映画監督の安藤桃子(41)の愛車は「クラウドくん」。傘ホルダー、あったかハンドルカバー、子ども乗せシートでカスタマイズされた電動アシスト自転車だ。
映画監督・安藤桃子が住む高知の魅力とは
安藤が住んでいる高知県のとある街はコンパクトで、愛車でどこにでも行ける。
「あそこに止めちょったの、あんたの自転車やない?」
近所の人に教えてもらい、「ごめん、忘れてたー」と慌てて回収にいくことも。
仕事をしながら、1人で8歳の娘を育てている安藤。
「今日は下校が遅かったけど、大丈夫やった?」
ご近所さんやママ友たちがいつも娘の様子を気にかけてくれて、助かっていると笑顔を浮かべる。
「外から来た者にも家族のように接してくれて、すごく安心感がありますね」
東京出身の安藤が、初めて高知を訪れたのは10年前。2作目の長編映画『0・5ミリ』のロケハンのためだ。高知空港に降り立つと、一瞬で心が解き放たれたという。
「今でも時々感じるんですけど、いろんな喧噪からパッと離れて、ロサンゼルスとかに行ったときのような解放感がある。感動する景色があるわけでもない普通の空港なのになんなんだろうと、最初はすごく衝撃でしたね」
安藤の父は俳優・映画監督の奥田瑛二(73)、母はエッセイストの安藤和津(75)、妹の安藤サクラ(37)も女優という芸能一家。両親に連れられて幼少期から国内はもちろん、海外などさまざまな土地を訪れているにもかかわらず、初めての経験だった。
映画のロケで訪れた高知に一目惚れ
「恋に落ちた瞬間に感じるような、これは運命だという感覚(笑)。後から振り返ると、ここが人生の大きなターニングポイントでした」
映画監督として認められたのも、高知のおかげと言ってもいいかもしれない。全編高知ロケをした『0・5ミリ』が高く評価されたからだ。
撮影当時、女性監督はまだ少なく、しかも安藤は31歳という若さ。スタッフは職人気質の大先輩ばかりで、最初は「監督」と呼んでもらえず、「おう」「ねえねえ」と声をかけられる……。
「すごくシンプルですけど、なぜそう撮りたいのか自分の気持ちを繰り返し伝えて、スタッフに信頼してもらえるように頑張りました。本当に無我夢中という言葉がピッタリでしたね」
目をキラキラさせて話す安藤の映画へのまっすぐな思いが、現場をひとつにしていったのだろう。
映画の原作は安藤が書いた同名小説で、脚本も自分で担当した。ヒロインは住居も職場も突然失った介護ヘルパーの女性。街で出会った見知らぬ老人宅に入り込み、押しかけヘルパーとして過ごす様子が、からりと明るく描かれる。キャッチコピーは「死ぬまで生きよう、どうせだもん」。ヒロインを演じたのは妹のサクラだ。
「原作を書いているときから当て書きをしていました。登場人物は全員が私の分身。サクラさんで当て書きすると、すごいイメージがリアルに膨らむ。幼少期からずっと一緒にいて、鏡合わせというか、一心同体のような」
よく似た感性を持っている姉妹だからこそ、こんな失敗も。カメラを回す前に2人でアイコンタクトをして、うんうんとうなずき合う。
「はい、そういうことで」
そのまま撮影を始めようとしてしまい、何も説明されていないスタッフが動けないことに気づいて、慌てて謝った。「ごめんなさい!」
2014年11月に映画が公開されると、一気にスポットライトを浴びる。映画賞を総なめにする勢いで、作品賞や主演女優賞などを次々と受賞。映画公開前に結婚して高知に移住していた安藤は、出産間近の大きなお腹を抱えて授賞式に出席した。
