「もう何が来てもたじろがないかな。やっと地に足が着いたという実感があるので」
と、笑顔で取材を終えた麻倉未稀さんは、その夜、自身のブログにこう記した。
《前に進むための必然のインタビューだったのかと》
麻倉未稀さんが自分の“命”と向き合ったきっかけ
4月6日のことだ。ちょうど6年前のこの日、麻倉さんは生まれて初めて自分の“命”と向き合った。
「乳がんの疑いがあります」
出演したテレビ番組の健康診断で、クリニックの医師から告げられる。大学病院で精密検査を受けると、左胸上部に腫瘍が2つ見つかった。
「良性の可能性は……」麻倉さんが半信半疑の思いを口にすると、医師は診断画像を見ながら冷静に言った。
「生検をしてみないとわかりませんが、これだけハッキリ写っていると、ないですね」
生検の結果が出たのは翌週。疑いは逃れられない“現実”になった。がんの進行はステージ2ながら厄介なケース。麻倉さんとは3歳違いの姉・高橋美和子さんは述べる。
「性質の異なる2つの腫瘍がひょうたんのようにつながっていて、普通ならリンパに転移していてもおかしくない状態だったんです。でも、小さいころから頑張り屋さんの妹は、私の前では元気な様子しか見せませんでした」
周囲には明るく振る舞いながら、実は心の中で「死」をイメージしていたと麻倉さんは言う。理由があった。デビュー直後から自身の育ての親でもあったプロデューサーが前年にがんで亡くなったばかりだった。父の徳治さんも、過去に大動脈瘤の難手術を受け、集中治療室で病と闘った。
「人は自分の意思とは関係なく死に向かうんだなと、考えないわけにはいかなくて。私にとってがんになったことは、頭で理解していた“生きる”ことの意味を、魂で理解した究極の体験でした」
病気のなか、頭を過った歌
ゆっくり考えている余裕はなかった。番組の企画で見つかった病気である。公表すれば取材も続行される。事実を伏せ、治療に専念する選択肢もあった。が、“あの歌”が麻倉さんの頭を過った。
『ヒーロー HOLDINGOUT FOR A HERO』
落ちこぼれラグビー部が全国優勝を果たす学園ドラマ『スクール☆ウォーズ』('84年)の主題歌にもなった、自身を代表する大ヒット曲─。
「『ヒーロー』を聴いて“励まされた”“勇気をもらった”と言ってくれる人がたくさんいらっしゃるんです。その曲を歌う私が、病気になった途端に黙って休業してしまうのはおかしいんじゃないかなって思ったんですよね」
決断に時間はかからなかった。都内の病院から神奈川県藤沢市の自宅への帰途、東海道線の車中で「がんを公表する」と決めた。
とはいえ、すぐに気持ちまで前向きになれたわけではなかった。もしも放射線治療を受けるとなれば、都内まで毎日通うのは体力的に難しい。医師は、自宅からタクシーで15分以内で行ける病院での治療をすすめた。
奔走したのは、モデルの仕事をしている姉だった。
「私の後輩に乳がんになった経験を本に書いた人がいて、ピンクリボンの活動にも参加していたので、相談したんです」(美和子さん)
姉の後輩が紹介してくれた湘南の病院の女性医師が麻倉さんの主治医になる。しかし、安堵と同時に襲ってきたのは恐怖だった。
「乳がんはタイプがわからなければ治療に移れなくて、わかるまでに3週間くらいかかったんです。その間は何もできず、もしかしたら歌えなくなるんじゃないかと……。その不安が頭から離れなくて、“神様、私から歌を取らないでください”って、毎日お風呂で泣いていました」
それは“頑張り屋”の麻倉さんの素顔だった。人に弱みを見せず、誰にも甘えず、陰でもがき苦しみながら、求められている“歌手・麻倉未稀”であろうとしてきた。そんな直向きだけれども不器用な生き方を、図らずも大病の重圧が揺さぶった。
がんサバイバーとして伝えたい自らの体験
麻倉さんは'07年、47歳のときに再婚している。子どもはいない。心臓に疾患を抱える夫の前では、心配をかけまいと一度も涙を見せたことがなかったという。だが、「歌えなくなるかもしれない」という怯えと焦りに“頑張り”も限界に達する。
「“一回、泣いていい?”って言ってから、夫の前で大泣きしました。ここで自分の弱いところを見せておかなかったら、もう見せるタイミングはないと思ったんです。夫も困った顔をしていましたけれども、泣いたらスッキリして“私は大丈夫!”って(笑)」
