お笑いの世界は大きく変化しつつある。女性芸人が多数登場し、女性が自らのアイデアと表現で人を笑わせる、新しい時代となった。「女は笑いに向いてない」と言われた時代から、女性が人を笑わせる自由を手に入れるまで。フロンティアたちの軌跡と本音を描く。清水ミチコさんの第2回。
ラジオ番組のハガキ職人も
“音楽と笑いを両立させる人になりたい”と夢を抱いた青春時代。ラジオの仕事がきっかけで芸能活動を始め、やがてテレビの世界からも声がかかった。憧れのタモリさんとの共演も実現。さらに、新しい笑いを創る深夜番組のレギュラーメンバーに決定。しかし、そこで、大きなショックを受けることになる。
岐阜の高校を卒業した後、東京の短大に進学。上京し学校に通いながら、生のライブにいろいろ出かけるようになった。そんな折、深夜番組を見て憧れていたタモリさんのライブに行き、衝撃を受ける。
「ピアノやトランペットを演奏しながら、しかも演芸の要素もあるというライブ。有名な演奏家の弾き方講座という、ちゃんとした作品を壊してパロディーにしていく斬新なコーナーもありました。そんなの私は初めて見たので、“音楽と笑いを両立させるなんてすごい! 自分もこういう人になりたい”って思っちゃったんです」
その舞台を構成していた放送作家に手紙を書いた。
「弟子にしてください、みたいな感じで、自分で考えたネタまで書いて出しました(笑)。返事はありませんでしたけどね。そのころは、書く人になりたいと思ってたんです」
華やかな女子大生がもてはやされた時代だったが、ミチコさんは授業とアルバイト、たまにライブに行く以外は、四畳半のアパートでラジオやテレビを楽しみにするような生活を送っていた。
「ハガキ職人みたいなことやっていて、いろんなラジオ番組に投稿して、“私の書いたものを読んでもらえた!”ということを喜んでました。『ビックリハウス』というパロディー雑誌にもよく投稿してました」
憧れのタモリはいつも優しくて穏やか
家庭科の教員免許を取って短大を卒業。地元の岐阜には帰らず、東京でアルバイトをしながら、糸井重里さんなどが講師を務める、クリエイター養成の教室「パロディ講座」に通い、道を模索していた。
アルバイト先のオーナーの紹介で、ラジオ番組の関係者とつながりができ、デモテープを提出。新しく始まったミュージシャンのクニ河内さんのラジオ番組に放送作家兼アシスタントとして出演もするチャンスをつかんだ。
そこで、リスナーのハガキを読んだり、番組の構成を考えたりしながら、自分のモノマネやネタを披露することもあった。
「最初は凝ったコントを書いてやっていたりもしたんですけど、それよりモノマネのほうが、ひと言でぱっとウケるので、リスナーの反応がいいほうを伸ばしていこうと思うようになりました」
ラジオ番組を通じて、何がウケるのかがわかり、ネタも増えてきたところで、渋谷にあった小劇場『ジァン・ジァン』の新人オーディションに応募。'86年、初の単独ライブを行い、本格的に演者としてデビュー。
『ジァン・ジァン』でのライブは、回を重ねるごとに観客が増え、やがてテレビ関係者の目に留まった。注目の新人を30分かけてじっくり紹介する深夜番組『冗談画報』に出演。そのころに結婚したが仕事は続け、'87年には『笑っていいとも!』のレギュラー出演が決まった。
「タモリさんはどんなときもニコニコ笑って接してくださって。緊張してる私も楽しく番組に出演することができました。毎日が生放送で、タモリさんだって、本当はいろいろあったと思うんですけどね。いつも優しくて穏やか。本当に人格者で、今も私の憧れです」
'87年12月、ライブを収録した初アルバム『幸せの骨頂』を発表。'88年4月から3か月産休をとって、無事に出産。『いいとも!』に復帰もできた。公私ともに順風満帆に見えたが、ミチコさん自身は、悩み始めていたという。
