かつての“学園祭の女王”、杉本彩のオーラは54歳になった今も健在だ。
「あ、杉本彩さんよ」
街角で撮影をしていると通りがかった中年女性たちがすぐに気づいてささやく。撮影後に杉本に伝えると「背が高いから目立つだけですよ」と照れくさそうに笑う。
アイドル全盛期の時代に真っ向から挑んだ杉本彩
1988年に19歳で歌手デビューしたときはノースリーブにショートパンツ姿。6枚目のシングル曲『ゴージャス』ではTバックにボンデージと、セクシーで挑発的な衣装で歌い、男性はもちろん、女性からも「カッコいい」と支持を得た。
当時はアイドル歌手の全盛期。かわいさや清楚さを売りにする風潮に真っ向から挑んだわけだが、その理由を杉本はこう説明する。
「男の人が女性に求めるものが、あまりにも保守的で、幼稚で、納得いかなかった。そんな社会に対して何か物言いたいなと、自分らしいパフォーマンスをとことんやってやろうと思ったんです。ありがたいことに、派手めな女の子たちがずっと追いかけてくれたりとか、女性のファンが結構いましたね」
日本全国の大学から声がかかり、学園祭が重なる時期はチャーターしたセスナで移動するほど。だが、そんな日々はあっけなく終わる。
所属していた大手芸能事務所は売れ線のわかりやすい音楽を求めたのに対して、杉本はもっとアンニュイで独自な世界観をつくりたかった。方向性のずれがどんどん大きくなってしまったのだ。1年間の交渉を経て個人事務所を設立。24歳で独立すると状況は一変する─。
「コマーシャルとかテレビのゴールデンタイムのレギュラー番組とか大きな仕事はできなくなりました。あ、これが独立して干されるってことなんだ。芸能界は政治力で動く世界なんだなーと。悔し涙は何回も流しましたよ。でも、それでダメになるならもういいやと。それぐらいの覚悟で辞めているので」
ファッションとアートの世界観を目指したヘアヌード写真集を上梓したり、官能小説を執筆したり。
風向きが変わったのは、2004年の映画『花と蛇』からだ。主演した杉本は迫真の演技を見せ、女優として高い評価を獲得。新たなオファーが次々舞い込んだ。
他の大手芸能事務所からも誘いが来たが、「ほそぼそとやっていきます」と全部断ったそうだ。杉本は少し低めの落ち着いた声でこう語る。
「本当に要領が悪いというか、正直すぎて損しているのかもしれないとは思いますよ。でも、媚びたり、自分のポリシーに反したことは絶対にしたくないから。本当に奇跡だと思いますよ。ここまで何とか生きてこられたのは(笑)」近年は動物愛護活動にも力を入れている。公益財団法人「動物環境・福祉協会Eva(エヴァ)」
理事長として、悪質なペット業者を顔出しで刑事告発することも。杉本はもともと大の猫好きで、芸能活動にはマイナスになっても、やめるつもりはないときっぱり。芯の強さは筋金入りだ。
穏やかな日常から一転、莫大な借金生活
子どものころから、すでに今の強さの片鱗は見えていたようだ。幼少期は極度の人見知りだったが、9歳でバレエを習い始めてから、人前に立つ抵抗感がなくなったのだという。
「友人が理不尽な目にあうと、隣の教室まで抗議しに行くようなタイプなので、周りの男子は皆、私を怖がっていたかもしれません(笑)。何に対してもあまり動じなくて、小学生のとき肝試しに行って、皆がキャーッと驚いているのに私は冷静に見ていて、可愛げのない女子だなと(笑)」
生まれ育ったのは京都府屈指の花街がある祇園。父は洋服の生地を扱うサラリーマン、母もテーラーで、年子の妹がいる。明治生まれの祖母も同居しており、夏には和裁をしている祖母に浴衣を仕立ててもらったり、杉本はおばあちゃん子だった。
「白玉団子とか手作りおやつを祖母がいつも作ってくれて。料理もきちんとお出汁からとって作るのをずって見てきました。和裁もやっていたし、台所や家のことは全部女性の仕事という感じで育ったので、私のコンサバティブな部分はそういう影響を受けている気がします」
小学校高学年のころ、いとこが家に遊びに来たとき、
「何か、かやくご飯(炊き込みご飯)が食べたくなった」
そう言って突然台所でご飯を作り始めて、いとこに驚かれたことがある。中学に入ると制服姿のまま家族の夕飯を作るのが日課だった。
穏やかな生活が激変したのは、中学3年生のとき。父が知人の借金の保証人になり、その知人が返済しないまま失踪してしまったのだ。
