“片づけ・収納”のノウハウを世に広めたのは、この人が最初かもしれない。'90年代にメディアに登場。カラーボックスや突っ張り棒、ティッシュの箱など身近な道具を使って、すっきりと物を収める近藤典子さんによる収納術は、誰もが実践しやすく、ブームを呼んだ。
住まい方アドバイザー近藤典子さんの現在
その後、近藤さんは、家の中の収納システムや、住みやすい家づくりにも関わり、“住まい方アドバイザー”として活躍の場を広げている。
現在の近藤さんの活動を追って、住宅設備メーカーLIXILのショールームを訪ねた。
フロアの一角に、「LIXIL×近藤典子」と銘打った収納システムのコーナーがある。これまで35年以上の片づけに携わり、物や収納空間などの寸法を測り続けてきた経験値から生み出された商品だ。開発の経緯を、近藤さんはこう振り返る。
「あるとき気づいたんです。そもそも押し入れやクローゼットなど造りつけの収納スペース自体が、現代の暮らしや物のサイズに合っていない。ならば……と、閃いたんです。使いやすく、片づけやすい収納ユニットを作って、押し入れ・クローゼットに丸ごと設置すればいいのではないかと」
近藤さん開発の収納ユニットは洋服をかけるパイプの位置や数、棚板の高さや奥行きを簡単に変えられるのが特長。そのため、入れる物や、使う人が変わっても、それに応じて収納の形を変えられる。
近藤さんが特にこだわったのが「35cmの法則」に基づく高さだ。
「引き出しケース、12個入りのトイレットペーパー、雑誌・書類など、よく使う生活用品は35cmの高さに収まるということに、私、気づいたんです。洋服も、トップスは35cm×3、コートは35cm×4の高さに収まる。つまりほとんどのものは35cmの倍数で収納できる。それで35cm刻みで棚板やパイプを設置できるようにしたのです。そうするとデッドスペースをつくらず、空間を効率よく活用できます」
もうひとつのこだわりが、長く使える商品である、ということ。
「パネルなので、外してほかの場所に設置することも可能です。ただ、使い回しがきいて、何十年も使える商品って、製造販売するメーカーさん側にとっては、儲かる商品とは言い難い。消費者が頻繁に買い替えてくれたほうが儲かりますから。でも、LIXILさんが私の思いを理解し、賛同してくださったときは、うれしくて泣きそうになりました」
一緒に商品開発に携わったLIXILインテリア事業部の藤澤玲子さんは、こう証言する。
「私はもともと近藤先生が主宰する『住まい方アドバイザー養成講座』の受講生だったんです。使う人に寄り添い、暮らしに合った収納を、という先生の考えに共感し、商品化に至りました。先生は徹底して、購入者、つまり使う人の身になって考える。私たちもその意識は当然あるものの、やはりある程度は量産でき、利益も出さなければならない。双方の折り合いをつけるのに時間がかかりましたが、そのぶん納得できるものができあがりました。先生はいつも前向きで、会うたび元気をもらっています」
お客様に喜んでもらいたい。
その心意気は、「そもそも大阪の商人の娘ですから、自然に身についたのかもしれませんね」と近藤さんは笑う。
スポ根ドラマのような青春時代
乾物屋を営む両親のもと、近藤さんは三姉妹の末っ子として昭和32年に生まれた。
「近所の子を集めて、リレーのチームを作って外を走り回ったり。元気が取り柄のワンパク娘でしたね」
運動が得意で、かけっこはいつも一等賞だった。
「美術学校に進学した姉の影響を受け、絵を描くのも大好きでした。自分では芸術家に向いていると勘違いして(笑)、中学のクラブは美術部を選びました」
ところが、ある日、陸上部員の友達に、「市の競技会に出場するメンバーが足りないから、典子、出てよ」と助っ人を頼まれる。
「ほかの選手は陸上部のユニフォームを着ているのに、私だけ学校の体操着。飛び入りで走り幅跳びに出場したら、いきなり優勝しちゃったんです」
漫画のような痛快エピソードだ。正式に陸上部に入り、芸術家からアスリートに路線変更する。
「大会で好成績を挙げると、学校の朝礼で表彰されるんです。おだてられると木にも山にも登るタイプ(笑)。陸上に打ち込みました」