「映画賞レース最後の日本アカデミー賞は病院で新生児におっぱいをあげながら、テレビで見ていました。産後2日目でまだ目もかすんでいて(笑)。主演女優賞のサクラの顔と『0・5ミリ』のダイジェストがテレビの画面に映るのをボーッとしながら見て、あー、終わったなー。出産も終わったし、全部出し切って、ああ、全部やりきったか!って。連ドラの最終回みたいだった」
映画は公開され、出産を終えるも鬱に
産後は東京の実家に里帰り。朝起きて窓を開けると、目の前にある梅の木に花がついていく様子を毎日写真に撮り続けた。それ以外は、用意してもらったご飯を3食食べ、授乳して過ごす。
「ベッドで新生児を抱きながら、意味もなく目から水が流れ続けるんです。今思えば産後鬱だったと思うんですけど、何で泣いているのかも、わからない。両親らが部屋に様子を見に来ると、何時に扉を開けても私が全く同じポジションで、全く同じ顔して座っているから、『超怖かった』と後々言われました(笑)」
2か月後に高知に戻り仕事を再開したが、母になった安藤の心と身体は、大きく変化していた。
新たな仕事の依頼が次々と舞い込む中、出産前から約束していた次の小説の執筆に取りかかったものの、うまく書けない。
「約束を破るのは人として違う」と焦る一方で、「赤ちゃんにだけ集中したい」という思いもある。何より、心が動かず、作品を生み出せないのが苦しかった。
「ちょっと表現があれですけど、まあ、ゲボでも、クソでも、汚物でも、何でもいいから、ふりしぼれーと(笑)。それでダメなら見捨てられても構わないみたいな、超ネガティブ(笑)。
なんか自分を変に追い詰めて、本来の自分の魂の声が聞こえなくなっていた。魂の声というのは、誰もが持って生まれた自分が好きなこと、ワクワクする気持ち。それを忘れていたというか、見えなくなっていました」
身体を動かせば心が動くかと思い、赤ん坊を連れて小笠原諸島に1か月半滞在した。高知に帰って一気に小説を書き上げたが、お蔵入りに……。
そして、突然、こんな宣言をしてしまう。
「映画監督やめます」
その理由は、自分でもまだわからないとしながらも、そのときの気持ちを丁寧に言葉にしてくれる。
「小説も書けない、映画も撮れない、何もできない……。そんな自分が最も大事な、絶対に手放すべきではないものを手放したんですね。自分の魂を真っ二つに引き裂く、一番、自分を傷つける行為をして、自分で自分を終わらせたわけです。今、振り返るとそうしたのはよかったと言えるんですけど、その話をするだけで、泣けてくるもん」
幼いころから常に身近にあった映画。その映画への深い愛があるからこそ、自分を許せなかったのだろうか─。
芸能一家で育てられた特異な幼少期
安藤が物心ついたときには、家に他人がいることが当たり前だった。夜になると父の俳優仲間や監督など映画人が大勢集まり、リビングであぐらをかいて、「あの作品はどうだ」「この脚本はこうだ」と談議しながら宴会が始まる。安藤や妹のサクラが朝起きると、皆べろべろに酔っ払いながら、まだ同じ体勢で話し続けていたという。
住み込みで父の付き人になる俳優志望の若者が何人もいて、よく遊んでもらった。夢をかなえた人もいれば、問題を起こして破門になった人もいる。
「他人が家庭内に入っていることで、人の感情の喜怒哀楽をたくさん目にしましたし、父が付き人さんを厳しく指導する姿も目の前で見てきました。そうした人間ドラマを客観的に見続けてきたので、すごく早い段階で自分のアイデンティティーを意識したんじゃないかと思います」
両親は「一流のモノを知らないといけない」とさまざまな体験をさせてくれたが、普段の生活は質素で、父からは繰り返しこう言われた。
「芸能人の娘だからといって、特別意識を持つな」
俳優としての父は家でも役になりきるタイプ。安藤がギターの弦で指をバッサリ切ったとき、外科医の役を演じていた父に傷を縫合されたことも!
