《この世で最も大切なのは「命」だと思います。では、二番目は何かと問われたら、私は間違いなく「金」と答えるでしょう》
男は、中学時代の卒業文集にこう記していた。
友だちはほとんどいなかった
長野県中野市で4名が死亡した立てこもり事件で、殺人容疑で逮捕されたのは青木政憲容疑者(31)。
いったいなぜ、凶行は行われたのか。著書に『無差別殺人の精神分析』(新潮選書)などがある精神科医の片田珠美医師に、分析してもらった。
「彼が中学時代に書いた卒業文集は、キレイな字で書いてあるし、文章もしっかりしている。IQは高かったと思います。“命”と“金”についても、一般的な内容です。ただ、中学生ぐらいであれば親の価値観を反映している可能性が高いはず。
名家の長男として大切に育てられていた彼は“立派な跡継ぎになってほしい”という親の欲望を自分の欲望として取り込み、それを文集に書いているのではないかという印象を受けました」
一番大切な“命”が跡継ぎである青木容疑者だとすると、“金”は果樹園を維持するための“資金”に置き換えられる。
「彼の家族構成を見ると、父親は市議会議員で地元の名士、母親も大繁盛するジェラート店を切り盛りしていた。妹は体育大学を卒業し、弟は自衛隊に所属しています。非常に社交的で活動的な家庭に感じます。それに比べて、青木容疑者からは真逆の印象を受けます」(同・片田医師)
中学校や高校の同級生の話を聞くと、
「静かで大人しかった。いつも1人でいたし、友だちはほとんどいなかった印象です」
との話ばかり。所属していた野球部のチームメイトだった同級生の父親は、
「ポジションはキャッチャーだったが、大声が出せないため指示ができず、監督に怒られていたのを覚えている。そのためか、確か3年次にはレギュラーから外れていた」
とも話す。
「ここから見えるのは、青木容疑者は友人も少なく、コミュニケーションが苦手だったということ。推測するに、集団行動は向いていない人間だったと思われます。それでも親の希望に沿って、彼は懸命に努力していたのでは。中学時代は野球部に所属していたようですが、それは本当に青木容疑者の意志だったのでしょうか」(同・片田医師、以下同)
これにより、青木容疑者は疎外感を覚えたのではと話す。
「そうした社交的で活動的な家庭の中で、青木容疑者の本当の気持ちを理解できる人がいなかったのかもしれない。もちろんコミュニケーションが得意でなければ、恋人を作ることも難しかったはず。客観的に見れば家族はいて、愛されてはいた。しかし、疎外感を深めた青木容疑者は“ひとりぼっちと思われてバカにされているんじゃないか”と思うこともあったのでは」
こうした背景が、今回の犯行に関係している可能性があるという。
「青木容疑者の供述から、彼が“被害妄想”を抱いていた可能性も否定できません。東京の大学に進学したが、馴染めなかった。被害妄想は過度なストレスによって進展します。そのため、この頃から被害妄想があり、自分の思っていることや考えていることが声になって聞こえてくる“考想化声”もあったのではないか」
新聞などの報道によると、青木容疑者は、
「大学時代にいじめにあってから、人間関係が苦手となり、家業の農業をやっていた」
「ひとりぼっちであることをののしられたと思って、女性を刺した」
などと警察の取り調べに対して供述しているという。
金さえあればなんでもできる
また、青木容疑者の自宅前を散歩コースとしていた亡くなった2人の女性と青木容疑者に面識があったかは定かではない。ただ、66歳と70歳の女性が、青木容疑者に向かって悪口を投げかけたり、自宅前を通る際に大声で悪口を話したりする可能性は低いように思える。
「2人の女性が散歩中に談笑している姿を見て、『自分の悪口を言われている』という思いつきがあり、それを補強するように事実を歪曲する妄想的解釈があったのかもしれない。もし仮に、青木容疑者に大学中退時から被害妄想があったなら、長らく表面化しなかったのは、1人で黙々と作業する農業に従事していたため。外で別の仕事をしていたら、早い段階で何らかのトラブルが起こっていたと推測します」(片田医師、以下同)
片田医師によると、妄想を抱いているとの認定には、
1・現実離れした不合理な内容であっても
2・本人が真実と確信しており
3・訂正不能である
といった3つの条件を満たす必要があるという。
「青木容疑者が立てこもったときに、人質だった母親は青木容疑者の説得を試みています。仮にここでも青木容疑者が“女性に悪口を言われた”と話していたら、母親はきっと否定をしているはず。
それなのに供述内容に変化がないのならば、彼は訂正を受け入れなかったということ。ただ、これはあくまでも精神科医である私の見解であり、今後に行われるであろう精神鑑定で単なる“思い込み”なのか“被害妄想”なのかは、厳密に調べる必要があります」
ただ、こうした“被害妄想”から殺人にまで発展することはありえるのだろうか。
「被害妄想から、アイツに悪いことをされたため窮地に陥ったと確信して相手を刺し殺したとか、配偶者が浮気しているという妄想を抱いて殺害したとかいうケースは過去にあります」
しかし、青木容疑者は県公安委員会の許可を受け、猟銃や空気銃など計4丁もの銃器を所持していた。許可申請には、医師によって精神疾患などがないことを証明する診断書の提出が必要とされる。
「私も銃器の許可に関する診断書を書いた経験があるのですが、2つの理由があって適切な診断を下すことがかなり難しいのです。1つは、本人が希望して診察を受けているわけではないためです。いわば、許可が欲しいから診察を受けている。なので、症状があっても本人が隠してしまうことがある。
2つ目は、本人に自覚がないことがあるためです。例えば精神疾患のひとつである統合失調症は、自身の異常性に気が付かない病識の欠如があります。アルコール依存症の場合は否認といって、自身がアルコール依存症であることを認めません。この2点から、何かしらの問題を抱えている人が見逃され、銃器を所持してしまう場合があるのです」
青木容疑者は卒業文集に、
《金がないと進学したくとも進学できません。逆に言えば、金さえあればなんでもできるという事であります》
とも綴っている。
果樹園や人気ジェラート店を経営し、決してお金がない家庭ではなかったはずだ。事件を起こさないという選択はできなかったのか――。
片田珠美 広島県生まれ。精神科医。大阪大学医学部卒業。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。京都大学博士(人間・環境学)。フランス政府給費留学生としてパリ第八大学に留学。京都大学非常勤講師 (2003年度~2016年度)。臨床経験にもとづき、精神分析的視点から犯罪心理や心の病を研究。著書に『無差別殺人の精神分析』(新潮社)、『他人を攻撃せずにはいられない人』(PHP新書)などがある。