このごろ巷の話題で、世界中を賛否の渦に巻き込んでいる「チャットGPT」などに代表される「生成AI」。ビジネス文書や画像などのコンテンツをいとも簡単に作り出す一方で、利用者が質問を投げかければスムーズな会話のように答えを出してくれる。
謎かけチャットGPT・お笑い芸人、ねづっち
客席からお題をもらうと、ほんの数秒で「ととのいました」と解を示すお笑い芸人、ねづっち(48)は、さしずめ「謎かけチャットGPT」である。どんなお題にも脳内のシナプスを鮮やかに結合させ、観客の期待を上回る謎かけを提示する。客は笑い、と同時に「すごい!」と感心し、時として「うぉー!」と驚嘆しながら大きな拍手を送る。外すことはほぼない。
客席がウケている様子を満足そうに眺めながらねづっちは、衣装の胸元の両襟の部分を左右それぞれの指先でつまみ上げながら「ねづっちです」とポーズを決め、ネタに区切りをつける。
元TBSアナウンサーで、30代から東京のお笑いライブシーンを見続けてきた浦口直樹さん(62)は、「正拳突き一本で、格闘技の試合に勝ち続けているような人」と、ねづっちの謎かけの破壊力を例える。「ひとつの技を研ぎ澄まして、クオリティーを高めてきた。言葉の魔術師です」と称賛を惜しまない。
昔から落語家の余芸として親しまれてきた謎かけの、少し時代がかったホコリを取り払い、アップデートし、唯一無二の芸として磨き上げてきた。謎かけに魅入られた男、ねづっち。『チェック柄の衣装』『ととのいました』『ねづっちです』の“ねづっち生成3点セット”がそろう過程を、謎解きする。
芸人人生を変えた謎かけとの出会い
古典的な、よく知られた有名な謎かけがある。
《新聞とかけまして、お坊さんと解きます。その心は、今朝来て(袈裟着て)、今日(経)読む》
「あの謎かけはショックでした」と振り返るねづっちは、この謎かけの存在を知らなかった。当時26歳。それがプラスに働いた。
「東洋館(東京・浅草にある演芸場)に出ていた落語家さんがマクラでやっていて、うぉーってなりましたね。その芸人さんが作ったと思っていたので、しばらくは尊敬していました」
今へと続く分岐点になった2001年の出来事。まさに人生を変えた謎かけ遭遇だった。
当時のねづっちは、小中高の同級生と組んだお笑いコンビ『ケルンファロット』(後に『ケルン』に改名)として漫才ネタを作り、アルバイトをしながらお笑いライブに出演する日々を送っていた。芸能事務所『サンミュージックプロダクション』に所属していたが、売れる見込みも手ごたえも感じられないまま。先に「ゲッツ!」でブレイクしたお笑い仲間、ダンディ坂野(56)と一緒に、JR中央線沿いの『マクドナルド』でアルバイトをし、未来を夢見ていた時代。
そんなさなかに耳に飛び込み、脳細胞が衝撃を受けた前述の謎かけ。
「ケルンの漫才でも、うまいことを言ってきたんですけど、謎かけに特化しようと閃いたのはそのときです」と思い返すねづっちは、「その謎かけより面白いものを作ろう」と誓ったという。
謎かけショックから2年後の'03年、『ケルン』は解散。'04年に、新しい相方の木曽さんちゅう(52)とコンビ『Wコロン』を結成することになるが、それまで3、4か月の間、ピン芸人としてお笑いライブに出演していたことがある。
「コンビが1人になると、ツッコミがいなくなって、うまいことを言った後に、どうしていいかわからなくなったんです。それを紛らわせるために、衣装の襟元をつまみ上げながら、『ねづっちです』と一区切りをつけるようにしました。練習のときに思いつきましたね」
