女優劇団「横浜夢座」主宰・五大路子さん

 真っ白に塗られた肌に太く黒々としたアイライン、結い上げた白髪、曲がった腰で着こなす純白のドレス。実在した老娼婦・ハマのメリーさんをモデルに描く一人芝居、『横浜ローザ』の幕が今年も上がる。演劇を通し平和を伝えてきた女優・五大路子さんは、この舞台を「ライフワーク」と言ってはばからない。ウクライナで戦火の広がる今、伝えたい「戦争で青春をちょん切られた」女たちの物語とは―。

 五大路子さんが娼婦の役を演じる。しかも一人芝居で。モデルは伝説となっている「ハマのメリーさん」─。そんな話を聞いて、私が『横浜ローザ』を見に出かけたのは1996年のことだった。

五大路子演じる娼婦ローザ

 五大さんといえば、美形で、NHK連続テレビ小説『いちばん星』で主役を演じたキャリアから正統派のイメージが強かった。しかし幕が上がると、娼婦をせざるをえなかったこと、恋した男もその息子も戦争に巻き込まれてしまったこと─。過酷な経験がローザによって語られ、戦争が、いかに人生をズタズタにしてしまうか訴えかけてきた。

 ただ、この芝居からいちばん伝わってきたのは、どんな悲惨な状況に置かれても「生き抜く力」だった。

「あなたの娼婦はキレイすぎるんだよ」

 五大さんはそう評価されたことがあったという。しかしむしろドロドロとしていないからこそ、戦争の悲惨さが伝わってきた。時々、おどけたり、冗談を言ったりすることで、したたかに生きるローザの姿が浮き彫りになった。

 初演から27年がたった。その間、コロナによる中止以外はほぼ毎年、再演されてきた。

 なぜ五大さんは『横浜ローザ』を演じ始めたのか。その人生をたどると、幾度も生きる気力を失いそうになりながら、女優としての危機に直面しながら、それを乗り越えての答えだったことが垣間見える。

大人が信用できなくなった子供時代

弟と、小学校に上がったばかりの五代さん(右)。近所の子どもたちにとっても「みんなのお姉ちゃん」だった

 五大路子さんこと岩岡美智子さんが生まれたのは1952年、神奈川県のJR新横浜駅周辺だ。生家は農業を営んでいた。

「近所の子たちからは“みっちゃん”と呼ばれて、慕われていましたね」と語るのは、2人の弟のうち次男の岩岡洋志さん(新横浜ラーメン博物館館長・63)。

「子どもたちは年齢も経済状況も違う、いろんな子どもがいましたが、平等に可愛がっていましたね。“みんなのお姉ちゃん”って感じでした」

 小学校では放送部に入った。給食時間の放送で五大さんが朗読を始めると、思わず聞き入るほどだったという。

 進学した中高一貫の神奈川学園では演劇部に入部した。部活を共にした親友で同期の岡安康子さんによると、高校2年のとき、部長を務める五大さん率いる演劇部は、難関の神奈川県高等学校演劇発表会に出場したという。横浜市内の大会で評価が得られないと出場できないのだ。

「通常シェークスピアをやっていましたが、私たちはサルトルのギリシャ悲劇『トロイアの女たち』をやろうと。そのチャレンジ精神が評価されたのかもしれません。男役の路子さんが凜々しかったのか、女子生徒には彼女のファンがいました」(岡安さん)

 社会の出来事にも敏感だった。当時はベトナム戦争があり、学生運動やデモが各地で行われていた。それに影響されるように、友達とデモに行くと言い出し、母親が付き添うこともあった。

 学校は学生運動の火種が飛んでこないかを警戒していたのだろう。教室で政治ビラを配った生徒の相談に五大さんが乗っていると、先生が突然入ってきた。「無許可で教室を利用してはいけない」と、話を聞かずにその生徒の腕をつかんで教室から出そうとした。五大さんはこう振り返る。

