「音楽はバカでかく、ビールはキンキン、セックスは熱い……」
暗記していたセリフを、尾藤イサオはひとりで何度もつぶやいていた。4月23日から始まる舞台の稽古場。台本を持たずに尾藤は稽古に臨む。
実話をもとにつくられた映画『BACKBEAT』で
《ビートルズは5人だった》
実話をもとにつくられた映画『BACKBEAT』が日本で舞台化されたのは'19年。スチュアート・サトクリフ役の戸塚祥太(A.B.C–Z)、ジョン・レノン役の加藤和樹らとともに、尾藤はクラブ経営者のブルーノ・コシュミダー役に起用された。
さらに、「出演するからにはぜひ1曲歌ってほしいということで、エルヴィスもやりました」
プロデューサーや演出家の意向で新たに脚本に加えられたのがエルヴィス役。初演では『ハウンド・ドッグ』を熱唱するエルヴィスのシーンが映画にはないサプライズとなり、観客席が喝采に沸いた。今回、4年ぶりとなる再演でも尾藤はもちろん2役を担う。芝居も、歌も、準備に余念はない。
“You ain't nothing but a hound dog!”
稽古場にハウンド・ドッグの歌声が響くと、張りつめていた空気が一変した。突然降臨したエルヴィスに誰の目も釘づけ。まさに尾藤のひとり舞台。“79歳のロックンローラー”は共演者とスタッフたちの盛大な拍手に包まれた。
日本でリメイクされる『BACKBEAT』に尾藤が関わるのは“必然”と言っていいかもしれない。もはや伝説となった'66年のザ・ビートルズ来日公演で前座を務め、彼らのステージを誰よりも近くで見ていたのが尾藤だった。
「あのとき武道館のアリーナにはお客さんを入れなかったんですけれども、一緒に前座で出演した内田裕也さんとズルをしましてね。楽屋に戻らず、ステージの真ん前に椅子を置いて、偉そうに脚を組んで見ていたんです」
そのときの写真も残っている。内田裕也さんが他界したいま、歴史的な瞬間を至近距離で体感した経験を語れるのは尾藤しかいない。
「ステージに登場した4人は、それぞれアンプのチューニングを始めて、なんだ、お客さんにあいさつもナシかよと思ったら、いきなりジョンがマイクの前に出て、“Just let me hear some of that rock and roll music!”って歌い始めた。これがカッコよくてね。彼らが日本へのあいさつ代わりに選んだ1曲目が『ロック・アンド・ロール・ミュージック』だったんですよ」
ビートルズは日本のロックシーンを変えた。主流はソロの歌い手からグループサウンズへ。武道館で尾藤のバックバンドを務めたブルー・コメッツも、'67年の『ブルー・シャトウ』の大ヒットでスターダムに躍り出た。実は、所属事務所の方針で尾藤がブルコメのボーカルになる計画もあったという。
「ブルコメのB・Cと、イサオ尾藤のI・Bを合わせたバッジもつくられていたんですよ。だけど“オレが歌いたいのはビートルズじゃない!”って突っぱねた。僕の歌の原点はプレスリーですから」
曲芸師の修業中に見つけた夢とは
もしもプレスリーの歌に出合っていなかったら?「いまも曲芸師をやっていたかもしれないね」と尾藤は言う。
'43年、台東区御徒町で尾藤は生まれた。7人家族。父は百面相の芸人、母も義太夫の下座で三味線を弾いていた。ひと回り年上の姉と、3人の兄。功男は末っ子。
3歳のときに他界した父の記憶はない。父亡き後、芸人になった長男と母が舞台で稼いだ。が、その母も功男が小学4年のときに病に倒れた。
「虫の知らせでしょうかね、朝、学校へ行くとき、寝ていたおふくろが“功男、ちゃんと姉ちゃんの言うことを聞くんだよ”と。それが最後に聞いたおふくろの言葉ですよ」
学校から戻ると、母の顔には白い布が掛けられていた。
「枕元に座っていても、実感がなくて、泣けなかった。通夜になって、近所の人たちが“功ちゃんがかわいそう”って話しているのを聞いて、ここは泣かなきゃいけない場面だと思って、はじめて泣きました。いやらしい話ですけれども、まわりの期待に応えようとする気持ちが、そのころからあったのかな」
戦後の貧しい時代。両親を失った生活は苦しかった。小5のとき、家賃の安い家を探して一家は荒川区日暮里へ引っ越し。さらに、父の友人だった芸人に三男を弟子入りさせる話が持ち込まれた。
