山田邦子さん 撮影/伊藤和幸

 今、お笑いの世界は大きく変化しつつある。女性芸人が多数登場し、女性が自らのアイデアで人を笑わせる、新しい時代となった。「女は笑いに向いてない」と言われた時代から、女性が人を笑わせる自由を手に入れるまで。フロンティアたちの軌跡と本音を描く新連載。

“唯一天下を取った女性ピン芸人”山田邦子さんの第2回。時代を変えた伝説のお笑い番組に、紅一点的存在としてレギュラー出演。セクハラ、パワハラをものともせず、お笑い人としての腕を磨いた。笑いの猛者が集まり、しのぎをけずった、『ひょうきん族』の青春模様。

たけしから「何かやれ。参加しろ」とアドバイス

 '81年『オレたちひょうきん族』が始まった。ビートたけしさん、明石家さんまさんなどが出演し、新しい笑いをつくり出した伝説の番組。そこへ、デビュー間もない山田邦子さんも、参加することになった。

私は『かわい子ぶりっ子』のネタが当たっただけの、まだ素人同然の時期でした。最初はプレッシャーもなかった。だって、まわりの人たちは何やっても面白いんだもん。一緒にやれることが楽しくてしょうがなかった。ただね、悔しい思いもいっぱいしましたよ。

 私はピン芸でデビューしたので、大勢でやるのが苦手で。自分の芸をやったら、その後は休憩みたいな感覚でいたんです。すると、自分の出番が削られていっちゃうんです

『ひょうきん族』は、フィクションからノンフィクションへ笑いの質を変えた番組といわれている。それまでは練りに練った台本そのままに、リハーサルを重ねて本番をやるというのが主流。

 しかし、『ひょうきん』の現場では一応台本があっても、それぞれがアドリブをしかけ、どんどん発展させていく。脱線やハプニングすらもそのまま笑いにして放送し、新しい笑いを生んでいった。

私はそのノリについていけず、何もできないまま。それで、たけしさんが、“笑うだけでもいい、そんなアホなって言うだけでもいいから、何かやれ。参加しろ。でないと、カットされちゃうよ”と1回だけ言ってくれたんです。たけしさんはそういうことあんまり言わないタイプなんですけどね。私がよっぽどダメだったんでしょうね。

 それからは必死でした。私はモノマネを任されることが多かったんですけど。収録が終わると、次の週の資料が渡される。1週間で、練習してネタを作って。それを本番でやったら、スタッフから“それでぇ~?”と怖い声で言われちゃうこともありましたね。あぁ、これ面白くなかったんだぁって。もう公開処刑ですよ(笑)。

 でも、スタッフがそうやって育ててくれてたんだと思います。私にチャンスをくれてるわけですから。それに応えていかなきゃいけない。寝る間も惜しんで、ネタを作ってましたね」

「ひょうきん絵描き歌」で自分のコーナーを持ち、「ベストテン」のコーナーではいろんな歌手のモノマネを披露し主要メンバーに。自らのポジションを築いていった。

『ひょうきん族』は最初、何人か女性芸人も出演していたが、レギュラーとして定着したのは邦子さんだけ。まわりは男性芸人が暴れ回って笑いをとっていた。苦労はなかったのだろうか。

セクハラとかもあったんでしょうけど、私は鈍感だったんでしょうね。深夜まで撮影してると、みんなおかしくなってきちゃうんですよ。飲み物冷やしていた大きなポリ容器に、素っ裸で入って、“見ろ、冷えてちっちゃくなってるだろう?”と下半身を見せてくる。

 女子校育ちの私は最初はギョッとしたけど、“本当に小さいねぇ”なんて答えてるうちに、慣れてきて。誰のイチモツが大きいとか小さいとかも、わかるようになってきちゃった(笑)。

 今考えると、嫌がらせもあったんじゃないですかね。でも、私全然気がつかなかったの。嫌みもけっこう言われてたらしいんですよ。番組が終わって何年かたってから、鶴ちゃん(片岡鶴太郎)に言われたんです『悔しかったんだよ』って。『何言っても動じないし、NG出しても笑ってる。なんだこいつと思ってた』って