高校はスポーツエリートが集まる浪商高校(現・大阪体育大学浪商高等学校)の体育科に特別推薦で入学。
「50人のクラスに女子は10人だけ。モテる? ハハハ……。運動漬けの毎日だから日焼けで顔は真っ黒。色気より食い気で、お小遣いは全部、パンやお弁当など胃に入る物に使っていました。大きな声でしゃべりまくるし。私たち女子が歩いていると、怖がって男子は逃げていきました(笑)」
膝を痛めたため、高校ではバスケットボール部に所属。卒業後は、系列の体育大学に進み、体育教師になるつもりだったが、膝の治療でお世話になった治療師の仕事に興味を持つ。
「将来、何になるか?と考えても、運動少女にはわからないんです。多忙な両親は、いい意味で放任主義。“典子の好きなように”と、アドバイスもない。だから深い考えがあったわけではなく、スポーツ関係の仕事だし、治療して喜んでもらえたらいいな、という気持ちで、当時はまだ数少なかった理学療法士を養成する国立のリハビリテーションの学校を受験しました」
が、不合格……。
「高校時代は、勉強するヒマがあるなら、10キロ走れ!と言われるような環境でしたから(笑)、勉強の仕方も知らない。そんなんで国立の学校に受かるわけないですよね」
不運にも実家が家事に
さらに不運が重なる。実家の乾物屋が火事に遭ったのだ。
「浪人するつもりだったんですが、親に負担をかけたくなかったので、昼間は呉服屋さんで働き、夜学の予備校に通いました。なぜ呉服屋を選んだかというと、成人式の着物を自分で買いたかったから」
たった1年間だが、ここでの経験は一生ものだと言う。「呉服屋のおばあちゃまが私を可愛がってくれて、着物や帯の畳み方から小物の扱い方、日本の習わしに至るまで教えてくださったんです。これは後の引っ越しサービス業ですごく役立ちました。まだ若かった私が、きちんと着物を扱うのを見て、ご年配のお客様は褒めてくださり、信頼を得ることにつながりました」
一方、リハビリテーション学校の受験は、またも不合格。「理学療法士は私にはハードルが高すぎたのでしょう。高校の担任の先生が、“柔道整復師(骨接ぎ)はどうだ? 国家資格があり、開業もできるぞ”と提案してくれたのです。それで昼間は骨接ぎ見習いをして、夜、柔道整復師専門学校に通って、無事、資格を取ることができました」
挫折して方向転換しながらも、明るく前向きに道を切り開いていった若き日の近藤さん。だが、ひとつだけ叶わなかったことがある。
「子どもを1ダース産んで、野球チームを作りたい!って高校生のとき言っていたくらい、子どもが大好きでね」
25歳のとき結婚。「その3年後に妊娠がわかったときは、主人と一緒に大喜びしました」
勤めていた整形外科病院を退職し、母になる準備を整えていた。ところが─。
「ある時期から、おなかの赤ちゃんがすごく蹴るんです。私に似て元気な子なんだろう、と思っていたら……赤ちゃんの身体に異常があったんです」
死産だった。
「担当医の先生が、私の心が傷つかないように気を使ってくれているのがわかってね、悲しいというより、ありがとうという気持ちでした。しばらくたってからですね、涙が出たのは……」
縁の下の力持ちから“収納ブーム”の主役に
その後、近藤さんは夫が立ち上げた引っ越しサービス業を手伝うことになる。
「まったく未経験の仕事で、ゼロからのスタートです。なのに、社長の妻なので肩書はチーフ。
一緒に現場で作業する女性スタッフは全員年上で、荷造り、荷ほどきといった作業もスタッフのほうが慣れていて早いんです。そんな中で、自分は何をすべきか考えたんです。スタッフがスムーズに動けるように私は下働きをしよう、と。具体的には、集合時間より早く行って家の場所をチェックする、帰りの電車の切符を用意しておく、重い物は私が率先して運ぶ……。チーフと呼ばれながらも部下のような気持ちで動いていました。
これって高校時代のバスケ部で当たり前にやっていたことなんです。試合に出場する先輩のためにタオルや水を用意して、さっと出すとかね」