漫才コンビ『ナイツ』の塙宣之(45)は「あれは発明ですね」と、発想の見事さに舌を巻く。『ナイツ』は漫才のさなか、ねづっちの謎かけをあえて拝借して笑わせることがある。その際、塙が加えるひと言が「ねづっちのです」の「の」。自作のうまいことを、ねづっち風に言った際には「のぶっちです」と、少し照れぎみに胸を張る。
「心地いいんですよ。僕もうまいこと言うことが好きなのでわかりますが、それをやったときに『ねづっちです』と言わないといけない空気は気持ちいいと思いますよ。謎かけの中身より、すごいですね。『ねづっちです』でビシッと締まる。うらやましい。あれ、欲しいですね。買いたいくらい」
芸人仲間もうらやむフレーズ『ねづっちです』は'03年に生まれ、その後定着することになるが、『チェック柄の衣装』と『ととのいました』を手に入れるのはもう少し先のことになる。
「ととのいました」を生んだ2人の恩人
お笑いコンビ『Wコロン』時代、ねづっちは謎かけを漫才のボケに添えるというスタイルを作り上げた。
当時を知る『ナイツ』のツッコミ、土屋伸之(44)は
「めちゃくちゃうまいことを言っていましたね。若手の中で誰よりも古くさいネタをやっていた、というか。それをあえて漫才のボケにした。ねづっちさんの謎かけは、同音異義語で作るだけに収まらないので、想定外の感動がありました」
と振り返る。ただしネタは「今のようにお題をいただいてではなかった」(前出・塙)
最初は漫才の中に謎かけを時折入れていた。途中から木曽さんちゅうが、会場の声を仲介し、ねづっちが答えるという即興謎かけスタイルを手に入れることになる。
同音異義語を駆使する場合、「しくじった気持ちを港を離れる船ととく。その心は、航海中です」と、「後悔」と「航海」をかけたりする。ところがねづっちが切り開いたのは、文章を刻み、違う意味を持たせるというスタイル。例えば「いいにくかった」を「いい肉買った」とする。つい最近のライブでも、「サラダというのはカラオケと一緒ですよ。どれ、シングする?(=ドレッシング)」という見事な言葉の変容で観客を感心させた。
現在、ねづっちのトレードマークになっているチェック柄の衣装は、『Wコロン』時代に着始めた。
所属事務所『プロデューサーハウス あ・うん』の関口雅弘社長(64)は、
「トレードマークの衣装を考えていたところ、たまたま浅草に舞台専門の衣装店があり、そこで選びましたね」と記憶をひも解く。
ジャケットに白いシャツ、蝶ネクタイは日によって赤か黒かをチョイス、下は黒のボトム(ズボン)というのがねづっちの衣装。どことなくなつかしさが透けて見える。
「ジャケットは8着あります、同じデザインが8着です。もう変えられないですよね、イメージがついちゃったんで」“ねづっち生成3点セット”のうち2点までがここでととのった。残すは「ととのいました」という決めのフレーズだけ。
その誕生には、お笑いコンビ『スピードワゴン』が深く関わっていた。
ねづっちは証言する。
「スピードワゴンさんのラジオに呼んでもらった際に、小沢(一敬)さんに『ねづっち、謎かけ得意なんだよね』ってお題を振られたとき、何げなく『ととのいました』って言ったら、小沢さんと井戸田(潤)さんが『ととのいました、って何?』って食いついてきた。次にお題を振られたときに『できました』と答えたら、『ねづっち、できましたじゃないでしょう。“ととのいました”でしょう』と。それからですよ」
反射的に出た偶然の産物「ととのいました」。それを引き出した『スピードワゴン』の2人をねづっちは「恩人なんです」と今も感謝を忘れない。
前出・関口社長の記憶によれば、『スピードワゴン』のラジオに出演したのは「2007年ぐらいですかね」。そのころから少しずつ『Wコロン』の仕事量が増え、'09年にねづっちはアルバイトを辞めることができた。34歳になっていたが、先々の見通しを少しずつだが感じられるようになっていた。