マネージャーに“現場で倒れなさい。でないとギャラが出ない”

 誰が面白いか熾烈な戦いが繰り広げられる世界。若い女性がひとり活躍しているのは、目障りであったのかもしれない。

山田邦子さん 撮影/伊藤和幸

男の子たちはライバルが多すぎてビクビクしてたところもあったと思います。たけしさんがすごすぎて、同じことをやってもそれ以上にはなれないし。他のメンバーより面白いことをやらないと、次の出番はなくなる。いつも戦ってる感じ。男の芸人さんが、私の前で弱気になって涙を見せることもありました。

 

 ただ、サッカーのレギュラーに選ばれる戦いみたいな感じで、競争はあってもみんな仲良かったんです。何より面白いメンバーが集まってるから、楽屋で過ごすときも、食事をするときもずーっとずーっと面白い。大変なこともいっぱいあったけど、毎日が刺激的で、本当に楽しかった。青春だったと思います

『ひょうきん』で活躍したこともあり、人気はさらに上昇。仕事は一気に増えていった。

いくつも掛け持ちで仕事をして、忙しかったですね。具合が悪くて休みたいと言っても、マネージャーに“現場で倒れなさい。でないとギャラが出ないから”って、昭和なこと言われて。そうやって育ったから、仕事根性は植えつけられましたね。具合が悪いまま生放送をやって、コマーシャルの間に吐いてたってこともありました

 そんなハードスケジュールの中でも、ちゃんと遊んだ。

デビュー直後は実家に住んで、月々3万円ずつお金を入れてたんですけど、事務所近くの四谷に小さな部屋を借りて住むようになって。近くのジャズバーや文壇バーによく通うようになったんです。そこには、タモリさんやたけしさん、漫画家の赤塚不二夫先生、さいとう・たかを先生、俳優の松田優作さん、原田芳雄さんなども出入りされていました。

 ママたちがうまくつないでくれて、私はいろんな人に可愛がってもらっていたんですよ。酔っぱらっちゃって、タモリさんにおんぶされて帰ったこともあります(笑)。そこでたくさんの人と交流して、世界を広げることができた。後のネタ作りにも役に立ちましたし。それって、私がちゃんとふらふら外に出かけていったおかげだと思うんですよ。

 ただ、私が店に行き始めた10年後ぐらいに、宮沢りえちゃんが店に出入りするようになってからは、私のまわりの人たちみんなだーってそっちに寄って行っちゃった(笑)。私はそれまでりえちゃんのポジションで、若い女性扱いしてもらってたんですね」

 充実した20代を過ごしていたが、時には先輩芸人の理不尽な八つ当たりに、涙したこともあったという。

大阪の番組にゲストで呼ばれて行ったときに、司会の横山やすしさんにいきなり怒鳴られたことがあったんです。本番前にメイク室で『東京から来やがって。おまえなんかぶっ殺したる。帰れ、帰れ、東京に』って。別に私が何かをやらかしたわけじゃないのに。私は驚いて泣いちゃった。

 やすしさんと一緒に司会だった桂三枝(現・桂文枝)さんが取りなしに来てくださったんですけど、私の泣き顔を見て、『もうお帰り』と言ってくれて。やすしさんも荒れたままだったから、そのまま東京に帰ってきてしまいました。

『山田邦子、根性ないなぁ』って言われましたけど。相方のきよしさんが選挙に出たときで、漫才ができなくなって、やすしさんは寂しくて荒れちゃったというのはわかってましたから。その番組はそれっきりになりましたが、この世界をやめようとは思いませんでしたね

 新しいお笑いのブームをつくった『オレたちひょうきん族』は、1989年10月14日に番組が終了となった。その4日後の18日に『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』が放送開始。女性ピン芸人としては初めて名前を冠したバラエティー番組で、新しい道を切り拓くことになった─。


構成・文/伊藤愛子●いとう・あいこ 人物取材を専門としてきたライター。お笑い関係の執筆も多く、生で見たライブは1000を超える。著書は『ダウンタウンの理由。』など