在日三世として東京に生まれ、人気シンガー、クリスタル・ケイ(37)を女手ひとつで育てたシンシア(60)。17歳のときに家を飛び出し、その後横浜のディスコでシンガーとして歌い始める。
ディスコで初めて歌ったシンシア
「ディスコで初めて歌ったのは19歳の春のこと。場所は横浜・山下町の『LA MOON』です。ステージが始まるのは夜の11時で、まずDJの出番が30分あり、次に私たちが30分歌って、またDJに変わって─。一晩で4〜5ステージこなし、終わるのはたいてい明け方近く。出番はほぼ毎晩あり、そうなるともう以前から続けていたスナックのアルバイトは辞めるしかない。
私たちのバンドが入った途端、『LA MOON』は長い行列ができるようになりました。当時横浜にはディスコがたくさんあったはずなのに、『LA MOON』は週末になるともうパンパンで、一晩で400〜500人くらい入っていたかも。
当時そこでよく流れていた曲のアーティストはGAPバンド、イヴリン・キング、アース・ウィンド・アンド・ファイアー……。私は出番終わりの明け方、横須賀へ帰るために電車の始発待ちを『デニーズ』でよくしていました。
トニーが迎えにきてくれたこともあったけど、時には、ディスコ仲間の横須賀に住んでいたお兄さんたちと車で帰ることもあって。そのお兄さんたちと、そのまま寝ないで海へ行くことも。そんな日でも、夜にはまたディスコで歌っていましたね。当時機材も良くなかったから、精いっぱいの声で歌って喉はつぶしまくり(笑)。私もまだ若かったのでしょう、ちやほや周囲にもてはやされ、あのころは粋がっていたんじゃないかな」
アメリカに行って結婚しようと言われ迷わず「イエス」
シンデレラ・ストーリーだった。横浜のディスコで“歌姫”と評判を呼び、ある晩偶然の再会を果たす。
「ディスコのハコバンはたいていひとつの店と数か月単位で契約していて、それが終わるとまた別の店に移ります。『LA MOON』での仕事が終わり、私たちが次に移ったのが横浜西口の『K&E』。私はその後すぐにひとりで『MAGIC』へ行くことになった。『LA MOON』より少し高級で、ディスコというより歌って踊れるレストランという感じでしょうか。
そこで私たちの後に出演していたのがC.C.O。17歳のころ、バイト先の喫茶店で『私も歌いたいの』と言って以来、3年ぶりの再会でした。あのときはまだ女子高生でした。『オマエ、本当に歌うようになったんだな』と、彼らも驚いていましたね。そこでC.C.Oに『ウチでも歌えよ』と誘われ、立場が逆転! 私は『ふーん』などとクールを装いつつ、内心にんまりという心境。その後、実際彼らのバンドのボーカルとしてステージに立っています」
キキと彼、トニーとシンシアの4人で暮らし始めてからすでに2年の月日がたっていた。恋も仕事も順調で、この日々がずっと続くと信じていた。
「ある日キキの彼が基地でトラブルを起こし、急きょアメリカに帰国することになった。キキも彼についてアメリカに行くと言います。寂しいけれど、しかたがない。キキと彼が去り、トニーとの2人暮らしがスタートしました。
そんななかトニーがバスケの練習中に仲間とケンカになり、花形のAチームからBチームへ降格を言い渡された。大きな屈辱だったようです。『我慢ならない、もうこれ以上ミッドウェイに乗っていたくない。ステーションを変える』と言い出した。
ステーションを変えるということは、アメリカに帰るということです。『一緒にアメリカに行って結婚しよう』とトニーに言われ、その場で迷わず『イエス』と答えました。もともと早く結婚して子どもを産みたいという願望が私の中に強くあったから。何よりトニーのことが好きで好きでしょうがなかった。アメリカでトニーと新たな生活を始めよう、そこで温かい家庭を築くんだ、と幸せな未来を夢見てました」(次回に続く)
<取材・文/小野寺悦子>