大切なのは、個人プレーではなく、チームワーク。スポーツを通して学んだことが仕事に活かされ、近藤さんはスタッフから信頼を得ていく。さらにこのころから、既成概念にとらわれない近藤流アイデアが芽を出す。後に大手の引っ越し業者も取り入れた靴下の2枚ばき、段ボール箱で作る引き出しケースが代表例だ。
「引き出しケースはね、紙のキャラメル箱からキャラメルを出したとき閃いたんです。この箱、引き出しになってる! 段ボールで作れるじゃん!って」
こうした仕事ぶりが、雑誌編集者の目に留まった。
「たまたま編集者のお宅の引っ越しを請け負ったことがきっかけで、雑誌で取材を受けたのです。それが読者に評判がよかったようで、その後もオファーが続き、掃除の仕方、食器棚の片づけ方といったテーマで、私のアイデアを紹介」
中でも好評を博したのが、散らかったお宅に行って、近藤さんが片づけをするビフォー・アフター企画。雑誌のみならず、テレビ局からも声がかかる。初めは関西で人気に火がついた。ハイヒール・モモコ、タージン、NON STYLEなど、お笑いタレントとの掛け合いトークも視聴者にウケた。やがて全国ネットの情報番組にレギュラー出演する。
「『ベストタイム』という番組で、つまみ枝豆さんとともに、散らかったお宅に伺って片づけに挑むというコーナーを任されて。今、考えると無謀でした(笑)。
月に4軒、地方局のレギュラーもあり、合わせると月6軒のお宅を片づける。それぞれテーマと、視聴者にオッと思わせるアイデアが必要だし、下見、打ち合わせ、道具の買い出し、準備、撮影……1か月45日ないと間に合わない(笑)」
まさに不眠不休の忙しさ。そのうえ、「近藤典子の」と名を冠した収納術や暮らしのアイデア術の本が次々に発売された。超多忙な中、連日求められるアイデアを、どうやって生み出したのだろうか?
「人間、追い詰められるとなんとかなるもんですわ」と笑ったあと、こう続けた。
「私は発明王ではないので、自分の中からポンポンとアイデアは出てきません。アイデアのもとは、“片づかない”と困っている人の中から引き出すんです。だから私は、そのお宅に住む人に、いろんな角度からヒアリングします。この場所で何をしたいですか? 一番困っていることは何?……と質問を重ね、その人が望んでいることや、暮らしに対する思いを引き出す。
つまり、アイデアの材料は、その家の人が提供してくれて、私はそれをもとに改善策を考えるだけ。10軒10色で、どのお宅もそれぞれ悩みや暮らし方が違う。だから材料は無数にあり、アイデアは尽きないんです」
テレビ番組で共演して以来の親友、フリーアナウンサーの服部恭子さんは、「あんなに仕事に真摯に向き合う人を見たことがない」と近藤さんを評する。「どんなに忙しくても“このへんでいいや”と、いいかげんにすませることが一切ないんです」
真摯な姿勢は、周りに伝播していくのだろう。
「『ベストタイム』でレギュラーをやっていたころは、当時のスタッフも寝ないで頑張ってくれました。カメラマンや音声さんまで電動ドライバーを持ってきて作業に参加し、枝豆さんも夜中まで残って撮影後の掃除も手伝ってくれて。やはりチームワークですよ」
と近藤さん。自身がその中心にいた収納ブームを、今は俯瞰して、こう分析する。
「戦後の物のない時代から高度経済成長期、バブル期ごろまでは、物を持つことがステータスでした。もともと日本には、物を大切にするという美徳があり、捨てる習慣がない。結果、物があふれて片づかない、と、老いも若きも困っちゃったんですね。だから物をしまう収納にスポットが当たったのだと思います。そのあと、片づけやすい収納棚などを自分で作ろうとDIYブームが来て、そもそも物を減らさないと解決しない、とミニマリストブームが起きた。時代時代で変わっていくんですよ」
収納の枠を超え、“住まい”に舵を切る
収納ブームが落ち着きつつあったころ、近藤さんに転機が訪れる。冒頭で語ったように、長年、人さまの家の片づけをするうち、“家”自体の問題点に気づく。