「尊敬する先生だったのでショックでした。それがきっかけで大人が信用できなくなって……。翌日、学校を無断で休んで鎌倉の海に行きました」“お母さんに叱られるだろう”と思って帰宅した。しかし母親は何も問わず、

「おかえりなさい。お風呂わいているわよ」

当時から「唯一、信じられると思った」母親(写真左)への信頼は厚い

 母だけは信じられると思った。しばらく学校を欠席するが、県立青少年センターの演劇講座が人生を大きく変える。東京藝術大学の野口三千三助教授に出会ったのだ。

「あなたの手のひら、足の裏、身体は世界でたった一つしかない。あなたの中から発露すること、あなたしかできないことを探してごらんなさい。それこそあなたが生きているということなのです」

 野口さんのその言葉には、五大さんに変化をもたらす力があった。

ビンタされてなお貫いた女優への道

 演劇によって自分を表現したいと考えた五大さんは、女優への思いを強くする。

 しかしそこに立ちはだかったのが父親だった。高3の秋、「女優になりたい」と打ち明けると、だめだと猛反対。それでも動じないでいると、「歯を食いしばれ」と言われ、平手が飛んできた。父親から手を上げられたのは初めてだった。ひるまず「女優をやります」「お父さんの考えで私の人生を曲げるわけにはいかない」と言うと、髪を引っ張り洗濯場で頭から水をかけられた。翌朝、ほっぺたが腫れ上がり「姉の顔がお岩さんみたいになって怖かった」と、障子の陰からそれを見ていた弟・洋志さんは震えた。

大学でも演劇を専攻

 このままでは志望する桐朋学園大学短期大学部(現・桐朋学園芸術短大)演劇専攻には進めない。親の承諾が必要だった。そこで父親の説得に乗り出したのが高校の担任、池田征矢雄先生。説得が功を奏して、桐朋学園に合格することができた。

 そこまでして入学した桐朋学園だったが、

「横浜から出たことのなかった女子校育ちの私には、友達も2、3人しかできず、不器用だったのでグループの輪になかなか入れませんでした」

 足は大学ではなく、劇団に向かうことが多くなる。演出家・竹内敏晴さんが作った劇団に入団するが、思うようにいかなかった。

 演劇集団『変身』では空中回転を練習中に失敗し、床に叩きつけられ頸椎損傷。医師から「これから一生、激しい運動はせず、縫い物などをして静かに暮らして」と言われ、目の前が真っ暗に。

 静岡県で療養していた五大さんは、ふと出かけた石廊崎で“飛び込んだらどうなるだろう”という思いがよぎる。そのとき、石が海に落ちた。

「下を見ると、波しぶきひとつ立たない。もし私がここから飛び降りたとしても、“ちょぽん”と泡が立つだけだ。誰も気づかない。そう思ったんです」

看板女優の演技を見て「ここが私の生きる道だ」

 半年の療養を経て次第に快方に向かっていった。そして最初に見た舞台が『早稲田小劇場』の芝居だった。看板女優・白石加代子さんのパワフルな演技にうちのめされ、「ここが私の生きる道だ」と直感。入団するのだが、次の年、「1年間どこかで修業してこい」と主宰者の鈴木忠志さんに言われ、放り出された。

 修業先は新国劇にした。新聞で団員募集広告を見つけたのだ。幼いころ、子守りのおばあさんと行った綱島温泉の舞台で、新国劇の『一本刀土俵入り』や『瞼の母』を見た印象が強かった。「女性はいりません」と言われるも、粘りに粘って「とりあえず採用」となった。

 付き人、掃除、洗濯、なんでもやり、主役の俳優が不在で代役を探していると、臆せず手を挙げ代役を務めた。

 そのころに自ら付けたのが「五大路子」という芸名である。五大とは仏教で、宇宙を構成する5つの要素「地・水・火・空・風」。名は当初「みち」だったが、京都の幸神社にお参りした際、宮司に姓名判断だと「路子」がよいと言われ改名した。'76年のことだ。