「口減らしですよ。そのときにね、“たーちゃん(三男)がイヤだって言うからオレが行く”って、僕が自分から手を挙げたんです」
小6になってすぐに弟子入り。5年奉公プラス1年の御礼奉公が弟子のしきたり。師匠の鏡味小鉄は神事芸能の太神楽の曲芸師。傘、鞠、撥、茶碗、皿、ナイフなどの道具を、立てたり、回したり、積んだり、投げたり……。自在に操れるようになるには「人一倍努力しなさい」と師匠に教わる。3か月後─。
「今日から鏡味鉄太郎だよ」
高座名をもらい、師匠の後見人(補佐役)として紋付き袴姿で初舞台に上がった。
「師匠は“土瓶の小鉄”と呼ばれていて、口にくわえた撥や匕首の上に土瓶を乗せる芸が十八番。“すげぇな、このオジサン”って見とれて。最後に師匠と向かい合って皿を投げ合うジャグリングをやったら、僕は落としてばかり。でも、子どもがドジをやる姿がおもしろいと、お客さんは大喜びだった」
曲芸の仕事先はもっぱら在日米軍の施設。バスやトラックに乗せられて全国各地の米軍キャンプにも行った。
「基地の中は別世界でした。クルマは右側を走っているし、チューインガムやらチョコレートやらくれるし。ガムなんか一度口に入れたら、寝るときだけ出して、一週間は噛んでいました(笑)」
アメリカ文化の洗礼。その先に、人生を変える“衝撃”との出合いが待っていた。
プレスリーの『ハートブレイク・ホテル』と出会って
「13歳くらいだったかな。おつかいに行った帰りに、お蕎麦屋さんの奥にあるラジオから聞こえてくる歌に足が止まった。それがプレスリーの『ハートブレイク・ホテル』だったんですよ」
曲が終わるまで蕎麦屋の店先で聞き入った。わずか2分あまりの時間が曲芸師の鉄太郎に“夢”を与えてくれた。
「お囃子ではなく、プレスリーの『のっぽのサリー』や『監獄ロック』のレコードを流して曲芸をやったんです。上下ストライプの衣装を自分でつくって、“ロカビリー曲芸”と題を付けましてね」
これが米軍施設で大ウケ。客が喜ぶ芸を、師匠も自由にやらせてくれた。そして'60年、アメリカ本土を巡業する『ジャパニーズ・スペクタクラー』という演芸一座が組まれ、鏡味小鉄社中も加わる。約1年に及ぶ北米滞在中に、鉄太郎の夢は膨らんだ。
「マイアミのホテルで見たサミー・デイヴィスJr.のショーに圧倒されたんです。歌や楽器だけでなく、モノマネ、タップダンス、ジャグリングまでやっちゃう。お客さんを飽きさせないプロ意識に影響を受けたんですよ」
歌って踊れるエンターテイナーになりたい─。演芸一座のダンサーからタップを教わり、練習に明け暮れた。1年が過ぎ、帰国。そして、鉄太郎になって6年が過ぎ、師匠に年季明けのあいさつ。
「お世話になりました、今日でやめさせていただきます」
「おまえも晴れて一人前だ」
「いえ、曲芸をやめます」
「そりゃどういう意味だい」
「僕、プレスリーみたいになりたいんです」
「本物の不良になるのか!?」
曲芸師をやめることは「破門」を意味した。大卒初任給が約8000円だった当時、曲芸師のギャラは1ステージ800円前後。1日に2、3ステージの掛け持ちもできた。身につけた技芸で大金は稼げる。その道を捨てて尾藤は鉄太郎から功男に戻った。
功男からイサオへ。そして憧れの舞台に
「大手町のサンケイホールの窓拭きだとか、いろいろやりましたよ。時給70円、タバコのハイライトも70円。なつかしい、そんな時代だった」
17歳の尾藤はアルバイトをしながら歌の道を探った。芸能事務所の社長を渋谷のジャズ喫茶に訪ねると、階段の踊り場で歌を聞いてもらえることになった。歌ったのは『マック・ザ・ナイフ』や『レイジーリバー』など大人のジャズナンバー。
「プレスリーを歌わなかったのは……、イキがったんだろうね(笑)。だけど、普通の17歳とは違うと思ってもらえたんじゃないかな」
その場で雇われた。決して歌がうまかったわけではないと尾藤は振り返るが、提示された1万5000円の月給は、歌手として「売れる」という期待が芸能事務所にあったからに違いない。
ほどなくテレビの歌謡番組に準レギュラーで出演。事務所が決めた「尾藤イサオ」の芸名には“本場アメリカ仕込みの歌手”というキャッチフレーズが付けられた。
「横浜からアメリカに密航して歌を勉強した……と、いいかげんなプロフィールで紹介されてね。年齢も中途半端に1歳だけごまかされていた」