がんの告知から2か月後の'17年6月22日。麻倉さんは左乳房全摘出および乳房再建手術を受けた。そして3週間後の7月14日、ギリギリのコンディションで歌った。
復帰のステージは庄野真代さんとのジョイントライブ。先輩シンガーである庄野さんは、その日の麻倉さんにこんな印象を抱いた。
「未稀さん、輝いていました。以前に比べて、特別に何かが違うというわけじゃないんですよ。ただ、命と向き合った経験というのが、こんなにも人を輝かせるんだなと思いました。いまの彼女を見ていると、30代、40代のころにはいなかった別の人が、麻倉未稀の中から現れてきたっていう感じがします」
いまの麻倉さんは歌手であるとともに、がん教育の啓発活動の実践者でもある。活動のパートナーは藤沢市出身で元プリンセス プリンセスのドラマーだった富田京子さん。
「未稀さんはミュージシャンとして先輩ですし、10代のころに『スクール☆ウォーズ』を見ていた私からすれば、次元が違うスターでした」と話す富田さんは、ピンクリボンアドバイザーの資格を持ち、市の保健医療センターの活動にも携わっていた。
「ピンクリボン月間でトークショーに出演したとき、観客席を見たら、“おお、麻倉未稀がいる!”ってビックリして(笑)。未稀さんが乳がんに罹患したことは知っていたので、“よかったらステージに上がってきてくれませんか?”と声をかけたんです」
それが'17年10月のこと。富田さんのトークショーの相手は、麻倉さんの主治医だった。手術をしてくれた先生の話を聞こうと会場に来ていた麻倉さんは、呼びかけに応じて登壇し、がんサバイバーとして自身の体験を語った。
「それからしばらくして未稀さんから連絡があり、“一緒に何かやらない?”と誘われたんです。藤沢市の乳がん検診率を上げたいという具体的な目標も聞かされて、それなら私も力になれるかなと思ったんです」(富田さん)
NPO法人『あいおぷらす』を設立
'18年春、麻倉さんは富田さんとともに『ピンクリボンふじさわ』を立ち上げ、'20年7月にはNPO法人『あいおぷらす』を設立した。
麻倉さんには地元の乳がん検診率向上の他にも目標があった。不安で押しつぶされそうになっていた手術前に訪れ、自身の精神面を支えてくれたのが豊洲にある『マギーズ東京』だった。がん患者や家族を受け入れるイギリス発祥の支援施設。病院でも家でもなく、お茶を飲んで過ごすだけでもいい安らぎの空間。
そんな場所を地元にもつくりたいという願いから生まれた『あいおぷらすの家・いっぽいっぽ』の計画がいよいよ動き出し、今年3月30日にはキックオフ・イベントとなるチャリティーコンサートが藤沢市民会館で開催された。
「健康な人も含めてがんを学べる機会が必要だと感じています。でも、いきなり“がんとは─”では敷居が高い。きっかけは楽しいことが大事。だから歌なんです」
自分の歌が、がん教育への関心を高める入り口になれたらいいと麻倉さんは話す。そして、こうも言う。「6年前と同じ歌い方はできない」
おそらく、いまの麻倉さんの歌を聴いた人なら、かつての麻倉未稀とは違うことに気づくだろう。その上で、姉の美和子さんと同じ印象を抱くに違いない─。
「私も驚いているんです。彼女、どんどん歌がうまくなっていますよね」(美和子さん)
母からの大反対を押し切って歌手デビュー
麻倉さんが自分を表現することの面白さを初めて知ったとき、そこに歌があった。
「小学生のころ、“私、人とは違うんだな”と、ふと気づいて、協調しないと生きていけないんだと思い、一生懸命みんなに合わせていたんですけれども、そのバランスが中学生になって崩れてきて……」
不登校になりかけたこともあった。それでも仲のいい同級生はいた。歌のうまい友達に誘われるまま、一緒にオーディションに参加した。
「歌手になりたいだなんて全然考えていなくて、帰りにみんなであんみつを食べるのが楽しみで、後にくっついていっただけなんです(笑)」その気はないのに、合格。これに母の惇子さんは大反対。住んでいたのは大阪。母も祖母も大の宝塚ファン。
「宝塚でいいじゃないの」
「受かりっこない!」
幼いころから姉と一緒にピアノは習っていたが、歌も踊りもレッスンを受けたことはない。だが、オーディションで歌った体験は、自分らしさを表に出すことの解放感と充足感とを知ることになった。
行動力はある。
「内緒で歌謡学院の試験を受けたら、受かっちゃって」