そしてついに! ブレイク・イヤーは2010年。
「映画『交渉人 THE MOVIE』の応援芸人ということでテレビに出演し、主演の米倉涼子さんらがいる前で謎かけをやったら、MCの宮迫(博之)さんが、『ねづっち、今年、来るんちゃう!?』って言ってくれた。その日から1年間休みがなくなりました」
年末、「ととのいました」が流行語大賞にノミネートされ、ねづっち人気が急上昇。コンビ仕事よりも単独仕事のオファーが多く舞い込むようになった。ただし戸惑ったこともあったという。
「周りが変わるなって思いましたね。何年も連絡取ってない人から連絡が来て、“覚えてる?”と言われ、謎かけを振られたりしました。ちょっとしんどかったですね。ただ、露出が減ると、すっと、なくなりましたけどね」
仕事が増えたことで、うれしいこともあった。
「僕に会うと、『いつまでやってんの、芸人』と言っていたおやじが電話してきて、『もしもし、ねづっち?』って。『あなたもねづっちですよ(本名は根津)』って返しましたけど、やっと認めてくれたんだって思いましたね」
朝まで芸人仲間と謎かけ千本ノックを
ねづっちの“謎かけ脳”はどのように鍛えられたのか。キーワードとして浮上するのは「謎かけ飲み」だ。
若いころ、よく一緒に飲んでいたという『ナイツ』は、「ものまねのコージー冨田さんが謎かけ大好きで、しょっちゅう一緒に飲んでいましたが、謎かけばっかりですよ」(塙)、「夜中までずっと謎かけですね。謎かけしに飲みに行くという感じでしたね」(土屋)
ちなみにねづっちが、『ナイツ』とお題をもらった際の答えはこうだった。
「ととのいました。ナイツとかけましてガーデニングと解く。その心は園芸(=演芸)に土や(土屋)花は(塙)欠かせない。ねづっちです」
このような名作謎かけが生まれるまで、ねづっちは、千本ノックならぬ300本謎かけで鍛えられたという。
「芸人が何人かいて、お題係はコージー冨田さんのマネージャー。もともとコージーさんが謎かけが好きで、腕にも自信があり始まった飲み会でした。マネージャーが300個くらいお題を用意していて、次々に片づけていく。いい謎かけだと気分よくクイッと飲んで、ちょっとウケないと、それをごまかすために“恥ずかし飲み”って僕ら言っていたんですけど、クイッと飲む。結局ベロベロになる飲み会でしたね。でも、あれが練習になっていましたよね」
今はありがたく振り返るねづっちだが当時の最長記録は、
「夜7時から朝8時まで。完徹でやりました。朝の8時に居酒屋の店主に、頼むから帰ってくれって泣きつかれた。店を出たらコージーさんが、あそこのファミレスで続けようって。冗談じゃないって帰りましたけどね」
15、16年前のコージー冨田との出会い。当初、週5ペースで誘われていたが、そのうち「夜勤のバイトをやらせてくれ」と断るように。今でもたまに、開催されるという。
登録者数20万人超えの朝のルーティン
漫才コンビ時代からねづっちがネタを書いていたが、そのネタ作りの才をさらに磨き上げることに役立ったのが、コンビ解散直後に始めたYouTube『ねづっちチャンネル』だった。登録者数は20万人を超える。
「昨年8月にYouTubeショートを始めたら会員数が伸び始めて、3万人ぐらいで推移していた登録者数が、一気にはね上がりました」(前出・関口社長)
ねづっちは毎日、動画を投稿する。8年半、続けているという。動画を撮ることが、朝のルーティンになっている。
「朝7時ぐらいに起きて、スマホでヤフーニュースを読んで、そこから漫談を考えます。社長も3つ、4つネタになりそうなニュースを毎日送ってくれます。ご飯を食べながら考えて、10時ぐらいにうちの奥さんにスマホで撮ってもらって、それをメールで制作会社に送ってYouTubeに上げてもらいます。8年半、毎日やっています。Tシャツにジャケットを着て、撮影場所はリビングです」