ナイトクラブなど、17歳では出演できない深夜の仕事もある。アメリカで歌のレッスンを受けた経験もなかったが、“本場仕込み”が通用するほど尾藤が歌う英語の発音は正確だった。
「全部、耳で覚えたんです。レコードがすり減るくらい、もう何百回、何千回と聴いたかわからない」
プレスリーの曲を、誰よりもプレスリーらしく歌う新鋭の歌手は、日本のロックンロールの黎明期でスポットライトを浴びた。そして'63年1月、ロカビリーの聖地となっていた日劇のウエスタンカーニバルに初出演。
「日劇の5階にストリップ劇場がありましてね。鉄太郎のときは、そこでも曲芸をやっていたんですよ。出番の合間に裏の階段から1階に下りて、ウエスタンカーニバルで歌っている山下敬二郎さんや平尾昌晃さん、ミッキー・カーチスさんを羨望のまなざしでこっそり見ていました」
憧れだった舞台の中央に尾藤は立った。4か月後、2度目に出演したウエスタンカーニバルでは「プレスリー賞」に輝く。“和製プレスリー”が尾藤のニックネームになった。そして'64年、『マック・ザ・ナイフ』を邦訳した『匕首マッキー』で念願のレコードデビューを果たす。
「イサオは曲芸でナイフ投げをやってたからマック・ザ・ナイフでいいだろうと、レコード会社も適当な選曲だよね」
5か月後にはアニマルズの曲をカバーした『悲しき願い』が爆発的ヒットとなった。
「実は、ある女性に恋をして、フラれたばかりだったんです。もう一週間もごはんがノドを通らなくて……、パンにしましたけれども(笑)。“誰のせいでもありゃしない、みんな俺らが悪いのか”という歌詞は、そのときの自分の悲しい気持ちそのままだった」
翌'65年発売の『涙のギター』もヒット。売れっ子になったことで、ビートルズの前座の仕事も舞い込む。
さらに、ロックのジャンルを超えてアニメソングの仕事も。それが『あしたのジョー』の主題歌。かつて台東区と荒川区の境に実在した泪橋が出てくる作中世界は、尾藤の生い立ちにもダブっていた。
「僕も少年マガジンの連載を毎週楽しみに読んでいましたから、うれしかったですね。作曲した八木正生先生の事務所へ行って、“サンド~バッグに~”って初めて歌ったら、同席していたレコード会社の人たちがホメている声が聞こえてきて、すっかり気持ちよくなっていたら頭から歌詞が飛んじゃったんです。で、“ルルルー”って歌ったら、八木先生が“そこ、ハミングにしましょう”と」
アニソンの名曲誕生には、そんな裏話もあった。
「いまも歌うときの気分は矢吹丈。身体は丹下段平ですけれども(笑)、80歳近くになっても歌い続けられるヒット曲に恵まれたことは、本当に幸せだなと思いますよ」
歌だけでなく、演技でも魅せる存在に
尾藤には3人の孫がいる。
「若いころに出た『野獣を消せ』('69年)という映画のビデオをファンの方が送ってくれたので、孫たちと一緒に見ていたら、始まって10分もしないうちに僕がバイクで女の子を追いかけて乱暴するシーンが出てきたんですよ。それを見て、まだ小学生の孫たちは“じじ、大嫌い!”って怒り出して、しばらく口もきいてくれなかった」
尾藤の役者としてのキャリアは、歌手としてのそれとほぼ同じ。初仕事は10代で出演した舞台『蜜の味』だった。
映画デビューは《日本初の本格ミュージカル映画》と銘打たれた『アスファルト・ガール』('64年)。作品の後半では尾藤がプロの一流ダンサーたちを従えてセンターを務めるレビューシーンがある。ストーリーの上では端役ながら、歌って踊れるエンターテイナーとして尾藤は存在感を示した。
日本のニューシネマの傑作となった市川崑監督の『股旅』('73年)では、小倉一郎、萩原健一さんとともに若い渡世人を演じた。作品は、尾藤が演じる信太がお国訛り丸出しで「これにておひきゃあをねぎゃあます」と一宿一飯の仁義を切る長広舌で始まる。
「そのころ、高倉健さんの東映ヤクザシリーズが流行っていましたけれども、市川先生から“ヤクザはそんなにカッコいいもんじゃないんだよ”と教えられて、僕も『やくざの生活』という本を読んだり、信太の故郷の方言を勉強したりしました」
尾藤は市川監督を「演技の師匠」と敬う。名監督に役者の才能を引き出されたことで、歌って、踊って、芝居もできるエンターテイナーの道が拓けた。