「例えば押し入れは、もともと布団をしまうためのもの。奥行きが深すぎて、工夫しても奥の物は出しづらいんです。洋服は立体裁断だから、伸びる素材以外はつるしたほうがいいのに、クローゼットにはパイプが一本しかないお宅が多い。最初から、その家で暮らす人のことを考えた間取りや収納スペースをつくれば、暮らす人が苦労することないのに、と。私自身が長年、収納術を提案しておきながら、ジレンマを感じたのです」
そこにタイミングよく、住宅メーカーからコラボレーションの話が舞い込む。
「ダイワハウスの営業マンさんから、“収納”をウリにした建売住宅を造りたいから、相談に乗ってほしいと。それで私が、どこにどういう収納スペースをつくるといいかを、提案したのです」
近藤さんが担当したのは、玄関、物置、押し入れ、クローゼット、4か所の収納。建売住宅はすぐに完売した。その好評を受け、収納だけでなく、家のプロデュースにも携わることになる。2007年から“暮らしごこちのいい”家を提案するモデルハウスを全国4か所で展示。当時のプロジェクトリーダー岩本悟さんは、こう回想する。
「それまでのダイワハウスは、耐熱、耐震、遮音性の高さといったハード面が強みでした。そこに“暮らし”というソフト面の強化をしてくださったのが近藤先生です。動線を考えた間取りとか、心地よく感じる空間のサイズとか。また、玄関の脇に小さな手洗い場を設けたり、メイン玄関とは別に家族用の玄関を設けたり。人の暮らし方をきちんと見ている近藤先生ならではの提案は画期的で、住宅展示場は大盛況でした」
そしてこんな思い出話を。
「住宅展示場の撮影をする前日の夜のこと。手洗い場のタイルは“このデザインがいいわ”と近藤先生自ら買ってきて壁に貼り始めたんです。僕らも貼り方を教わって一緒に貼っていました(笑)。どんなことも人任せにせず、自ら手足を動かす。あのパワー、あのオーラにみんな巻き込まれますね」(岩本さん)
近藤さんは韓国でも建築会社とコラボしてモデルルームの開発に携わった。中国の大学からも客員教授として招かれた経験や、翻訳本が住宅業界で高く評価され『全国工商聯家具装飾業商会』より「中国カスタマイズ住宅設計貢献賞」を受賞もした。
「同じアジアでも、家の間取りや生活習慣は少し違います。ただ、“暮らしやすさ”のカタチに大きな違いはないし、快適に暮らしたいという思いは万国共通。その思いや要望を引き出して、私にできることを精いっぱいやる。私の仕事のスタンスはどこの国に行っても変わりません」
姑と同居し介護も。母の言葉を肝に銘じて
仕事に邁進してきた近藤さんだが、家庭ではお姑さんの介護をしていた時期もあった。「私は仕事が忙しくて家にあまりいなかったから、ケアマネジャーさんやヘルパーさん、弟夫婦に助けてもらって。私はそんなに……」
と近藤さんは言うが、親友の服部さんは、
「のりちゃんは、お義母さんのお世話もちゃんとやっていましたよ」と明かす。
「食事は基本的にのりちゃんが用意していたし、自分が仕事で家をあけるときは、お義母さんの分を作り置きして。偉いなって私は思ってました。
そのうえ、いつお邪魔しても家の中がきれいで、お花も飾ってあるの。あんなに多忙なのに、いつ掃除するの?って不思議でした。ある日、のりちゃんがトイレに入ってなかなか出てこなかったんです。実は、ついでにトイレ掃除してたんだって(笑)。何をやっても手早く、ムダがない。料理も上手だしね。主婦としても達人です」
義母は12年前に他界。
「ご主人が言ってましたね、のりちゃんがお義母さんのこと、本当によくみてくれた、って」(服部さん)
近藤さんが介護を頑張れたのは、実母の教えがあったからだと、本人は話す。
「私の結婚後、母が言ったんです。“ええか、あんたのお母さんは私やない。あんたはお嫁にやった子やから、旦那さんのお母さんがあんたのお母さん。親孝行しいや”って」
一人暮らしをしていた義母と同居を始めたのは、結婚後10年ほどたってからだった。
「やはり大変ですよ、お姑さんと暮らすということは。それで私がつい実家の母にグチをこぼすと、母がすかさず言うんです。“あかん! お義母さんの悪口いうのは、天に唾吐くのと一緒や。お母ちゃんに恥かかせんといてや”と」
古い価値観と言えばそれまでだが、気骨ある昭和の母の教えが、達人“近藤典子”をつくったことは間違いない。その母も7年前に他界。