日々のニュースから生み出される、日々のネタ。それをその日のうちに、客前で披露できることが今、ねづっちの強みになっている。
コンビ解散後の'16年。1人になったねづっちは、もっと場数を踏みたいと考え、その思いを『ナイツ』の塙に伝えた。『ナイツ』は、『笑点』の司会を務める春風亭昇太(63)が率いる公益社団法人『落語芸術協会』の協会員で、テレビ・ラジオ出演の合間を縫い、都内の寄席に出演している。塙は「芸協に聞いてみますよ」と橋渡しを約束した。客前でこそ輝くねづっちの芸を、塙は理解していたからだ。
「生活のまん真ん中で、舞台で何かやりたいという脳みそしかないから、あの人の場合。何かしゃべっていても、それネタになるね、って、そういう人。僕もそうだから、よくわかる。一番お笑いが好きで、すぐにでもお客さんの前で言いたいと思うのは同じ」
塙の提案を、落語芸術協会は理事会で諮った。
「謎かけは噺家と(芸風が)カブるんじゃないの、と心配する声はありました。最初は代演で出てもらって徐々になじんでもらって、それを見た席亭(寄席の経営者)がねづっちを認めて、2019年に正会員になってもらいました」
当時を知る同協会の田澤祐一事務局長(62)はそう振り返り、
「寄席の番組で大喜利を組むことがありますが、引っ張りだこのレギュラーですよ。いい看板になりつつあると思います」と、戦力としてのねづっちに注目する。
大喜利の司会を務めることが多い、同協会理事の桂竹丸(66)は、
「困ったときのねづっち」と全幅の信頼を寄せる。
「大喜利はアドリブで、出たとこ勝負なんですよ。経験の浅い二ツ目は、どうしても答えが出てこないときがある、そんなとき、流れが止まらないように頼るのがねづっちです。ねづっちがいないときは心細い」
もともと寄席との親和性は高い謎かけ。客にウケないはずはない。
月に一度のライフワークで会場を笑いの渦に
『Wコロン』の時代から、ねづっちは、生の高座を志向していた。
「板(=舞台)に立ちたい、毎日立ちたい。お笑いライブだと月にせいぜい10本ぐらいしか立てない。なんとかならないでしょうかね」
という相談を持ちかけたのが、当時所属していた『サンミュージック』の先輩芸人、『ブッチャーブラザーズ』のぶっちゃあ(68)だった。
「ぶっちゃあさんに、漫才協会を紹介してもらって、漫才協会の師匠方が出演する東洋館の番組を見て、一番面白い師匠に弟子入りしようと。それで、『Wエース』師匠に決めました」
『Wコロン』の“W”は、師匠の芸名からいただいたものである。
ピン芸人になった今も東洋館には出演している。プラス都内の寄席(浅草演芸ホール、池袋演芸場、新宿末廣亭、上野広小路亭、国立演芸場)に顔付けされる。
「ありがたいですよ。最低でも月に30本、掛け持ちで多いと50本も高座があるときがあります。お笑いライブの持ち時間は5分でしたが、寄席の持ち時間はいきなり15分。最初は大変でしたけど、今は時計を見ながら、謎かけのお題をもう一つ足せるかな、と調整しながらやっています」
お客さんにお題をいただくことで、客とのやりとりが生まれるのも謎かけならではの趣向だ。
「自分で作った謎かけを持ってくる70歳ぐらいの男性がいます。お題を出して、僕が答えると、立ち上がって紙を渡してくるんです。他のお客さんは一瞬おひねりだと思うんですが、実は自分で作った謎かけ。それを僕が発表すると、客席で『客っちです』とポーズを決めている。『これパクっていいですか』というところまでがお約束です。自分で作った謎かけとどう違うか、楽しんでいるんですね」