もちろん母は反対。「断りに行きます」と学院に連れて行かれたものの、学院側の強いすすめもあってしばらく通うことに。その間に麻倉さんはレコード会社のスカウトの目に留まり、歌手としてデビュー寸前までいった。
「アイドルっぽい曲で、レコーディングもしたんですけれども、私が声変わりしてデビューは見送られたんです」
声質が変わっても、才能への評価は変わらなかった。東京でレッスンを受けながらデビューの機会を待ってはどうか? 用意された道に従い、麻倉さんは東京の高校への進学を自分一人で決めた。
占い師の助言で精神科に
「母はビックリして、誰に相談していいのかわからなかったんでしょうね。10人くらいの占い師に見てもらったら、10人が10人、“この子は両親の元を離れて生きる”と言ったらしく、それでますます心配した母は、私を精神科に連れて行ったんです(笑)」
1、2か月クリニックに通うと、医師は母に告げた。
「お子さんは、お母さまが思っているよりもずっとしっかりしています。親元を離れても大丈夫ですよ」医師の“お墨付き”に母も説得を諦め、娘を応援した。上京した麻倉さんは芸能プロダクションの練習生として歌のレッスンに励む。が、オーディションは軒並み不合格。
'70年代後半のアイドル全盛時代。麻倉さんの歌やルックスはアイドル路線から外れていた。麻倉さん自身も、歌いたかったのは大人の歌。
高校を卒業してもデビューは決まらず。進むべき道が見えなくなりかけたとき、姉が声をかけた。
「モデルをやってみる?」
当時、美和子さんは雑誌『ミセス』の専属モデルを務めていた。姉のすすめで雑誌『装苑』のモデルに応募すると、採用が決まる。そして、ファッション業界に身を置いたことでデビューのチャンスをつかむ。オンワードのCMソングがレコード化されることになり、麻倉さんもオーディションを受けた。
「とても素敵な曲で“これは逃したくない!”と思いました。でも、サビの部分が英語なんですよ。英語は不得意だし、どうしようかと……」
ここでも行動力を発揮。
「事務所が入っていたマンションに外国の人がたくさん住んでいたので、建物の入り口で待ち構えて“英語を教えてください!”って、発音や意味を教えてもらいました」
'81年8月、麻倉さんは21歳で歌手デビュー。英語のサビも完璧に歌った『ミスティ・トワイライト』のジャケット写真にアイドルの雰囲気はない。キャッチフレーズは“都会派美人シンガー”。11月に発売されたファーストアルバムのタイトルも『SEXY ELEGANCE』と、“歌手・麻倉未稀”はカッコいい大人の女性のイメージで歌謡界に登場した。
「ちょっと自分の性格とは違うなと思い、都会派ってどういうことだろうと思ったら、“あんまりしゃべらないように”と言われたので、いつも口にチャックしてました」
歌手・麻倉未稀のブレイク
歌手・麻倉未稀は、2年後にブレイク。映画『フラッシュダンス』の挿入曲をカバーした6枚目のシングル『ホワット・ア・フィーリング』が、ドラマ『スチュワーデス物語』の主題歌になり、大ヒット。
「この歌は、一度はお断りしたんです。難しいし、アイリーン・キャラさんのようにはとても歌えない。でも、“キミに向いている”とみんなが言ってくれるから、“向いている”という意味が知りたくて挑戦したんです。で、わかったのは、カバー曲は原曲以上に歌うのが狙いじゃない、原曲の魅力を広げられるのが面白さなんですよね」
歌うことの他にも挑戦はあった。麻倉さんは、この曲の日本語訳詞も手がけた。
そして'84年に『ヒーロー』が爆発的にヒット。
「すでに売野雅勇さんの日本語訳詞ができていて、なんでこんなにスラスラ歌えるように書けるんだろうって、あらためてプロの作詞家ってすごいなと思いました。ただ、原曲の歌詞は“I need~”で、日本語訳詞は“You need~”なんです。“I”と“You”とではちょっと違う感情になってくるので、そこを自分の中でどう理解したらいいのか? よくよく考えて、胸に抱いているものは“あなたも私も一緒なのよ”というところに思いが至ったら、歌うたびに歌詞の意味が深く刺さってきました」
翌'85年にはボン・ジョヴィの『RUNAWAY』をカバーし、ドラマの主題歌にもなった。全国ツアーも順風満帆。都会派美人シンガーは押しも押されもせぬ“洋楽カバーの女王”となり、'80年代のミュージックシーンをスタイリッシュに駆け抜けた。
しかし、麻倉さんはこう振り返る。
「いい時期がずっと続くとは思わなかった。ヒット曲は出たけれども、なんか宙に浮いているような気持ちでした」