父は脱サラして京都市左京区に店舗兼自宅を建てて家族で転居。母と小料理屋をやっていたのだが、悪徳金融業者に家を差し押さえられてしまう。莫大な借金を抱え、父はよその飲食店に雇ってもらい、母は知り合いのバーで働くようになった。
杉本が何より耐え難かったのは、両親のケンカが絶えなくなったことだ。
「母はすごく気が強くてヒステリックなところがあるので、口だけでなく手も出る。父はおとなしい人なので、ただただ母の怒りを受け止めて、引っかかれて血を見ることもありました。で、母に好きな人ができて、父が家を出て行ったんです。父が自分から出て行ったのか、母が追い出したのかはあいまいですが」
高校受験を間近に控えたある日、杉本は自室で左の手首を切って、自殺を図る─。
「母の愚痴を毎日のように聞かされていたんです。私はいつも冷静で動じないから、何を言っても大丈夫と思ったんでしょうね。でも、メンタルは15歳のキャパシティーしかないから、受け止めきれない。自分の中で鬱積したものがどんどん増幅してきて、消えてしまいたいという衝動に駆られたんでしょうね。『もう無理!』って。遺書を書いた記憶はありますが、本気で死のうと思ったのかはよくわからないんですよ」
幸い一命をとりとめる
幸い一命をとりとめて、一刻も早く家を出て自立しようと心に決めた。
高校には進んだが、1年生の途中で退学した。校長室で「モデルの仕事を本格的にやりたいので」と告げると、まったく反対されなかった。
「15、16歳で働ける仕事って、本当にないんですよ。唯一の選択肢がモデルでした」
母の妹が若いころに京都でモデルをやっていたので伝手があり、すぐに仕事を始められたのだが、最初は苦労した。
「今じゃ考えられないんですけど、そのころの関西のモデルって、例えばヘアショーに出るのに、ドレス、アクセサリー、靴まで全部自分で用意しないといけなくて、稼いだギャラで、ある程度投資しなきゃならない。着物の撮影会だと自分で着付けして髪も整えなきゃいけなくて、大変でしたね」
懸命に働き、アパートを借りて一人暮らしを始めたのは17歳のときだ。
大阪で開催された企業のパーティーに仕事で参加したときのこと。見知らぬ女性に声をかけられた。
「東京に遊びに来ない? 交通費も全部出すから」
スカウトされ上京
相手が女性だったので特に警戒もせずに上京。事務所で何枚も写真を撮られ、そこで初めてスカウトだと気がついた。
「芸能界にはまったく憧れがなかったんですよ。むしろアイドルとか、私には無理、幼稚だわと、上から目線のアンチな感じでした(笑)」
それなのに事務所が無断でキャンペーンモデルの選考に応募。最終選考にも通ったが、杉本は「絶対、嫌だ」と断って話は流れてしまう。
その後、事務所の社長が京都まで来て何度も説得された。「京都に住んで、仕事のあるときだけ東京に行く」という条件を認めてもらい、“杉本彩”が誕生した。
1987年に東レ水着キャンペーンガールとしてデビューすると、日本人離れしたプロポーションで話題を呼ぶ。たちまち人気に火がつき、映画、テレビ、音楽など仕事の幅はどんどん広がっていく。さすがに京都から通うのは難しくなり、20歳のときに東京に転居した。
「肌を露出して、セクシーなパフォーマンスをする。そういう方向性は間違ってないと思いました。それは私の強みだし、バレエをやっていたときも、子どもなのに色気のあるダンスをするって、先生によく言われたんですよね。
でも、求められるパフォーマンスをして頑張れば頑張るほど、本当の自分とどんどん乖離していくんです。ものすごい奔放な遊び人みたいに誤解されて……。求められれば性について話したり解放的な発言はしますが、それは私の一部でしかない。根っこは実はコンサバだし、感受性が強かったので、傷つくことも多かったですね」
バックバンドのメンバーと交際
保守的な人が多い日本社会で、エッジのきいたパフォーマンスをするのはさぞや大変だっただろう。それでも、音楽活動は楽しかったという杉本。常に行動を共にしていたバックバンドのメンバーを好きになり、交際を始めたのは自然な流れだったのかもしれない。
そして、2人で個人事務所を設立。24歳で独立するのと同時に結婚した。
「3年間一緒に暮らして石橋を叩いて渡って、あ、この人だと。会社をやっていくのに、結婚しているほうが合理的だねって(笑)。だから式も何もなしの結婚だったんです」
