さんは、長唄日吉会に所属し、日吉小都女の名義で、娘の小左都さんと共に活動している。

「自宅に飾っているお雛様は、私が生まれた'42年に作られたものです。事件当日も3月だったので飾っていたので、雛壇に被害者の血痕が残っているんです。今でも“この人形たちが証言してくれたらな”って考えてしまいます……」

 時間がたっても、誤った情報が残る限り、遺族の悲しみは消えることはない。

 

十二代目・片岡仁左衛門が照江さんのために購入した雛人形。最下段には血痕がまだ残っている

 

十二代目・片岡仁左衛門

 

十二代目・片岡仁左衛門

 

十二代目・片岡仁左衛門