 すると'77年、ビッグチャンスがめぐってきた。NHK朝ドラ『いちばん星』のヒロインの代役に決まったのである。

 新国劇からのすすめで『いちばん星』のオーディションを受けていたが、最終審査で次点に。しかし高瀬春奈さんが体調を崩し、放送途中の6月に交代となったのだ。

 このドラマは、日本の流行歌手第1号となった佐藤千夜子さんの半生を描いた作品だ。

「セリフを覚えるのが大変でした。実家から電車でスタジオに通ったのですが、1日の撮影を終えて、夜遅く帰宅後に、翌日のセリフを寝る時間を削って覚えていました」

テレビの前で喜ぶ父の姿

 そんな姿を笑顔で眺めていたのが父親である。

「父はテレビの前に座って、“ここに五大路子という名前が出るんだよな”と喜んでくれていたようです。NHKのスタジオ見学をしたこともあります。本番で使ったドレスが展示してあり、記念にほしいと言ったら、父が許可を得て買い取ってくれました」

 高3の秋、水をかけられ殴られてから、わずか6年。

「子どもを喜んで殴る親なんていないですよ。あのときは悔しかったけど、この父を裏切ってはいけないと思っていました。だからビンタの痛さはずっと、父の励ましの声として私の中にあった。やっと親孝行ができたなって」

 実は五大さんがヒロインを演じた佐藤千夜子さんも、父親の猛反対を押し切って山形から上京し、苦難の末、スター歌手となった。どこか五大さんの歩みと重なる部分がある。

 新国劇でも『いちばん星』が舞台化され、新橋演舞場で公演が行われた際、こんなことがあった。

 千夜子が父親に、「おどっさん、わだすはおぼこ(=子ども)さ産めねえけど、わだすのおぼこは歌だっす」と言ったとき、客席から「みちこ!」という泣きそうな声が聞こえたのだ。耳なじみのある声。父親は芝居の世界に引き込まれて思わず叫んだのだろう。舞台の上で涙が流れた。

国民的女優から暗転、役者人生の危機に

 突如、国民的女優の仲間入りをした五大さん。当時26歳。周りから注目されたら少しは有頂天になってもおかしくないが、そうはならなかった。

「ふと気づくと、自分の知らない“五大路子”が一人歩きを始めているのです。自分を見失いそうになっていた。“これはまずい。あの人(五大路子)を私に引き戻さなければ”と思いました」

 そこで思い出したのが、高校時代に会った野口三千三さんの言葉。「あなたしかできないことを探しなさい」。そして自分がずっと温めてきた夢を思い起こした。

 五大さんは高校時代から、横浜から発信する演劇をつくりたかった。当時、横浜は東京よりも田舎だと思われていたからだ。文化も芸術も東京に劣るわけではなく、開港当初からの素晴らしい歴史と文化がある。

 そんな夢を共有できそうな人が見つかる。大和田伸也さんである。

『水戸黄門』の最終回に出演、共演者である大和田伸也さんとの縁を結ぶことに

 '79年、テレビ時代劇『水戸黄門』(TBS系)第九部の最終回に出演の仕事が舞い込んだ。大和田さんは黄門さまに仕える格さん役。テレビ時代劇は初めてでわからないことばかりの五大さんに親切に教えてくれたのが大和田さんだった。話してみると、「僕には劇団をつくる夢があるんだ」と言う。私と同じ夢! もしかしたら夢を一緒に追えるかもしれないと思い、'80年に結婚した。

 ただ、夫婦で劇団に関わるのは難しかった。長男の悠太さんを出産して6年後の'88年、『劇団1+1』を結成し旗揚げ公演『ハムレットを撃て』を企画した。出演は大和田獏さん・岡江久美子さんと五大さん夫婦、あとはオーディションで選んだメンバー。

 好評だったが、五大さんはもう無理だと思った。

「私は女優である一方で、料理や育児もしなければならない。仕事と家庭との両立は無理でしたね。頻繁に衝突もして、このままでは家庭は崩壊すると思いました。だから互いの夢は別に見ようと」