独立後は大手事務所と競わなくてもいい分野に活路を見いだす。ファッションフォトグラファーと組んでアート性の高いヘアヌード写真集を出すと、よく売れた。
人気バラエティー番組『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』(日本テレビ系)から声がかかったのは独立から約5年後だ。レギュラー陣がさまざまな企画に挑戦するのが売りの番組で、『ウリナリ芸能人社交ダンス部』にバレエの経験がある杉本はピッタリだと、事務所の大小に関係なく純粋にキャスティングされたのだという。当時29歳の杉本はナンチャンこと南原清隆とペアを組んだ。
社交ダンス部が始まって数年後のこと。大会に向けて2人で厳しい練習を積んでいる最中に、杉本は肋骨を骨折してしまう。番組的には十分成立するので無理はしないでと言われたが、大会の会場で麻酔注射を9本打ってもらい踊り切った。
「ただのバラエティー番組じゃなく、ほぼドキュメンタリーなんです。自分でもおかしいんじゃないかと思うんですけど、並々ならぬ根性があるみたいで(笑)。12年間続いた社交ダンス部のメンバーとして多くの大会に出させていただき、たくさんの人が共感してくれて。番組に影響を受けてダンスの先生になった人までいると後から聞いて、テレビの良さを初めて実感しました」
社交ダンスを始めた1年後にアルゼンチンを訪れる旅番組に出演し、現地でタンゴに挑戦した。スポーツ要素の強い社交ダンスより、さらに官能的なアルゼンチンタンゴに魅了された。先生について本格的に習い、芝居とタンゴを融合させた舞台を上演するまでになった。
「踊っているときは無になれるのが、すっごい楽しくて。ちょっと神秘的な言い方をすると、エネルギーが身体に充満していく感じがして、何とも言えず心地いいんです。歌っていたときはそこまで感じたことはないので、やっぱり私は踊りなんだと思いました」
『花と蛇』では縄で縛られ肉が破れそうで
踊りに向ける努力と情熱が結実したともいえるのが、映画『花と蛇』だ。主演の杉本は世界的タンゴダンサーという設定で、妖艶な踊りをたっぷり披露している。
原作は団鬼六のSM小説『花と蛇』で、過去に何度も映画化されているが、杉本はこれまでにない映画にしたいと企画段階から参加。監督に鬼才・石井隆を逆指名した。SMシーンの撮影は「泣きそうになるくらいしんどかった」と振り返る。
「縄で縛られて吊るされるシーンは肉が破れそうな痛みで。肉体の限界を超えてくるんです、平気で(笑)」
あまりの厳しさに横で見ていてハラハラしっぱなしだったと語るのは、長年、杉本のヘアメイクを担当している重久聖子さんだ。
「逆さで水に漬けられるシーンの撮影では、彩さんの意識が飛んだときもあって、本当に死ぬんじゃないかと思いヒヤヒヤしました。もう、ありえないと思って、監督の首を絞めたいくらいだった(笑)。彩さんは責任感が強いし根性も据わっていて、極限まで頑張って何でもやっちゃうから、監督もあれをやれ、これもやれという感じになったんでしょうね。縄をほどくと皮膚が赤ーくなっていて、すごかったですよ」
杉本に聞くと、アザができただけでなく皮膚の感覚もなくなり、撮影後、半年ほどダメージが残ったという。
SMに加えて全裸でのシーンも多い際どい映画だ。ためらいや恥ずかしさはなかったのだろうか。重ねて聞いたが、杉本はあっさり否定する。
「恥ずかしさがあったら、できないですよ。そこはプロ根性というか、自分の身体は表現の道具としか思っていないので、与えられた自分の肉体をフルに活用しない手はないという感じでした」
苦労したかいがあって、映画はヒットし、杉本は女優として再注目される。
「『花と蛇』をやると腹をくくれたのは、やっぱり独立してからの不遇なんです。その悔しさとか反骨精神がなかったら、チャレンジできなかったと思います。出演を決断してから、団先生との交流が始まって、『一期は夢よ、ただ狂え』という言葉を知りました。人生なんてほんの一瞬だから、あれこれ考えず思うがままに生きろ、頑張れ。そんなメッセージなんでしょうね。心に刺さりました」
その言葉で、過酷な撮影を乗り越えられたのだろう。
努力するも亀裂の入ってしまった家族
自分の力で仕事を開拓していく裏で、順調だったはずの結婚生活は徐々に崩れ始めていた。