「私が小学校に上がる前ですね。怖すぎて、痛みの記憶はなくて、ただ、抜糸のときの皮膚が引っ張られる感覚は忘れられないです。ケガすると全部、父のよくわからない方法で治されました(笑)」
小・中・高校は学習院に通った。安藤は集団行動が苦手で、教室にじっと座っていられない。突発的に動いては先生を困らせて、母がひんぱんに呼び出された。
「成績も極端で、問題児でした(笑)。でも、母が、『得意、不得意があるのは当たり前だから、いいところを伸ばしていけばいいのよ』と言って肯定して、感性を伸ばすようにしてくれた。すごく助かりました」
同級生は名家の子女が多く芸能人の親を持つ子は他にいない。子どもは異質なものに敏感で残酷だ。
「いじめられたこともあるのでは?」と聞くと、安藤はひと言。
「ありすぎて。アハハハ」
笑い転げて、こう続ける。
「本当にね、幸せ脳を持って生まれて、イヤなことがいっぱいあっても、忘れるんですよ。いじめられたときに感じた痛みは残るんですよ。だけど、誰にされたとか、忘れちゃう。これは父譲りです」
はっきり覚えているのは、からかわれたり仲間外れにされたりしたことだ。
「あ、芸能人の娘が来た!」
「安藤さんとは一緒に帰らない」
皆と違うことをすると「特殊な家庭環境だから、教育が行き届いていないんじゃない」と言われ、孤独を感じることも多かったという。
「誰も私のことを知らない場所に行きたい」
そう思い始めたのは、まだ小学校低学年のころだ。
両親に懇願し、義務教育を終えた高校1年生の夏に、イギリスの全寮制高校に入学した。留学先でも、最初は人種差別によるいじめにあったが、なじむにつれ周囲の人たちから日本のよさを称賛される機会が増える。初めて「日本人に生まれてよかったな」と感じた。
懸命に働いても「2世だから苦労してないよね」
驚いたのは、家族の話をしたときの友人たちの反応だ。「うわー、親が映画監督で俳優なの? すごい!」「首相のひ孫なの? すでにセレブリティー!」
日本では、2世であることがマイナスに作用することが多かったのに、真逆だ。
「私は目からうろこが、もう、何十枚もボロボロ落ちるくらい、ビックリしました(笑)。だからといって、いきなり向こうの友人みたいに家の自慢はできないけど、プラスの要素として生かしてもいいんだと初めて思えたんです」
ロンドン大学芸術学部に進み、卒業後はニューヨークで映画作りを学んだ。大学の夏休みに一時帰国して、父が監督した映画『少女』の撮影現場に参加。「映画と恋に落ちた」のだという。
「映画監督になりたいと父に宣言しました。映画って、1人で作るんじゃなくて、プロフェッショナルな人たち皆が同じ方向を向き、チームワークで作り上げる。その現場に惚れたんですね」
23歳のとき日本に帰国して日活撮影所で助監督見習いとして働き始めた。映画監督を頂点にしたピラミッドの底辺からのスタートで、平均睡眠時間は2~3時間で月給は10数万円。時給換算するとわずか200円だ。
「どうせ2世だから苦労していないよね」
懸命に働いても、相変わらず陰口をたたかれる。トイレで1人泣くこともしばしばだったという。助監督を4年間務めた後、'10年に長編映画『カケラ』で監督・脚本家デビュー。翌年には、小説『0・5ミリ』を書いて、作家としてもデビューした。
異例の速さでデビューできたのは「2世」だからかもしれないが、そのチャンスをものにしたのは、安藤自身の実力だ。
恋に落ちて結婚も離婚、娘と2人で高知暮らし
2作目の映画化に向けて飛び回る中、取材で訪れた高野山で、恋に落ちた。
「遠目から見た瞬間に、『何だあの人間は!』と(笑)。それまでの人生で出会ったことがないタイプの人でした。自分は未来のためにどうしたら役に立てるんだろうみたいな話を2人でしていたら、すっごく面白くって。すぐに結婚しました」
'14年に高知で新婚生活を開始。映画『0・5ミリ』の公開を経て、翌年出産した。その後、「お互いに進む道が違うね」と離婚してからは、娘と2人で高知暮らしを続けている。
安藤が幼い娘を連れてスーパーに行ったときのこと。買い物客のおじちゃんが追いかけてきて、娘にお小遣いだと千円札をくれた。安藤が驚くと、こう言われたそうだ。
「こうやって子どもが元気に育っちゅうのを見ただけで、本当にありがたい」
しかも、それは1度きりではなかった。散歩途中に知らないおばちゃんと話が弾み、アメなどをもらったことは数えきれない。