 その後はテレビの仕事が増え、NHK大河ドラマ『春の波涛』『独眼竜政宗』『春日局』、NHKの『クイズ面白ゼミナール』にも出演し、舞台の仕事も続けていた。

原因不明の膝痛で降板

 忙しい毎日を送る中、帝国劇場の公演前、身体に異変が起きる。'89年のことだ。

 舞台稽古中、右膝に激痛が走ったのである。整形外科を受診しても原因がわからず、やがて膝が曲がらなくなってしまった。舞台、テレビのレギュラー番組、そしてCMも降板を余儀なくされた。

 芸能リポーターに追いかけられ家にいることができなくなり、ある寺院の離れに避難した。お寺を仲介してくれたのは高校時代の恩師、児玉信広先生だった。境内に植わる野草を見ながら恩師はこう言った。

「野山に咲いている目立たない草は、百合のような派手さこそないが、懸命に己の命を咲かせている。君もこんなことでへこたれるな」

 降板後、自分が出ていた番組を見たときのことを思い出した。自分がいなくても番組は問題なく放送されていた。降板した舞台も代役が手配され無事、幕が開いた。迷惑をかけて申し訳ない気持ちはあったが、こうも思った。

「自分にしかできない仕事をやらなければ。私の命をかけて生み出せる舞台をつくり、演じていくのだ」

 心が整うと、奇跡のように脚が伸びるようになってきた。少しずつリハビリをして歩けるまでになった。

 1年かけて回復し、まず始めたのは、ずっと目標にしていた横浜発の芝居づくりだった。五大さんが選んだのは、横浜生まれの劇作家・長谷川伸による作品、『ある市井の徒』である。

 これは長谷川の半生を描いた自伝的作品。幼いころに母親と生き別れ、小学校は中退。いろいろな仕事を経験しつつ独学して、新聞記者に─。

 五大さんはこれを一人芝居で演じることにした。親友の岡安さんをはじめとする学生時代の友人などに支えられながら、地元のライオンズクラブの招きで演じたときのこと。芝居のあとに一人の男性が駆け寄り、涙を流しながら自分の母親のことを語り始めた。

「その人の涙を目にしたとき、自分の進むべき道が決まったのです。1人での出発が始まりました」

 役者人生の危機を乗り越え、自分の進むべき道が定まった。

 それからほどなくして、大きな出会いが待っていた。「ハマのメリーさん」である。

伝説の娼婦・ハマのメリーさんに導かれて

 '91年5月、横浜開港記念みなと祭が行われ、五大さんは仮装行列の審査委員として出席していた。ふと目をやった先に腰をかがめて立つ高齢の女性がいた。手には大きなキャリーバッグ。顔はまっ白に厚く塗られ、目元は太く黒いアイラインが引かれている。赤い口紅。白いレースのワンピースは低いヒールを履いた足首まであった。

 見ていると、その女性と目が合った。何も言わないが、胸元をつかまれ、こう問われたような気がした。

〈あなた、私の生きてきた今までをどう思うの? 答えてちょうだい〉

 隣の席に座る会社社長に、あの女性は誰かと聞いた。すると、伝説の娼婦メリーさんであることを教えてくれた。

ローザ誕生まで、五大さんは「ハマのメリーさん」について多くの取材を重ねた

 あのいでたち、あの問いかけ。とにかく謎だらけだった。彼女を知りたいと思った五大さんは、メリーさんについて聞き込み取材を始める。

 彼女が現れるという横浜の馬車道商店街、伊勢佐木町あたりを何度も歩いた。「没落した華族の出身」「実は豪邸に住んでいるらしい」……といった噂の類いも聞いた。

 あの特殊なメイクの秘密もわかった。メリーさんが利用する化粧品店が見つかった。羽振りのいいころはマックスファクターを買っていたが、年を重ね、収入が減ると、500円の舞台用化粧品を買わざるを得なくなったのだ。

