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 ひきこもりの当事者会で時折顔を合わせるナナコさん(35歳・仮名)という女性がいた。頼まれれば中立公正な立場で場を仕切り、ユーモアがありながらも、自分の意思をはっきり伝えるそのありように、いつも心惹かれていた。どういう過去があると、こうなれるのだろうとも思っていた。あるとき、彼女が壮絶な過去を背負っていたことを知り、ゆっくりお茶しながら話を聞いてみた。

ナナコさん(35歳・仮名)のケース

「中学3年生くらいから、父のことはずっと睨みつけるような態度で接していたと思います。最後まで笑顔を見せられなかった」

 ナナコさんはつぶやくようにそう言った。彼女の人生はなかなか複雑だ。父親が40歳のときに生まれた子で、4歳年下の弟がいる。弟は障害者用の施設で穏やかに暮らしているという。

「私が物心ついたころ、父は料理人としてバリバリ働いていましたが、私が生まれたころは刑務所にいたようです。覚醒剤がやめられなかったんですね。初めて使用したのは30歳のときだったと、あとから知りました。使用理由は“寂しかったから”だそうです」

 父は非嫡出子で、母もまた後妻の子という複雑な家庭環境だった。母は高校を卒業してすぐ上京、知り合いの理容院で働きながら学校に通い、理容師となった。そこへ父が客としてやってきたのがなれそめだ。

「その時点で母は、父の薬物の件は知っていたんだと思います。でも結婚した。父を立ち直らせようとしたのかもしれない。私の記憶では、小学校低学年くらいまでは家に父がいた。だけどまたいなくなって、父方の祖母と母と弟の4人暮らしだった。次に父の記憶があるのは中学3年生ですね。おそらく塀の中へ入ったり出たりを繰り返していたんだと思います」

 ナナコさんは、小学生のころのある日、母宛ての父からの手紙を見つけた。そのときは「これでお父さんに手紙が書ける」と有頂天になったそうだ。住所は東京拘置所や地方の刑務所だったが、よくわかっていなかった。塀の中の父との文通は彼女にとって大きな楽しみだったという。小さいころは、「お父さんのお嫁さんになる」と言っていたくらい父が大好きだったのだ。

でも大きくなるにつれて、父がどうして家にいないのかを理解するようになりました。そこからは愛情が憎悪に変わっていった。

 中学生のころ、父宛ての携帯電話料金の督促状が届いたんですよ。開封してみたら20数万円の請求だった。怖くなって、子どものころから貯めていた貯金を下ろして払ったんです。

 祖母は、“バカだね。あんたはそんなことしなくていいの”と言って、お金をくれました。でも私は妙に腹が立って、その受領書を持って拘置所の父に会いにいったんです。待っていると、父が書記官と一緒に入ってきて、“久しぶりだね”とニコニコしている。私は自分が勝手に支払ったくせに、腹立たしさが湧き起こってきて、ボロボロ泣いてしまいました

 自分の置かれた環境に中学生という年齢では耐えられなかったのかもしれない。怖くなって支払ったものの、余計なことをしたという思いもあっただろう。祖母も父も、それについて感謝してはくれなかった。その苛立ちもあったのではないだろうか。

離れていく父親との心の距離

 その後、発達障害の弟を連れて、母は東京から近県に越していった。問題行動を起こすようになった弟を受け入れてくれる学校へ転校させるためだった。ナナコさんは祖母と一緒に住むことを選んだ。心の奥には父への期待もあった。

「その後、父が帰ってきたんです。ずっと待っていたのに帰宅したのは真夜中だった。しかも酔っ払って……。まっすぐ帰れなかったのかもしれないけど、中学生の私は許せなかった。人の気も知らないでと憤っていました」

 そこから祖母と父との3人の生活が始まったが、長くは続かなかった。父とナナコさんが決定的にぶつかってしまったからだ。

「何かのきっかけで私が怒ったら、父が自分の向精神薬を飲ませようとしたんです。大ゲンカになって、土砂降りの中、裸足で飛び出して逃げました。でも、父が合羽も着ずに自転車で爆走しているのが見えて、さらに逃げて。そうっと自宅に戻ったら母が来ていて、父は自室にこもっていました」

 父との心の距離がどんどん離れていった。父は心配して自転車で走り回ってナナコさんを探したのだろう。だがナナコさんは、つかまったら殺されるかもしれないと怯えた。そして父とは一緒に暮らせないと決断する。翌日には教師に転校を伝え、自分で住民票を取りにいって転出、母と弟が暮らす県へ越し、中学生最後の半年あまりを過ごす。

「推薦で県立高校に入学したものの、やる気が起こらず、学校をサボってばかりいたんです。3年生の夏に、このままだと留年だと言われました。祖母に“高校だけは卒業して”と懇願されて、通信制にかわりました」

 なんとか高校を卒業したが進学も就職もせず、図書館に通う日々だった。一時期、コンビニでアルバイトをしたが、その店が半年後に閉店して無職に。その後、父がまた捕まったと聞いて祖母の家で暮らし始めた。

「祖母が健康を害していたので、ほぼ介護要員として一緒に暮らしました。3か月だけ地方で働いたことがあるんですが、嫌になって戻ってきてしまった。そのころから何年にもわたって希死念慮がつきまとうようになりました」

 たまたま早朝、近所のお寺の前を通ったら本堂で住職たちが朝のお勤めをしているのに出くわしたことがある。彼女はそれに参加させてもらうようになった。寺から図書館へ直行して、「自殺のための本」を読むのが日課となった。