「移住した当初は『エー!?』ってなったけど、あんたが幸せやったら、私もうれしい。そういう文化が高知にはあるんですね」
親切にしてもらったお礼を返そうとすると、こうも言われた。
「いいから、その分、またどこかで返しちゃりや。そしたら巡り巡って、また自分に返って来るがやき」壮大な幸せの循環とでもいおうか。循環の輪の中で、安藤も皆を幸せにできることを考えるようになった。
そして、'18年に立ち上げたのが異業種チーム「わっしょい!」だ。「子どもたちの輝く未来をともに描く」ため、地元のお母ちゃんたち、農家、研究者など約50名が集結。それぞれの特技とマンパワーを生かして、農、食、教育、芸術などのイベントを企画している。例えば、種から育てた大豆を使った味噌づくりは毎年恒例の人気企画だ。
そのころ出会い、安藤が大きな影響を受けたという女性がいる。ホスピタルアーティストの小笠原まきさん(54)だ。全国の病院で壁画などを描く一方、NPO法人「地球の子ども」の代表を務め、子ども食堂やひとり親家庭への支援などをしている。
「まきさんは高知人気質そのままの人で、めちゃくちゃ明るい。支援とかボランティアとか、私がやりたいと思ってもやれなかったことを、本当にコツコツと積み重ねている。しかも、かわいそうだから助けてあげるんじゃなくて、皆が元気になれるようなことを自然とやっているんですよ」
安藤も「地球の子ども」を応援するようになり、一緒に子ども食堂をしたり、情報発信などを手伝うようになった。おかげで活動への注目度が上がったと、小笠原さんもうれしそうにこう語る。
「コロナでつらい話ばかりが流れたときに、桃子さんが何かできないかなというお話をされて、一緒に児童養護施設にスイーツや皿鉢料理を届けたんです。桃子さんが行くとたくさん人が集まってきて、子どもたちもすごく喜んでくれましたね」
今年2月に行われた「高知オーガニックフェスタ」では「地球の子ども」も出店。おむすびを売った売り上げでお米を子どもたちに配るプロジェクトや、ひとり親家庭に食材を配ったりした。
安藤はオーガニックフェスタ全体の実行委員長を務めており、見事な采配だったと小笠原さんは感心する。
「やっぱり桃子さんは映画監督さんなんですよね。イベントでは会場を端から端まで走り回って細部まで気を配られているし、それでいながら全体のいろいろな動きもちゃんと見ている。桃子さんが引っ張っていくというより、桃子さんが声をかけることによって、皆が一緒に立ち上がり、それぞれが輝き始めるような感じがしました」
地域活性化の思いを形にしたミニシアター
高知で過ごす時間が長くなるにつれ、映画への向き合い方も変わってきたと安藤は話す。
「以前は自分がどういう作品を撮りたいかと考えてやってきました。それを1回終わらせて、ある意味、生まれ変わるのに時間はすごくかかったけど、映画を通じて子どもたちの未来のためにできることは何だろうか、どうしたら地域の活性化につながるかと考えるようになりました」
その思いを形にしたひとつが、'17年に1年半の期間限定で開設したミニシアター「キネマM」だ。
「街の中心に取り壊しまで2年放置されるビルがあるがやけど、なんかやらんかえ?」
そんな地元建設会社社長からの提案に、安藤も「じゃあ、映画館だ!」と返し、社長や地元の皆とわずか数か月の準備期間で開業にこぎつけたのだ。
「東京だったら、ちゃんと企画書を作って、利益が出るか計算して、初めてGOが出るけど、高知では全然違って、『とにかく走れ、とにかく進め!』と(笑)。だけど、『動機が大事やきね』とは言われました。土佐弁だと“成功しちゃろう、奪っちゃろう”じゃなくて、皆が幸せになれるかが大切なんだと。やっぱり、“私もうれしい、皆もうれしい”なんですね」
街から映画館が消えて寂しさを感じていた人は多く、たくさんの人が「キネマM」に来場してくれて1年半の営業を終了。その後、跡地での映画館復活が決まった。
安藤は新たに「キネマミュージアム」と名づけ、映画の上映、映画にまつわる展示のほか、カフェも併設し、映画を通じた交流の拠点作りを目指す。近日中にオープンする予定だ。
これだけ大きなプロジェクトを動かすには、多くの人の力が必要になる。高知出身の宇賀朋未さん(35)も、安藤の思いに共鳴した1人だ。宇賀さんは東京で映画関係の仕事をしていたが、安藤の活躍を書いた新聞記事を読み、雇ってもらえる確証もないままUターン。その行動力と熱意で、安藤が代表を務める会社「桃山商店」のスタッフとして働くことになった。