 横浜の関内、伊勢佐木町周辺は戦後米軍に接収され、進駐軍の兵舎や飛行場があった。近くにはメリーさんたちが立っていた『根岸家』という店もあった。

「メリーさんの取材をしながら街を歩いていると、店名を英語で書いた看板が見えたんです。すると、ふと米兵を相手にしているメリーさんの姿や当時の街並みが立体的に見えてきた。あたかも自分がその時代に生きたように」

 そこで初めて舞台にしようと思った。脚本はNHK大河ドラマや朝ドラなどの実績があり、戦争を体験した杉山義法さんに依頼した。

「杉山先生は、メリーさんを描くのではなく、メリーさんの背後にいる、戦中・戦後を生き抜いた何十万人の女性を“ローザ”という人物を通して描きたいとおっしゃいました。日本の戦後史を重ね合わせるんだと」

 “ローザ”とは、五大さんが名づけた架空の女性の名前。横浜市花のローズをイメージしたのだ。

 舞台化が決まってから、親しい人を通じてメリーさんに会う機会をつくってもらった。了承を得たかったのだ。夜、彼女が寝る場所だという、バーが複数入るビルに行くと、真っ白なワンピース姿のメリーさんがいた。

「五大さんが、あなたのことをお芝居にしたいそうよ」

 と紹介してもらうと、

「ああ、そう」

 と言って手を差し伸べた。

「すっごく小さくて冷たい手でした。でもその冷たさが熱いほどの温もりとなって私の身体を駆けめぐったのです」

 '96年、関内ホールで初めて『横浜ローザ』の公演が開かれた。「赤い靴の娼婦の伝説」というサブタイトルの“娼婦”の2文字を理由に会場決定は難航。だが、支援者の助けで使えることになった。

 芝居は好評で再演が繰り返されることになるが、“戦争を知らない自分が演じていいのか”という疑問は消えなかった。

 その後、疑問が氷解した瞬間があった。同じ時期にメリーさんとともに街娼をしていた女性と話したときである。公演に来てくれたのだ。

「ありがとう」

 そうねぎらいの言葉をかけてくれた70代の彼女に、五大さんは自分がローザを演じていいかを尋ねた。すると……、

「ええ、誰かがあの時代のことを伝えないと。頑張って遺さないといけないと思います。やってください。メリーちゃんも喜ぶと思いますよ」

 そしてこうも言った。「私ら男も女も青春をちょん切られたんだ」

 “青春をちょん切られた”という思いは、青春時代に戦争を経験した世代ならば誰もが抱いているだろう。『横浜ローザ』はそうした人たちの思いを代弁していた。

大歓声に沸いたニューヨーク公演

初演から27年目となる『横浜ローザ』は再演を重ねるたびに印象が変わっていく(撮影/森日出夫)

 吹っ切れた五大さんは、長らく抱いていた夢、アメリカ公演実現に向けて動き出す。

 狙いを定めたのは、ニューヨークにある『ジャパン・ソサエティ』という団体。日本の劇団やアーティストを招待している日米交流団体だ。五大さんはそこに何度も公演企画書を送った。しかし思わしい返事が来ない。

 アメリカに住む五大さんの支援者が、ニューヨークで講演をする機会をつくってくれ、合間にジャパン・ソサエティを訪ねてみた。懸命に説明したが、興味を示してはくれなかった。ただ、手渡した『横浜ローザ』のDVDがのちに効いてくる。

 ジャパン・ソサエティの担当者が来日した際、演出をもう少しわかりやすくしてくれないかと打診される。五大さんたちは、音楽や映像を使った演出を提案し、担当者に見せたところ、OKが出た。

 最後になってセリフの中の“性の防波堤”という言葉を削除できないかと要求がきた。

(娼婦というのは)米軍兵士の相手をして日本の女たちを彼らの欲望から守ってきた人たちです。貴方がたは性の防波堤です」というセリフだ。これは素直に引き下がれない問題だった。検討の結果、台本の中で“性の防波堤”が出てくるセリフの場所を変えてゴーサインが出た。