'80年、ミュージカル『ファニー・ガール』では元宝塚女優の鳳蘭と共演。公演パンフレットには、演劇評論家の橋本与志夫さんが尾藤について、こう記していた。
《ちょっと不良性を帯びていて、少しばかりおっちょこちょいで、しかも根はお人好しでといった役どころに回ると、すばらしい光りを放つ/もともと歌手としても、役者としても、決して器用なほうではないと、自他ともに認めている人だけに、ここへ来るまでの努力は並みたいていではなかったろう》
この作品で、尾藤は演劇人の勲章ともいえる『菊田一夫演劇賞』を受けた。
「主役のファニーに歌や踊りを教える振付師の役でしたけれども、オープニングで曲芸師が出てくるシーンも僕が演じて、それも評判になったんです。菊田先生の賞を自分がいただくなんて夢にも思っていませんでしたから、うれしかったと同時に、自分がこの道を生きてきたことへの自信になったことはたしかですね」
翌年、森田芳光監督の名作『の・ようなもの』では落語家を演じた。弟弟子役で共演した、7つ年下の俳優・でんでんは言う。
「この映画が僕の役者デビューのようなもので、ズブの素人同然なのに、尾藤さんは優しく接してくれましてね。演技のことを相談すると、いつも“自然に、自然に”と言いながら、“自然っていうのが一番難しいんだけどね”と笑っていた。
例えば、弟子たちで銭湯へ行って、僕が“全身ネコ舌なんだよ”と言いながら熱いお湯に入るシーンがあるんですけど、そのときに尾藤さんがアドリブでバシャッと僕に水をかけて、賑やかな笑いがそれこそ自然に起きたんです。台本のト書きにはない小さなアドリブひとつで、尾藤さんは弟子たちの上下関係や仲の良さを見事に表現したんですよ。役者って、奥が深いけど素敵な仕事だなと思った瞬間でしたね」
映画の公開後も、でんでんは尾藤を「アニキ」と慕い、親交を深めた。40年以上の付き合いの中で、役者としてだけでなく、人として尾藤から多くを学んだとでんでんは話す。
「尾藤さんは毎年、曲芸をやっていたときの鏡味小鉄師匠ご夫妻を温泉にお連れしていたんですよ。僕も2回、草津温泉にご一緒したことがあって、ご夫妻が本当にうれしそうにニコニコされていたのをよく覚えています」
破門になっても師匠への感謝の念は変わらない。人一倍努力する尾藤の姿勢が、曲芸師のころに培われたことを多くの共演者やスタッフが知っている。'16年、『の・ようなもの』の35年後を描いた映画『の・ようなもの のようなもの』では、寄席のシーンで口にくわえた撥の上に土瓶を乗せる曲芸師が登場する。師匠・土瓶の小鉄を彷彿させるカットのインサートは、尾藤の下積み時代に敬意を表するプロデューサーや監督たちのアイデアだった。
「月並みな話ですけれども、いただいたお仕事をまじめにやろうという気持ちだけでこれまでやってきたんですよ」
と、尾藤は言う。だが、気持ちだけでは乗り越えられないハンディキャップも背負った。30代後半から、尾藤の両目は徐々に視野を失い始めた─。
満身創痍でも、現役であり続けるために
「なんか暗いなと感じるようになってきて、あるとき娘の顔を見たら歪んで見えたんですよね」
検査を受けると、まだ加齢黄斑変性という病名が一般的ではなく、中心性網膜症と診断された。しかも、両目に発症するのは非常に稀なケース。そして「治療法はありません」と眼科医から告げられた。年を重ねるほどに視野の中心に何も映らなくなっていく。
「アイツは人と目を合わせない、すれ違ってもあいさつもしないと、非難されることもありました。いまも“目線をください”と言われるのがいちばん困るんです」
尾藤には、カメラの位置も、目の前にいる相手の顔もわからない。小さな文字も読めない。台本は人に読んでもらい、耳で聞いて暗記している。
ミュージカル『ゴールデン・ボーイ』('87年)で共演し、尾藤を「師匠」と呼ぶ19歳年下の川平慈英が、仕事の現場ではうかがい知れない尾藤の努力をこう話す。
「2人で浜名湖に行ったとき、“散歩してくる”と言って外に出た尾藤さんが、次のライブでやる曲の歌詞をイヤホンで聞きながら反復練習していました。いまは芝居のセリフも全部耳から入れていますけれども、目だけでなく満身創痍なんですよ。腰部脊柱管狭窄症の手術もして、一時は歩行器を使って歩いていたこともあるんです。それでもステージに上がれば一瞬でみんなが知っている尾藤イサオになって、踊るし、回るし、跳びはねますからね。僕もあんなふうに生きたいって、尾藤さんの背中を見ながら20年後の自分の目標にしているんです」