自分を見失い地に足が着いていないことを痛感
'93年5月。驚いたファンも多かったに違いない。32歳の麻倉さんは、大御所・大竹省二さんが撮影した写真集『Si麻倉未稀』でヌードを披露した。
「写真集のオファーがたくさんあって、断るのにくたくたになっていたら、以前から家族みたいに懇意にしてくださっていた大竹先生から“やるか?”と言われて。大竹先生に撮ってもらえば、もうオファーは来なくなるだろうと思って、お願いしたんです」
“見失った私”を探す旅─それが写真集のコンセプト。ポルトガルを舞台に活写された作品には、当時の麻倉さんの気持ちが投影されていた。'95年7月には映画『卍舞2』で武田久美子さん、三原じゅん子さんと共演。時代劇で夫に尽くして耐え忍ぶ妻という役どころ。峰岸徹さんとの濡れ場もあった。
《落ち目になって脱いだ》
そんな見方をする人たちもいた。邪揄する声は麻倉さんの耳にも届いた。
「映画に出た理由は私のイメージとは真反対の役だったからで、いろんな見方をする人がいるだろうなとは思っていました。私の30代、40代ってすごく中途半端で、“なんとかしたい”と思っていながら、“自分を生きている”という感覚が希薄だったんです。デビューしてからずっとつくってきた自分がいて、30代の終わりごろに“もっと本音で生きたら?”って、私を育ててくれたプロデューサーからアドバイスされたんですけれども、自分の本音がどこにあるのかわからなかった。目の前に大きな川があって、ボートに乗れば簡単に渡れるのに、そのボートにたどり着けないというか……」
結婚に離婚も《落ち目》の苛評を一蹴
結婚、そして離婚も経験した。ボートにはたどり着けなかった。一方で歌手・麻倉未稀は走り続けた。初主演した『麗しのサブリナ三姉妹物語』('95~'98年)をはじめ、『くるみ割り人形』('01、'02年)、『アニー』('09年)等々、ミュージカル女優としても活躍し、《落ち目》の苛評を一蹴した。
それでもまだ、本音は霧の中だった。先輩シンガーの庄野さんは言う。
「私、未稀さんの言動を見ていて、すごく勉強になったんですよ。共演者やスタッフへのあいさつもきちんとするし、お仕事が終わればお礼状を書いたりするし。ただね、それだけ気遣いができるから、筋の通らないことは見過ごせないような厳しさもあった。自分が生きている世界のしきたりや、見えないルールを全部守ろうとしてきたから、そのころの未稀さんの人生には自分というものを出す“隙間”がなかったんじゃないかな」
庄野さんは40代で事故による顔面陥没骨折の重傷を負い、子宮筋腫にも罹患した。病院のベッドで「人の命には限りがある」と思い、「いままでにやっていないこと」をノートに書き出し、健康を取り戻してから大学進学や留学、音楽を通じた国際支援活動、さらにはマラソンなど、夢を一つひとつ実現してきた。
「未稀さんと私、共通点がいっぱいあるんですよ。大阪出身、B型、動物占いが黒ヒョウ、私も都会派美人シンガーと呼ばれたことがあったし、バツイチ同士だし(笑)」
命と向き合い、庄野さんは自分の夢に向かって歩き出した。麻倉さんもまた、乳がんの経験から“本音”にたどり着き、自分が心からやりたいと思える道へと歩み始めた。
苦難を乗り越えて見つけた自分らしい“自分”
手術で歌えなくなる可能性もあった。通常の麻酔のかけ方では喉が傷つくこともあるからだが、麻倉さんの手術は主治医と麻酔医の協力で声帯に極力ダメージを残さない術式が施された。
「3日で歌えるようになる」
主治医の言葉に励まされ、麻倉さんは3日目から少しずつベッドの上で声を出し始めた。富田さんは言う。
「声が出るかな、痛くないかなって思いながら未稀さんは病室で『アメイジング・グレイス』を歌っていたそうです」
賛美歌でもある『アメイジング・グレイス』の邦題は『我をも救いし』。願いと祈りを込めた麻倉さんの小さな歌声は、廊下を歩く看護師の耳にも届いたという。歌いながら、麻倉さんは3週間後の庄野さんとのライブを思った。
「そのライブはがん告知の前から決まっていたんです。だから真代さんにわがままを言って、その日を復帰のステージにさせてもらったんです」
復帰後の麻倉さんを、たくさんの仲間たちが支えた。ステージに立つたびに、庄野さんや澤田知可子さん、石井明美さんが駆けつけた。