 2015年4月25日、ニューヨーク公演当日。会場の260席は完売だった。幕が上がる数十分前のこと、五大さんが「少し一人にして」と言って暗い部屋に入った。

「震えが止まらなくなったんです。娼婦になった女の物語が、戦勝国アメリカを責めることにならないか。怒りを買わないか。どんなリアクションがあるか怖かったのです」

 それは杞憂に終わり、2日間の公演は好評だった。特に2日目はスタンディングオベーションとなり、「ブラボー、ブラボー!」の声がこだました。

 翌朝、サプライズが待っていた。辛口で有名な『ニューヨーク・タイムズ』紙の劇評に、『横浜ローザ』のことが掲載されたのだ。3枚の写真入りで。見出しはこう評した。

ニューヨーク公演は成功。辛口批評で知られる『ニューヨーク・タイムズ』も賛辞を送っている

〈居場所をなくした彼女にこの芝居が今、居場所を与えた〉

 五大さんの仕事を身近でサポートする女優・由愛典子さんによると、ニューヨーク公演前後から、五大さんの演じるローザは変わったという。五大さんはこう言った。

「ある舞台に立ったとき、ローザの背後にいる女性たち、戦中・戦後を生きてきた女性たちの思いを感じたんです。私はその思いを取り込んで、セリフに乗せる。セリフはいつもと同じですが、ローザの背後にやってくる女性たちの声は毎回違うし、私も毎年いろいろな経験をしたり情報を得たりしているから、演じるたびにセリフの表情が違ってくるんですね。だから観客の感じ方も違うのです」

 舞台袖で見ていた前出の由愛さんは、「五大さんがローザそのものになった」と直感した。由愛さんが続ける。

「初めは、メリーさんだったらどうしただろうという気持ちが強かったと思います。でもニューヨーク公演の演出を変えるため作品に向き合ったことで、五大さんがローザになったと思います」

地元・横浜で夢を紡ぎ、発信し続ける

撮影/MichelDelsol

 さてニューヨーク公演から帰ってきた五大さんは、ある宿題に取りかかっていた。ニューヨーク公演を見た15歳の少女から、レセプションでこう話しかけられたからだ。

「ローザは私のヒロインになりました。彼女はどんな困難にも負けずに何度も立ち上がって生きようとしたから」

『横浜ローザ』のモデルは娼婦なので、日本では未成年者にはふさわしくないという評価があった。しかし15歳の少女の胸に「生きる力」が届いていたのだ。

「彼女の言葉を聞いて、『横浜ローザ』を子どもたちに見せるにはどうしたらいいのかを考え始めました」

 実は、その土台はすでにできあがっていた。五大さんの『横浜夢座』という劇団だ。

 脚の不調から回復した後、『ある市井の徒』を公演したことはすでに述べた。その体験が土台になって、1999年に結成されたのが自分の劇団、横浜夢座であった。

 第1回公演『横濱行進曲』('99年)、第2回公演『奇跡の歌姫「渡辺はま子」』(2001年)、第3回公演『横浜萬国劇場 KAIHORO!』('02年)……。以降も横浜に関係するテーマの新作を五大さんが企画し、ほぼ1年ごとに公演してきた。

横浜出身の「奇跡の歌姫」、渡辺はま子の生涯も舞台化。歌声で社会を動かし戦犯の救出に奔走した

 その横浜夢座が、子ども向け朗読劇『真昼の夕焼け』をスタートさせたのは'16年のこと。『真昼の夕焼け』は横浜大空襲を題材にした作品で、B29による攻撃の中を、見知らぬ少女の手を引いて逃げる15歳の少年の物語だ。

 五大さんは、小学校や中学校の門を叩いて、「聞いてください」と頼んだという。200~300人の小・中学生を相手に朗読劇を行った。

「集中して聞いてくれて、朗読が終わると“空襲の赤い色が見えた”とか、“一生懸命に生きようと思います”といった感想が聞けました。物語が心の中に入っていることがうかがえる感想でした」