結婚した翌年に母を引き取ったことが原因だ。父と離婚した後、母は事実婚の恋人と暮らしていたのだが、その人と別れてから重度のうつ病になってしまい、放っておけなかったのだという。
「子どものころには、母がどういう人か見えていなかった部分も大きいですね。例えば、母のまったく悪気なく発した言葉が、夫を傷つけていたり。
その無神経と言わざるを得ない言動に、私は同居を承諾してくれた夫に申し訳ない思いがどんどん大きくなって、言いたいことも言えなくなってしまった。そういうことが夫婦の関係にも影響したように思います」
それでも11年間夫婦を続けた。理由を聞くと、杉本はこんな答えを口にする。
「1回結婚したら離婚という選択肢は、絶対なかったんです。だから、とことんまで我慢することが正しいと本気で思っていました。それに、自分が失敗したことを認めたくなかったのかもしれないですね」
結局、もう無理だと悟って離婚するのだが、決断する前に、杉本は「夫婦2人でやり直してみたい」と母に別居を申し出た。すると母は「親を捨てるのか!」と激怒。反対したが、今度は妹夫婦と同居することになり、杉本は母に仕送りを続けた。
数年後に、さらなる家族トラブルが起こった。発端は杉本が立ち上げた化粧品ブランドに、妹夫婦を役員として迎え入れたことだ。しばらくすると、杉本と運営方針で対立。妹夫婦にとって自分は面倒な存在なのだろうと感じるようになった。
「私は母にも妹にも、家族だからできる限りのことをしてきましたから、まさかこんなふうになるとは夢にも思わなくて……。ショックと怒りで、頭が噴火するかと思うほどでした」
それほど怒り心頭だったのに、杉本は妹夫婦にすべて渡して、自分は会社から身を引いてしまう─。
杉本のマネージャーを長年務め、後に杉本と結婚した松山禎秀さん(53)は、そのときの状況をこう説明する。
「僕のほうが冷静でいられず、少しでも資産を取り戻せないか弁護士に相談しようとかギャーギャー言ったんです。
でも、彩はそんなんもうええわ。それより、妹たちに私の人生に二度と関わらないでと。覚悟を決めて何でもやる人なので、本当に一本、バシッと何か通っているんですよね。ものすごい男前なんですよ(笑)」
その後、杉本は苦労の末に新たな化粧品ブランド『リベラータ』を立ち上げた。
順調に売り上げを伸ばし、今も多くの人に愛用されている。ちなみに、『リベラータ』は動物愛護の精神から、製品開発における動物実験を一切行っていない。
動物に尽くすことが自分の人生の使命
動物愛護活動を始めたのは独立して間もない20代半ばのころだ。撮影所で猫風邪をこじらせた子猫を保護したのがきっかけだ。
「ああ、このままじゃ死んでしまうと思って。動物病院から退院後、自宅で保護していました。私にすごく懐いていたんですが、すでに猫が2匹いたので、自分の感情を優先して3匹目を迎えるのはよくないと思ったんです。その猫の幸せを第一に考えるべきだと、号泣しながら里親さんに託しました」
ある日、仕事先に向かって車で移動していたときのこと。ふと目を覚ますと猫が道端に倒れているのが見えた。周りに人はいるが、みんな遠巻きに見ているだけだ。
「車を止めて!」
杉本はバスローブを手に駆け寄ると、交通事故にあった血まみれの猫を抱き上げた。
「眼球が飛び出た悲惨な状況なのに、抱かれるのを嫌がった猫の爪が私の顔に刺さって、私も流血しちゃって(笑)。仕事か猫の命か。もう、ギャラがもらえなくてもいいやと思って、猫を助けたんです」
1度に多数の猫を預かったこともある。東日本大震災で飼い主とはぐれた猫6匹を保護した宮城県の人から「助けてほしい」と電話がかかってきたのだ。
現地に行くと動物愛護センターに、身動きするのも困難なほど小さなケージに収容された大柄な猫がおり、気の毒になって引き取った。保護した7匹のうち半分はメスでみんな妊娠していた。出産させてから里親を探すことになり、生まれた子猫と親猫で事務所と自宅が保護シェルターのようになったという。
こうした保護活動を続けるうちに、目の前の命を助けるだけでなく、問題の根源を解決しないとダメだと痛感。2014年に一般財団法人『動物環境・福祉協会Eva』を設立し、翌年、公益財団法人として認定された。
杉本は理事長に就任し、ペットビジネスの問題点や犬や猫が殺処分されている現状を講演や著書、SNSなどで発信。動物愛護の普及啓発活動を精力的に行っている。