ひねったお題を出す、ご常連もいるという。
「“安土桃山時代のたい焼き”っていうお題がきたんです。“融通の利かない卵”っていうのもありました。お題の意味がわからないでしょ? この方は、“あずきの缶詰とタイ焼き”をくれたり、“柚子と卵”を渡してくる。ダジャレありきなので、メチャクチャなお題になるわけです」
老若男女にウケる言葉遊びの謎かけに目をつけ、紙面掲載しているのは『東京新聞』だ。朝刊の文化娯楽面に掲載される《ねづっちの謎かけ道場》(第1、第3、第5水曜掲載)は、'19年(令和元年5月1日)に始まり、丸4年。名物企画になっている。
「舞台上の言葉遊びが紙面化できるのか、という声は当初ありましたが、やってみたら意外にうまくいった」と『東京新聞』編集委員の立尾良二さん(64)は振り返る。
「2週間で150本から400本届くネタを社内で、過去作品に類似はないかなども注意し20~40本に絞り、ねづっちに渡します。そこから6本を選んでもらって、選評を書いてもらうのですが、これが最初から面白すぎて、いつかは破綻するんじゃないかと心配したこともありました。でも、そんな心配は無用でした。言葉の天才ですね」
言葉を適切に取り扱う編集委員も、ねづっちの枯れないネタ作りに脱帽する。
漫談家としてのねづっちの力量
応募してくる年代は小学3年生から90代まで。ウェブにも掲載し募集しているため、新潟、岡山、姫路、岐阜など全国各地から日々力作謎かけが届くという、
「常連さんもいますが、初めて投稿します、という方も毎週います。夫婦で考えるので仲よくなったという声も届きます」(立尾さん)
毎朝ネタを作り、その日中に寄席でネタをかけ、客の反応を見る、というネタが循環する日常。
月に一度、東京・歌舞伎町の『新宿ハイジアV-1』でライブ『ねづっちのイロイロしてみる60分!』を開催する。目を見張るのは、漫談家としてのねづっちの力量だ。
「ピン芸人になった当初は、ただうまいことを言う人で、漫談としては仕上がっていなかった。1年ぐらいたったら、漫談としてちゃんとできていて、エピソードトークで笑わせて、うまいこと言うだけじゃなくなった。謎かけに特化した漫談は唯一無二だし、努力したんだろうなと思いますね」
と話す、前出・元TBSアナの浦口さんは、『ねづっちのイロイロ~』に通い続け、その成長を見守ってきた。月に一度、東京・下北沢でお笑いライブ『ショウゲキしもきたドォ〜ン!』を主催し、ときどきねづっちにも出演してもらっているという。
5月15日、『ねづっちのイロイロ〜』に足を運んだ。定員60人の会場は満席で、「希望者はその3倍。抽選で選んでいます」(前出・関口社長)
お決まりの衣装に、手にはスケッチブックと缶コーヒーとペットボトルの水。段取りが書かれたスケッチブックを最前列の真ん中に座る「平野さん」に渡し、「お礼です。いつもより甘めのにしました」とギャラ代わりの缶コーヒーを手渡す。このライブの、お決まりのオープニングだ。とはいえ、ねづっちも事務所サイドも、平野さんのフルネームや職業など属性はまったく知らない。
ねづっちまで1メートルの至近「平野シート」と呼ばれるその席で、平野さんはねづっちの進行を助ける。もともと、舞台脇のホワイトボードで流れを確認していたが、いちいち視線が脇にそれてしまうという欠点があった。客席に来ていた漫才師『おぼん・こぼん』のおぼん師匠(74)が、「目の前のお客さんに持ってもらえば」と提案。今の形になった。
ライブが始まったのは11年前。そのうち「10年ぐらいは通っている」という平野さんのフルネームは「平野泰三」さん。ねづっちと同じ1975年生まれの48歳、介護関連の仕事に従事している。