今では二人三脚で会社を支える宇賀さん。そんな宇賀さんから見た、安藤の仕事ぶりを教えてもらった。
「キネマMのときもそうですが、安藤に何かアイデアが湧いてきたときは、それはできると決まっているから自分に順番が回ってきたという考え方なんです。安藤の中には、こうなるというビジョンがあって、それに向けて必要があれば本当に助けてくれる人が現れるし、必要なご縁が巡ってきたりする。
普通とは順番が違うから、最初はびっくりしましたけど、結果的にいつもそういう流れになるので、逆に怖いものはなくなりました(笑)」
コロナ禍で講演の仕事などが激減し、会社の預金残高がゼロに近づいたときも、安藤が取った方法は常識とは逆だった。新たにスタッフを雇い入れ、宇賀さんの給料も上げたのだ。
その理由を聞くと、安藤はこともなげに言う。
「新たに成長していくきっかけを作らないとヤバいなと思って。誰か1人入ってくれば新しい風が吹くし、給料を上げれば馬力をさらに出そうと思うでしょう。逆に給料を減らすと我慢の世界になって、クリエイティビティーが減少するので」
しばらくして、本当に「キネマミュージアム」の計画が動き始めて、危機を脱したというからすごい。
その背景には高知の県民性もあるのではないかと、宇賀さんは推測する。
「高知には何かあっても死にゃあしない、“何とかなるき大丈夫”という気質があります。安藤にも、もともとそういう気質があったのか、移住して身についたのかはわかりませんが、よくそう言っていたし、私も心配はしなかったですね(笑)」
高知での新しい映画祭にかける思い
現在、安藤が主体となって取り組んでいるのは、「ショートショート フィルムフェスティバル&アジア」とのコラボレーションで今年11月に高知で開催する「龍馬祈願映画祭」だ。通常の映画祭のように作品を公募して審査を経て上映するほか、YouTubeやSNSなどを使った老若男女誰でも参加できる動画の募集、子どもたちが映画作りを学べるワークショップなど、さまざまなプロジェクトを進めている。
安藤自身も高知を舞台にした短編映画を製作して上映する。同時に'24年の第2回映画祭の準備も始めている。地元と一体となり、半永久的に続けなければ映画祭にはならないと思うからだ。
そもそも映画祭の企画がスタートしたきっかけは、安藤が高知の神社に頼まれて絵馬をデザインしたこと。それがコロナ禍で中断していた伝統的な祭り「龍馬祈願祭」を復活させることにつながった。
その後、安藤と小笠原さんがデザインして2種類の紙の絵馬を作成。全国の病院の小児科や小学校に配ると、2万人の子どもから、坂本龍馬のようなでっかい夢や願いが書かれた絵馬が送られてきた。そこに書かれているみんなの夢や願いを形にするため、安藤は映画祭をやろうと考えた。映画はいろいろなものを束ねて表現できる方法だと信じているからだ。
「高知の自然や、あたたかな人に触れると、すべての命にやさしい世界、みんなが望む未来を、ここから描いていくことができる。実現可能だと思わせてくれます。
映画監督、フォトグラファー、建設会社、飲食店、地元企業など職種は違っても、みんな同じことを願い、映画祭という祭りに向けて集結してきている。地元活性化のための高知らしい映画祭になると思います」
他にも、地元産品を使った商品の開発をプロデュースしたり、地元民も知らない地元の魅力を発掘してテレビ番組やYouTubeで発信したり。1人何役もの役目をこなし全力疾走しながらも、安藤はいつも楽しそうだ。
もう東京には戻らないのかと聞くと、即答した。
「ずっとここにいます。やっぱりね、魂が根付くところってあると思うんですよね。それに娘にとっては高知が地元ですから。
高知に初めて来たとき、ロサンゼルスみたいだと感じたけど、いつか、ここがハリウッドのように、映画文化を担っていくような場所になったらいいなと思います。高知には海も山も川もあって、撮り方によっては、“うわー、ここどこ? 日本!?”って驚くような場所もいっぱいあるし。
ここで皆の感性が花開いて、夢がかなってゆくと信じています」
高知と映画への愛を語らせたら、もう止まらない。
<取材・文/萩原絹代>
はぎわら・きぬよ 大学卒業後、週刊誌の記者を経て、フリーのライターになる。'90年に渡米してニューヨークのビジュアルアート大学を卒業。帰国後は社会問題、教育、育児などをテーマに、週刊誌や月刊誌に寄稿。著書に『死ぬまで一人』がある。