「目に浮かぶのは、母の働いている姿。店を切り盛りして、私ら子どもの世話をして……。休んだり、寝ているところを見たことがない。いつも笑っていて、怒ったことがない。母こそスーパーウーマン。かないません」
片づけ“ビフォー・アフター”を再開した理由
近藤さんは今、自身が培った経験と知識を伝授することに力を注いでいる。建築士や住宅営業など住宅のプロ向けの『住まい方アドバイザー養成講座』を毎年開講。加えて、前述のように企業とのコラボや商品開発などの仕事が増え、個人宅の片づけからはしばらく遠ざかっていた。だが最近、心境の変化があったという。
「ひょんなことから、2軒のお宅に片づけを頼まれたのです。私が片づけに携わるのは15年ぶり。1軒は、ご主人がご病気で、すっきりした部屋で残りの人生を過ごさせたい、と。もう1軒は、親と夫を看取った一人暮らしの女性で、自分が元気なうちに身の回りを整理し、残りの人生を前向きに過ごしたいと。気持ちが理解できる依頼です」
近藤マジックで、すっきり片づいたわが家に、依頼者は最高の笑顔で喜んだという。
「片づいた心地いい空間を手に入れると、人は気持ちがどんどん前向きになっていくんですね。顔つきまで変わります。それを久しぶりに目の当たりにして、私のちょっとしたアドバイスで、こんなに元気になってもらえるのなら、もっと片づけの仕事をやっていきたいと思ったんです」
原点回帰。かつて近藤さんの収納術に飛びついた世代もいまや中高年。終活の一環として物を減らしてすっきりさせたいという要望は多い。
「終わりに向かう“終活”という言葉は私は好きじゃないんです。みなさん、家の中を見回して途方に暮れるのではなく、快適な空間で残りの人生を前向きに過ごしてもらいたいのです」
ただ、近藤さん自ら個人宅の片づけをするのは数が限られる。まして、住む人に寄り添い、暮らしへの思いを引き出して十人十色の解決策を提示する近藤流の片づけ収納は彼女のほかに、これをできる人が少ない。
「なので、今考えているのは、一般の人向けに、自分で片づけられるようになる講座を開くこと。まずは小さなスペースから、何をどうすればよいか、そのノウハウをお伝えして。片づけの力をつければ、人生の最後まで自信を持って日々の暮らしを収めていくことができる!と思うのです。もうひとつは、私と同じように片づけができる“片づけのプロ”を養成する講座。この2つ準備にとりかかってます」
仕事の話になると、がぜん熱がこもる。プライベートで今後やりたいことはありますか?と問うと、「ないんですよ」と即答した。
「仕事が子どもみたいなもんですし。こうして今後の計画を考えているとワクワクします。そもそも私の仕事は日常の暮らしに関わること。こうしたらもっとラクに生活できるのに、もっと家が心地よくなるのに、ということを、みんなに伝えたい、しゃべりたい(笑)。だから仕事だと思っていないんです」
親友の服部さんは、「仕事が趣味、それがのりちゃんと私の共通点」だと言う。
「といって、決してのりちゃんは無趣味な人ではないですよ。おしゃれも好きだし、服もよく買ってた。おいしいものを食べに行くのも大好きだしね。最近の口グセは“やせなあかん”(笑)」
旅行も共通の趣味。2人で熊本に行ったときのエピソードを服部さんはこう話す。
「空港で、出発まで時間があったから2人でのんびりお茶してたの。そしたら、アナウンスで名前を呼ばれて。出発の時間が迫っていたんです。しかも搭乗口が遠い! 大変だ、急がなきゃって荷物持って走ったら、のりちゃんがブワーッて猛スピードで走って、はるか前方にいたんです。昔、陸上選手だったとは聞いてたけど、最近ののりちゃんはデスクワークが多いから私のほうが体力あると思っていたの。いやいや、速い、速い……驚いた」
韋駄天、健在なり! 目的に向かうパワーは、いまだ衰えを知らない。
<取材・文/村瀬素子>
むらせ・もとこ 映画会社、編集プロダクションを経て'95年よりフリーランスライターとして活動。女性誌を中心に、芸能人、アスリート、文化人などの人物インタビューのほか、映画、経済、健康などの分野で取材・執筆。