 五大さんはもっと大勢の子どもたちに朗読劇を届けたいと、校長会の集まりに足を運び、5分間スピーチをしてお願いしたこともあった。

仲間の支えもあって横浜夢座結成24年

『横浜夢座』の稽古場で。ここから仲間とともに、五大さんは「横浜発の演劇」という夢を紡ぐ

 横浜夢座を結成して今年で24年になる。決して平坦な道のりではなかったが、いつも助けてくれる人がいた。

 初回の『横濱行進曲』から夢座の作品に出演している俳優・増澤ノゾムさん(56)は、稽古場に行って驚いた。関係者やスタッフに舞台の製作経験者がほとんどいないのである。五大さんが企画、プロデュースなど、一人で何役も担っていた。五大さんが協賛企業を集めるために直接頭を下げて歩いていたのだ。俳優ではかなり珍しい。

 また、五大さんが主役なのに、芝居以外にやることが多いから稽古場にいない。稽古を管理できる人もいない。

「役者は集まるんだけど稽古ができないわけです。さすがにこのままでは幕が上がるのかと心配になってきて、俳優の中では五大さんに掛け合いましょうという話が持ち上がってきたのです」

 これは分裂騒動になっちゃうなと思った矢先だった。

「豚汁作ったわよ、みんな食べて~!」

 と、大きな寸胴を持った五大さんが現れたのである。

 あっけにとられた団員たちも言いたいことはいったんおさめて、食べ始めた。豚汁は思いのほかおいしかった。

「お腹が満たされたら怒りも収まるじゃないですけど、じゃあ稽古しましょうかとなって、結局は丸く収まった。綱渡りではあるけど、どこか微笑ましいみたいな。夢座には、そんな感じのムードがずっと流れていましたね」

 五大さんがやり残したことは、誰かが埋めていく。それをみんな嫌々やっているのではなく、五大さんの夢のために手伝っている。それが夢座という劇団なのだ─。増澤さんはつくづく、「五大さんは不思議な吸引力を持った人だな」と思った。

 その後、組織はかなり整備され、世代交代もした。今、朗読劇なども含めて、横浜夢座を支えているのは30~40代が多い。それがうれしいと五大さんは涙ぐみながら言う。

「この仲間が私にとって最高の宝物なんです。いくら思いがあっても、私一人では実行できません。仲間が支えてくれて初めてできる。目の下にクマをつくって一生懸命やってくれる……。この人たちに託せば、私がこの世からいなくなっても夢は続くから」

 今年も『横浜ローザ』の季節がやってきた。

 再演だけれども、五大さんは1か月前から稽古を続ける。自分でもいつまで続けるのかと思うときがある。

「私はこの芝居をやり続けなければと思ったことは1度もありません。戦争のことを伝えなければ、とも思っていない。ローザが私に“やるのよ”って言いに来るんです。つまり、“ローザの命が私の身体を借りに来る”。それがあるうちは続けます」

 ウクライナ戦争が始まって2年になる。五大さんは昨年、『横浜ローザ』の公演中に集めた募金や千羽鶴を携えて、ウクライナ大使館を訪れた。

「自分にできることを、今自分がいる場所でやっていこうと思います。その思いを『横浜ローザ』の中で紡いでいくつもりです」

 今年もまた、間もなく5日間の幕が開く。

五大路子さんによる一人芝居『横浜ローザ』は5/19(金)~23(火)に、横浜赤レンガ倉庫ホールで上演。各上演後には五大さんとゲストによるアフタートークも。横浜夢座の詳細はこちら

<取材・文/西所正道>

にしどころ・まさみち ノンフィクションライター。雑誌記者を経て現職。人物取材が好きで、著書に『東京五輪の残像』(中公文庫)、『絵描き 中島潔 地獄絵一〇〇〇日』(エイチアンドアイ)などがある。