「もちろん芸能活動にはマイナスですよ。動物をぞんざいに扱うテレビ番組には抗議しますから、面倒くさいと思われるし。動物虐待事件が起こると顔出しで刑事告発もしているので、脅しの電話がかかってきたりするし、リスキーなことは確かですね」
それでも動物愛護活動をやめるつもりはないと、毅然とした口調で言う。
「こうと決めたことは腹をくくってとことんまでやることが大切だと、映画『花と蛇』のときにも学びましたから。それに動物に尽くすことが自分の人生の使命のように感じています。メンタルも鍛えられているという実感があり、この活動が自分を成長させてくれていることは確かですね。それまで家族に費やしていたエネルギーを動物の活動に全部シフトできている感じがするので、母や妹との関係性が崩壊したことも、必要な経験だったんじゃないかとさえ思っているんですよ」
そう言い切ると、少し表情を緩めて続けた。
「たぶん、私はあんまり人間が好きじゃないんだと思う(笑)。ただ、この活動は人と関わらざるを得ないんです。全部人間が引き起こしている問題なので、人間は苦手とか言ってる場合じゃないですよね(笑)」
自分と対照的でちょうどいい彼の存在
2011年に松山さんと再婚して拠点を京都に戻した。自宅には数年前まで犬が3頭、猫が9匹いたが、順番に看取り、今は6匹の猫がいる。すべて高齢の保護猫だ。早朝から餌やりや猫のトイレ掃除などに追われるが、杉本はむしろ楽しそうだ。
「本当に自分の子どもみたいです。子どもでありながら、師匠のように感じることもある。高齢猫って、常に人のことを観察して先を読むし、私よりはるかに生き物としてすぐれているなと思うことがあります(笑)」
母や妹と絶縁した今は夫の松山さんが唯一の家族だ。父とは20代の終わりに再会して交流をしていたが、3年前に亡くなった。
松山さんは個人事務所の社長を務め、杉本の活動を全面的に支えている。2人のときはどんな様子なのか聞くと、こう教えてくれた。
「僕は彩のことを世界一きれいな人だと思っているけど、中身はホンマにおっさんなんです(笑)。だから『親方』って呼んでいるんです、家で。『親方、どうする今日?』とか言うと、彩も笑っていますよ。はい」
まるで漫才コンビのようだと感想をもらすと、松山さんはうれしそうにつけ加える。
「冗談で『一緒にM―1出よか? 吉本の力、使って出れんで』と言うと、『アホか。そういうのいっちゃん嫌いやねん』と怒られるんです(笑)。でも、2人でやったらホンマに面白いと思うんですよ。前代未聞でしょ。いっつも、こんなやりとりしてますよ」
根っから明るい人なのだろう。そんな松山さんの「バカがつくくらい純粋なところ」に惹かれたと、杉本も笑いながら話す。
「私は完璧主義なところがあって、ものすごく細かいことが気になるし、自律神経を病んで過呼吸になったこともあります。結構しんどかったりするけど、彼はものすごい適当なんですよ。ああ、人ってこんな感じでも、大丈夫なんだーと(笑)。めちゃめちゃ子どもっぽくて、思ったこともすぐ口に出す。私とあまりにも対照的で、ちょうどいいんですかね。彼といると脱力できるところはありますね」
現在54歳の杉本。50歳を過ぎたころから、「自分も穏やかな気持ちになれるんだ」と実感できるようになった。身体の中から健康になるため食べるものにはこだわっているが、年を取ることに過剰な恐怖心は抱いていない。むしろ、成熟した美しさがあると思っているそうだ。
これからの目標を聞くと少し考えて、こう答えた。
「本当に自分がやりたいものを作っていくということを、そろそろやらなくてはいけないなと思っています。大人の恋愛映画とか、ヒューマンなテーマの作品とか、自分が見たい作品を作るという感覚が大切なのかなと。私の場合、芸能の仕事は待っているだけじゃできないから(笑)。そこは強調しますけど。フフッ」
若き日の挑発的な姿もカッコよかったが、自然体の杉本彩が成熟した大人のカッコよさをどんなふうに見せてくれるのか、楽しみだ。
<取材・文/萩原絹代>
はぎわら・きぬよ 大学卒業後、週刊誌の記者を経て、フリーのライターになる。'90年に渡米してニューヨークのビジュアルアート大学を卒業。帰国後は社会問題、教育、育児などをテーマに、週刊誌や月刊誌に寄稿。著書に『死ぬまで一人』がある。