「毎回同じネタがないし、時事ネタなので新しい。スケッチブックを持っているので、両手で拍手ができないため、左手で左太ももを叩いています。ねづさん自身もホームなのでリラックスしていて、お試しのネタをかけて反応を見たりしている、素晴らしい芸風ですね」とファン目線で語り、この会場を「謎かけの実験室」と呼ぶ。
これまで休んだのは数えるくらい。次回6月12日(月)も来場予定で「ライフワークですね、気がついたら」。陰のスタッフに支えられ、ねづっちのライブは笑いで埋まる。
寄席芸人として80歳くらいまでやりたい
会場の一角には、一般客と同じようにライブを楽しんでいるねづっち夫人の姿もあった。ねづっちを支える、最重要人物だ。毎朝の動画撮影はいうまでもなく、ねづっちに漫談ネタを提供することが多いからだ。鬼嫁っぽいネタに客も笑い、夫人も笑っているが「奥さんも恩人です」と、ねづっちは頭が上がらない。
「最初から面白かったですよ。1つ上で知り合って、3か月後に3つ上だって告白がワンクッション入って、半年後に『3つ上でもないんだよね』。免許証見たら6つ上だった。何でクッション入れたの、と聞いたら、『女心だろうが』とキレられましたけど、怒るのは僕のほうですよね」
家事は「洗い物ぐらいですね」と夫人におんぶに抱っこで、夜になると2人だけの晩酌が日々の楽しみだという。
「うちに帰って奥さんと飲むから外では7割ぐらいで、3割余力を残して帰る」と話すのは、前出・元TBSアナの浦口さん。
「仲よくないと愚痴をネタにできない。奥さんも会場で見ているんだもん。穏やかだし、カリカリしないし、よく笑う人だし、きれいですよ。年齢よりも、ずっと若く見える方です」
4月末には2泊3日で金沢旅行に行き、その様子は身辺雑記風のネタとして5月のライブで披露された。
「夜中の2時に、部屋のドアをノックする人がいる。誰だろって嫁に言ったら、どこにもいない。出てみたら嫁がいて、寝ぼけてトイレかと思ってドアを開けたら廊下で、オートロックかかっちゃったみたいでさぁという」
妻のことを観察し、面白おかしく伝えられるところに、ねづっちの視線の愛を感じるばかりだ。
かつて、ハチャメチャな生活の体現者のように見られた芸人だが、今そのように暮らす人はほぼいない。
「穏やかで温厚でまじめですね。芸に対して勤勉。お笑いが本当に好きなんだろうと思いますね」という前出・元TBSアナの浦口さんの見方も、「まじめでコツコツやるタイプ」と言う『ナイツ』塙の見方も、ねづっちの芸に対する真摯な姿勢を物語る。
「ねづさんをゴルフに誘ったのは僕です」という『ナイツ』土屋も、性格が出るゴルフプレー中のねづっちについて「イライラしないですね。精神的に大人というか落ち着いている。再現性のスポーツだから安定したフォームが大切。ねづさんの漫談のフォームが安定しているのも、性格が出ているのかもしれませんね」
自身も「コツコツ型ですね」と自己分析するねづっちに、大きな野望は似つかわしくないが、「全国ツアーやりたいんですけどね。ソロで」と打ち明ける。と同時に、寄席芸人として年を取ることを自分の将来像に重ね合わせる。
「健康で、寄席芸人として80歳くらいまでやりたい。そのころにはだいぶ衰えているので、お題をもらって10分ぐらい考えて、お客さんに『おせぇよ。どこが即興だよ』とか言われながら、15分の持ち時間で1個しか謎かけをしない。おじいちゃんになったら、それも許されるんじゃないですかね」
<取材・文/渡邉寧久>
わたなべ・ねいきゅう 演芸評論家・エンタメライター。文化庁芸術選奨、浅草芸能大賞などの選考委員を歴任。ビートたけし名誉顧問の「江戸まち たいとう芸楽祭」(台東区主催)の実行委員長。東京新聞、デイリースポーツ、夕刊フジなどにコラム連載中。