「街じゅうのあらゆるものが、自殺のための道具に見えていました。このマンションの最上階から飛べばいけるな、とか。あそこの川の橋にロープをかけて……とか」

 そんな経緯を経て、自殺は結局、賭けだと悟った。失敗したら後遺症が残る可能性も大きい。ナナコさんは、死ぬ気をなくしていく。

 とはいえ、生きる気力が湧いたわけでもない。“なんとなく”祖母の面倒を見ながら月日が過ぎていき、父が戻ってくるとわかると、母の元へ身を寄せた。

「21、22歳のころ、母のところで毎日、だらだらと寝ていました。近くの理容院で働く母は、昼になると店でとったお弁当を持ってくる。私が寝ている部屋のふすまを少し開けて“はい、出前だよ”と。自分は冷蔵庫の残り物を食べていた。母のあっけらかんとした明るさに救われました」

 母との関係も決して良好ではなかったのだが、彼女は母の美点は美点として認めている。

包丁をにぎりしめ父にぶつけた本音

 彼女は時折スーパーへ行く以外は、ほとんどこもっていた。だがある日、いつもと違う道を通ると、近所でよく吠えると評判の犬と目が合った。

「母もよく吠えられていたそうですが、私と目が合うと、吠えずに尻尾を振ったんですよ。その家は高齢の男性がひとり住まいで散歩もろくにさせていなかったらしい。それで私が散歩役を買って出たんです」

 それからは犬の散歩が楽しみになった。言葉を発しないけれど、その犬は彼女の気持ちに寄り添っていたのかもしれない。犬を通して、彼女は外の世界とつながるようになっていった。

「それから数年後、弟が祖母宅を訪ねたとき、父と大ゲンカになったらしい。弟を止めようとした祖母が階段から転がり落ちて流血騒ぎ。病院に運ばれたら、そのケガ以上に深刻な末期がんが見つかったんです」

 数か月後、祖母はホスピスで静かにこの世を去った。祖母の家でお通夜だと聞いたナナコさんは、道中で包丁を3本買い、すぐに使えるようにパッケージから出してそれぞれ新聞紙に巻き、バッグに入れた。

「祖母宅に着くと父が“よく来たね”と玄関を開けた。その父の胸ぐらをつかみ、外に引きずり出して、あらん限りの力でボコボコに殴りました。“抵抗しない人を殴るなんて”と言った通行人に、私はうるせえんだよと涙目で睨みつけた。父は、“いいんです。すべて俺が悪いんです”と言っていた。私は怒りを止められず、“おまえのせいでおばあちゃんも弟もあんなふうになったし、私もこの家で暮らせなくなったんだよ。全部おまえが悪いんだよ”と殴り続けました」

 騒動に気づいた親戚が家から飛び出してきて止められた。道に投げ出されたバッグの中から包丁が覗いており、親戚が慌てて回収するのが見えたという。

父が遺書に綴った娘への愛情

 それからナナコさんは徐々に、生きようと思うようになった。今までの気持ちをすべて父にぶつけることで少し気持ちが晴れたのかもしれない。

 生きづらさを抱える人が集まる場所へ積極的に出かけ、そこで知り合った男性と付き合い始めた。ちょうどそのころ、今から10年ほど前に、父は刑務所で亡くなった。死因は肺炎だった。自殺でなくてよかったとナナコさんはつぶやいた。

 ナナコさん宛ての長い遺書があった。ナナコさんにもいくらかの財産が分与されるが、それは人のために使うな、自分のために使ってほしい、ナナコは優しいから心配なんだと書かれていた。

 ナナコさんが撮影した、その遺書の写真を見せてもらった。父が一生懸命書いたのだろう。丁寧で律義な文字が並んでいた。もともとはきまじめな人だったのだとその筆跡が教えてくれる。印象的だったのは、ナナコもきっとお父さんのことを好きでいてくれたのではないかと書いてあることだった。それはおそらく父の切なる希望だろう。

 家族がみな大変な思いをし、バラバラになったのは父のせいだ。ナナコさんはそう感じていたから、遺書のその言葉には反発を覚えた。

 ただ、ナナコさんも覚えていた。幼い日、背負われた父の背中のぬくもりを。

「お父さんのお嫁さんになると言ったころのことが思い出されました。父の死を悲しめるのが不思議でもあった。父がどんなに私を愛していたかも書かれていたけど、それなら薬物をやめてくれればよかったのにとも思う。でも自分の意志でやめられるものではないらしい。適切な治療を受けられればよかったのに……」

 ナナコさんが付き合っていた男性と結婚して4年になる。祖母と父が相次いで亡くなり、彼女は母と離れ、人生でいちばん穏やかな時間を過ごしていると微笑む。

 激動の若い時期を、彼女は心揺れながら迷いながら、時にひきこもりながら、それでも必死に生きてきた。だからこそ、自分の意見をきちんと伝えられる大人として、どの場においても存在感を放つことができているのだろうと改めて感じさせられた。

亀山早苗(かめやま・さなえ)●ノンフィクションライター。1960年、東京生まれ。明治大学文学部卒業後、フリーライターとして活動。女の生き方をテーマに、恋愛、結婚、性の問題、また、女性や子どもの貧困、熊本地震など、幅広くノンフィクションを執筆

 

祖母宅に着くと父が「よく来たね」と玄関を開け、その父の胸ぐらをつかんだナナコさん(イラスト/小林裕美子)

 

外に引きずり出して、あらん限りの力でボコボコに殴りに(イラスト/小林裕美子)

 

「抵抗しない人を殴るなんて」と言った通行人に、「うるせえんだよ」と涙目で睨みつけた(イラスト/小林裕美子)

 

父は「いいんです。すべて俺が悪いんです」と言っていた。(イラスト/小林裕美子)