いつまでも“現役”でいるために、尾藤は健康に関しても人一倍留意するようになった。1日3箱吸っていた大好きなタバコも64歳でピタリとやめた。
「ロックンローラーがタバコも吸えなくてどうするんだって思いましたけれども、キヨ(尾崎紀世彦さん)のおかげでやめられたんです。3年間、一緒にショーをやったときに、2人でコブクロの『蕾』を歌おうとしたら、僕が持っている音よりもキーが高かった。でも、原曲のキーというのは、その曲に一番合っているものなんです。キーを下げずに歌いたくてタバコをやめたら、声が鼻に抜けるようになった」
ライブやディナーショーでの尾藤は、さまざまな名曲をカバーして観客を楽しませる。自分の声に合わせてキーを変えたりしないのは、オリジナルに対する敬意でもある。
酒量も減った。若いころは毎晩ウイスキーのボトルを1本空けていたが、いまでは焼酎を適量たしなむ。
「よく尾藤さんと一緒にサウナに行くんですけれども、上がってから500円のホッピーを飲むのが恒例で。乾杯しながら、“これで満足できるオレたちは安上がりで幸せ者だよな”って、尾藤さんは悦に入る。
プライベートではミリオンヒットメーカーのオーラが全然出ていなくて、本当にチャーミングなおじいちゃんで、七福神と一緒にいるみたいですよ(笑)」(川平)
そんな性格が芝居にもにじみ出る。映画『感謝離 ずっと一緒に』('20年)ではデビュー当時からの友人である中尾ミエと熟年夫婦を演じた。
「気心が知れたミエちゃんのおかげでNGもほとんどなかった。僕もやっと自然な演技ができるようになったかな」
尾藤のプライベートを語ってくれた人がもう1人いる。京都で100年続く老舗ブライダル企業の4代目で、内田裕也さんやミッキー・カーチスとも深い交友関係を築いてきた高見重光さんは言う。
「音楽をやってる人たちから尾藤さんの悪口を聞いたことは一度もない。
けなしようがないんやわ。誰からも愛されるのは、尾藤さんが誰に対しても謙虚に誠実に尽くしているからで、人が喜んでくれることが尾藤さん自身の幸せなんやね。どんな仕事でも“ing”であり続けなければ“ほんまもん”やない。いまもステージで完全燃焼して、お客さんと“幸せ交換”をし続けている尾藤さんは、正真正銘のほんまもんやと思う」
転がり続けることにこそ意味がある
2月17日。台東区の浅草公会堂で開催した『夢コンサート』のステージ。マイクの前に立った尾藤は、ジョン・レノンのようにいきなり歌い出したりはしない。
「早いもので、僕も歌い始めて今年で60年になります。昔はプレスリーに憧れて、夢中でロカビリーをやりました。いまでは夢中でリハビリをやっております」
尾藤のあいさつに爆笑が起こる。お得意のジョークで観客の気持ちをつかんだかと思うと、『監獄ロック』の熱唱で会場は手拍子に沸いた。
コンサートスタッフで編集プロデューサーの河本敏浩さんは言う。
「尾藤さんのステージを見て、僕はあらためてプレスリーを聴き直しました。アメリカから入ってきた新しい音楽を日本語で表現しようとした、まだ手垢にまみれていない日本のロックンロールを60年間歌い続け、その魅力を時空を超えていまの世に体現できるのは、もう尾藤さんしかいないと思っています」
その尾藤にも、答えられない問いがある。自分にとってロックンロールとは何か?
「歌っていてわかるのは“終わりはない”ということですかね。僕みたいな小さな石ころでも、転がり続けることに意味があるというのかな。
聴いてくれるお客さんが違えば、歌も毎回違ってきます。“これがロックだ”と満足することは絶対にない、常に何か新しいものを追い求めなきゃならないんですよ。今度の『BACKBEAT』でも、100歳になってステージに上がったときでも、“尾藤イサオの『ハウンド・ドッグ』はカッコいい”と、みなさんに思っていただけるようにね─」
<取材・文/伴田 薫>
はんだ・かおる ノンフィクションライター。人物、プロジェクトを中心に取材・執筆。『炎を見ろ 赤き城の伝説』が中3国語教科書(光村図書・平成18~23年度)に掲載。著書に『下町ボブスレー 世界へ、終わりなき挑戦』(NHK出版)。