石原裕次郎さん(石原音楽出版社)

 昭和のスター、石原裕次郎さんが“常連”で通ったことでも知られる東京・赤坂の赤坂エクセルホテル東急(2002年に赤坂東急ホテルから改称)が8月末日に開業53年の歴史に幕を下ろす。

「バー・ゴンドラ」に足を運んだ石原裕次郎さん

シングル曲『クロスオーバー・ラブ』のジャケット

 裕次郎さんは1969年にホテルが開業して間もなく当時14階にあった「バー・ゴンドラ」に足を運んだ。

「裕次郎さんが結婚式を挙げた東京日活ホテル(東京・有楽町)が閉業した年に赤坂東急ができました。当時、石原プロの事務所があった新橋に近いことから利用されるようになり、ひとりで初めて来てビールのバドワイザーを注文されたのを覚えています」

 こう語るのは、“裕次郎さん担当”を長年務めたバーの元スタッフ、田中俊一さん。
4人掛けバーカウンターの端が指定席だった。

すぐそばには電話がありました。電話を使われることも多く事務所代わりに毎日のように通われていました」(田中さん)

 スタッフと親交を深めるなかで、'81年には裕次郎さんがシングル曲『クロスオーバー・ラブ』のタイトルをバーのオリジナルカクテルに命名した。

裕次郎さんが命名したオリジナルカクテル「クロスオーバー・ラブ」(1300円、サービス料、消費税込み)をホテル3階赤坂スクエアダイニングで提供。

 カクテルを考案した元バーテンダーの木原均さんは、「裕次郎さんをイメージしてブランデーをベースに作りました

当時、カクテルブックになかったブルドッグを教えてもらい、クラッシュアイスにブランデーを入れる飲み方は裕次郎さんが最初でした」(田中さん)
常連ならではの逸話も。

われわれスタッフより先に昼の営業前からカウンター席に座っていて、そのまま翌朝方までいたこともあります」(木原さん)

 その間の酒量も気になるところ。

「一晩でボトル1本がなくなることも多かったですが、裕次郎さんが酔っぱらったところは一度も見たことがありません」(田中さん)

 バーの元会計だった瀬口大介さんも「大勢でいても静かに飲んでおられました」と語る。

亡くなる1年前まで通い続けた

1987年ごろの赤坂東急ホテル玄関・写真/赤坂エクセルホテル東急提供

 裕次郎さんは体調を崩すようになってからも通い続けた。

「気晴らしを兼ねて来られていました。裕次郎さんはお酒とたばこが好きでしたが、病気になってからは奥さまのまき子さんから“あまり飲ませないで”と言われていて、料理は塩分を控えるようにしていました。

 最後に来られたのは亡くなる1年前。ハワイに行く直前で、少し痩せられていました」(田中さん)

 '87年にハワイから急きょ帰国した裕次郎さんは、同年7月17日に52歳の若さで亡くなった。

 裕次郎さんが晩年まで愛したホテルについて、石原音楽出版社の関係者は「裕次郎さんにとってオフを過ごすための大切な場所だったので、仕事関係の方はあまり呼ぶことはなかった」という。

 ホテルでは、裕次郎さんとの思い出を振り返る『石原裕次郎さんメモリアルフェア2023』を開催中(3階ロビーで7月17日まで)。残されているキープボトルをはじめゆかりの品々が展示されているほか「石原軍団の炊き出しカレー」を限定で提供する。

「ホテルがなくなるのは寂しいですが、ホテルと裕次郎さんのことを知ってもらえる機会になったらうれしいです」(田中さん)

撮影/山田智絵 写真/赤坂エクセルホテル東急提供
38食は、裕次郎さんの愛車メルセデス・ベンツ300SL(通称ガルウイング)のナンバープレートにちなんだ

 

裕次郎さんの指定席があった「バー・ゴンドラ」のカウンターからは、きれいな夜景が望めた (写真/赤坂エクセルホテル東急提供)

 

裕次郎さん思い出のキープボトル。左からロンリコ(ラム酒)、レミーマルタン(ブランデー)、デキャンタに入ったベル(ウイスキー)、グラン・マルニエ(オレンジ・リキュール)

 

石原軍団の炊き出しカレー(2500円:ビシソワーズ付き、サービス料、消費税込み)をホテル3階赤坂スクエアダイニングで6月17日(土)、7月17日(月・祝)に、各日38食を限定販売。売り上げの一部は海の保全等、自然保護活動の団体に寄付される