「頼まれもしないのに、押しかけコーラス隊をやりましたよ。その後で未稀さんとの共通点がまた1つ、増えちゃいましたけどね」(庄野さん)
'21年、庄野さんは血液のがんである悪性リンパ腫に罹患した。
「未稀さんから特別な励ましはありませんでした。彼女も経験者だからわかっているんですよ、自分にできることは、自分も頑張っている姿を見せることなんだって」(庄野さん)
麻倉さんは普段どおりの態度で庄野さんに声をかけた。その裏で、庄野さんを支える人たちには親身で適切なアドバイスを送っていた。庄野さんの所属事務所の代表である澤井康明さんは言う。
「まわりの人たちが元気を出さなきゃいけない、しっかり、でも無理せず、支えてくださいと、麻倉さんは僕やスタッフに何度も励ましの声をかけてくれました」
“自分らしさ”が活きたがん教育の啓発活動
麻倉さんの人一倍の気遣いは変わっていない。頑張り屋の性格も、行動力もそのまま。“自分らしさ”は、取り組んでいるがん教育の啓発活動にも大きなプラスになった。'22年6月29日には日本専門医機構の理事に就任し、専門医制度の拡充にも努めている。『あいおぷらす』の活動もコロナ禍でのリモートを使った情報発信の取り組みが評価され、9月13日に税制上の優遇措置が受けられる「特例認定NPO法人」となった。
そして迎えた今年3月30日のコンサート。前回、'18年9月の『ピンクリボンふじさわ』のキックオフイベントは市民会館の小ホールに約300人の観客が集まった。今回は大ホール、会場は1000人を超える観客で埋まった。
ステージには活動を支援するアーティストたちが駆けつけた。つるの剛士さん、木山裕策さん、TUBEのベーシスト・角野秀行さん、もちろん富田さんの姿も。歌とトークで繰り広げられるコンサートの中盤では、デビュー40周年でリリースした新曲、庄野真代さんが作曲を担当した『The breath of life』も披露。さりげなく、あたたかく、相手に寄り添うような新曲は、「いまの自分だからこそ歌える」と麻倉さんは話す。
「乳房再建でインプラントを入れたので肺活量は少なくなったんです。ブレスする場所も前とは違うんですけれども、むしろ肺や肋骨に負担をかけずに腹式呼吸ができるようになった。病気をしていなかったら、いまの歌い方はできないかもしれません」
歌い方に変化をもたらすきっかけは他にもあった。'22年3月に比叡山延暦寺で聞いた仏教声楽の「声明」に麻倉さんは衝撃を受けた。
「声明は“祈り”だと説明されました。お坊さんの声が天女のように聞こえて、部屋の中が声に包まれた感じがしたんです。倍音といって、例えば“ド”というひとつの音の中にも上と下があって、倍音が出せると声の膨らみ方や伝わり方がまったく違ってくるんですね。声明は倍音で唱えられていて、これを習いたいと思って5月に一人で延暦寺を訪ねたら“3年かかる”と言われ、いまも修行の身です(笑)」
ステージのクライマックス。麻倉さんが『ヒーロー』を歌うと会場のノリは最高潮に。
「未稀さんの『ヒーロー』の後は、完全燃焼して草木も生えないっていつも言っているんです。でも、この日は違いましたね」(富田さん)
『ヒーロー』が終わり、出演者もスタッフも観客にあいさつをして退場すると、麻倉さんだけがステージに残った。
「私一人、取り残されたのは意味があります。もう一曲、歌います」
観客へのサプライズ。静まり返る中で麻倉さんがアカペラで歌い始めたのは、『アメイジング・グレイス』だった。
やさしく、晴れやかに、朗々と、感謝と祈りの言葉が会場を包み込む。2コーラス目に入ると、マイクを持つ麻倉さんの右手が少しずつ口元から離れていった。両手を横に広げたまま、歌は続く。マイクを通さない麻倉さんの生の歌声が、大ホールの最後列にまで美しく響き渡る。圧倒的な声量。圧巻の歌唱。
麻倉さんが歌い終えると、「ブラボー!」という歓声があちこちで上がった。草木も生えない会場全体に、色とりどりの花が咲き誇るかのように、この日一番の大きな拍手は鳴りやまなかった。
「ありがとうございました!」
輝く笑顔で麻倉さんは観客に応える。しっかりと地に足を着け、歌手・麻倉未稀は“自分”を表現していた─。
<取材・文/伴田 薫>
はんだ・かおる ノンフィクションライター。人物、プロジェクトを中心に取材・執筆。『炎を見ろ 赤き城の伝説』が中3国語教科書(光村図書・平成18~23年度)に掲載。著書に『下町ボブスレー 世界へ、終わりなき挑戦』(NHK出版)。