「テレビに出て、人にちやほやされたりしたら、どんなにいいかなと思っていたのに、いざテレビに出始めると、注目される状況が苦手だとわかって、波に乗っていけなかった。それに、期待値がどんどん高まっていくのが苦しくて。それまで無責任にふざけていたのに、そうはできなくなって、自分じゃなくなっていく感覚がありました」
産休からの復帰直後、新しく始まるバラエティー番組『夢で逢えたら』のレギュラー出演が決まった。共演はダウンタウン、ウッチャンナンチャン、野沢直子さん。当時は全員20代、お笑い界の次世代のホープが集まり、深夜枠で新しい笑いを構築していく番組だった。
「軽い気持ちで出演を引き受けたんですけど、これほどショックを受けることになるとは……」
コント、トーク、音楽コーナーなどバラエティーに富んだ構成で、特に台本から発展してどんどん笑いを追い求めていくオリジナルのコントは、若者たちを中心に評判となっていった。
'88年10月の開始当初は平日深夜2時過ぎ、関東ローカルの放送だったが、その半年後には、土曜23時からの全国放送に。しかし、番組が好調な中、ミチコさんはずっと疎外感を感じていたという。
「ダウンタウンやウッチャンナンチャンは“笑いで天下取ってやろう”という情熱で臨んでいたと思うんですけど、私はそんな覚悟はないということを思い知りました。彼らは収録中だけでなくカメラがまわってないところでも、ずっと面白いことをやっている。
ある意味、笑いの化け物だった。一緒にいて楽しいんですけど、私だけは面白さに参加できてない。特にコントでは、どんどんアドリブで仕掛けられても、私は対応できなくて。笑っちゃったり、ひどいときは固まって止まっちゃったりしたこともありました。自分は番組の足手まといじゃないかと思って、苦しかったですね」
音楽コーナーでは、得意のキーボードを担当して中心的存在として活躍できたが、コント収録の日は憂鬱だった。
「“ミッちゃんは今日もやる気がありませんでしたね”と、小学生から番組宛てに手紙が来たことがあります。スタッフは隠してくれたんだけど、私がその文面を見てしまって。あぁ、子どもにもバレたかと思いましたが(笑)、私としては、どこをどう努力したらいいかもわからない状態だったんです」
収録には行きたくない、逃げたいという思いにかられたこともあったという。そんな悩みの中で生まれたのが、伊集院みどりというコントキャラクター。
みどりという船に救われる
「後ろから見ると美人なのに、振り返ったらブスだった」という設定があったときに、自分の欠点を誇張したメイクをして、自意識過剰で性格の悪い女を思い切り演じてみた。すると、これが大ウケ。
「みどりという船に救われた!」と感じ、やっと番組に貢献できたとほっとしたそうだ。共演の仲間もウケるキャラクターが生まれたことを喜んでくれた。視聴者からも高く支持され、コントキャラ人気投票では1位を獲得するほどになる。
ただ、番組で役割を担うことができた後も、そのままテレビの売れっ子となっていくことには戸惑いがあった。番組の後半期にやっと仲良くなった野沢直子さんと、
「私たちは天下を取るとかではなく、ちゃらんぽらんな存在でいたいよね」
というような話を、男子チームのいない所でしたそうだ。
番組は'91年11月に終了。ダウンタウン、ウッチャンナンチャンはそれぞれ冠番組を持ち、お笑いスターへの階段を駆け上がっていった。一方で、野沢直子さんは、ほかに活躍の場を求め、アメリカに旅立った。
そしてミチコさんは、「自分はテレビには向いていないかも」という思いを抱え、メディアの仕事を続けつつも、独自路線を求めていくことになる─。
構成・文/伊藤愛子●いとう・あいこ 人物取材を専門としてきたライター。お笑い関係の執筆も多く、生で見たライブは1000を超える。著書は『ダウンタウンの理由。』など