2020年10月。歌手の辺見マリ(72)が古希の誕生日を迎えてすぐのこと。娘でタレントの辺見えみり(46)の家に遊びに行くと、こう言われた。
「お母さん、今日は顔色が悪いね。食欲もないし、どうしたの?」
大きな病気をしたことは一度もなかった
トントントンと脈が異様に速い。しんどくて起き上がれず、マリはそのまま娘の家で休ませてもらった。数日後に大きな病院に行くと、頻脈性心房細動とそれに伴ううっ血性心不全だとわかる。
「『今すぐ入院です』と言われて、『えー!!』って。すぐ娘に荷物を持ってきてもらったけど、コロナで大変な時期だったので、もう、ややこしいことがいっぱいで」
そのときは数日で退院したが、昨年6月に心臓のアブレーション手術を受けた。カテーテルを通して、不整脈の一種である心房細動を起こす患部を焼く治療だ。
マリは、「怖かったですよ」と顔を曇らせる。
「今、思い出しただけでもイヤ。涙が出てきます。全身麻酔じゃないから4時間半の手術の間、4、5回『痛い』と言ったのを覚えています。先生には、『マリさん、ほとんど寝ていましたよ』と言われましたけど(笑)」
それまで大きな病気をしたことは一度もなかったのだが、実は、心不全で入院する1年前から身体のトラブルが続いていた。
最初は多くのゲストを招いたコンサートツアーで四国を回っていたときのこと。滞在先のホテルで夜中に転んで右足を骨折したのだ。
当時のマネージャーの加藤さんはマリのただごとでない様子を見て、すぐ救急車を呼んだという。
「マリさんは非常にせっかちで、おっちょこちょいなんですよ。最初はすーごく痛がっていましたけど、笑顔で『大丈夫、折れているだけだから』と言って、翌日の舞台にも車椅子で出て。青い三角定規のクーコ(西口久美子)さんが車椅子を押してステージ中央まで連れていってくれたり、着替えるのも1人では大変だから、あべ静江さんとかロザンナさんとか共演者の皆さんが協力してくださって、ツアーを続行できたんです」
骨折が治るとすぐ、今度はインフルエンザA型、B型に同時感染してしまう。いつまでも咳がおさまらず、ステージの上でも苦しんだとマリは振り返る。
「歌っているときに声をコントロールできなくなってしまって、お客様に謝ったんです。本番が終わって喜びで泣くことはありましたけど、悔しくて泣いたのは初めてでした。それで、次が心臓でしょう。本当に、初めての“経験”をいろいろさせてもらいました(笑)」
大変な事態も自身のヒット曲『経験』にかけて、笑い飛ばしてみせる。さすが長年ステージでトーク力を磨いてきただけのことはある。
悪い癖が出そうな時に口にする「言葉」
大病を経て、何か心境に変化はあったのかと聞くと、こう答える。
「もともとクソまじめだから物事を突き詰めて考えちゃったりするし、わりとマイナス思考なんですよ。例えば私の心臓の病気は手術をしても全快はしないから、だましだましじゃないけど、ずっと病気とともに生きていかなきゃならない。夜寝るとき、このまま息が止まっちゃったらどうしようとか考えると怖くなって、眠れなくなる。だから、もう、こんなこと考えちゃダメ! 余計なことは考えないでおこうと、結構、自分との闘いをしているんです」
悪い癖が出そうなときは、こう口にするようにしている。
「ま、いっか!」
勢いをつけて強い口調で言うのがコツだ。すると「良い加減に」力が抜けて楽になるのだという。
昔は、そんなふうにうまく気持ちをコントロールできなかった。若くして歌手の西郷輝彦さんと結婚して2児を出産。離婚後は両親と子どもたちとの生活を1人で支えてきたが、不安でたまらなかった。そんなとき言葉巧みに近づいてきた拝み屋の女性に洗脳され、13年間で5億円もの大金をだまし取られたのだ。
失ったお金は戻ってこなかったが、洗脳が解けた後は家族の信頼を取り戻し、孫にも恵まれたマリ。
「今は幸せです」
そう言い切って、穏やかな笑顔を浮かべる。
「全財産失っている人間ですから(笑)。まあ、気楽っちゃ、気楽なんです。残すものもないから、遺書は書いてもしょうがないけど、とりあえず子どもたちへの感謝の気持ちをノートに書いてみたり、終活的なこともやるようになりました」
自宅には亡き母が残した大量のスクラップ記事や写真、アルバムなどがあり、いつも見える場所に飾っている。10歳になるえみりの娘が遊びに来ると、華やかなドレスを着て歌う若き日のマリの写真を見て、興味津々で質問をしてくる。
「ばーば、昔はこんなだったの?」
「そうよ。こんなふうに歌ってたのよ」
マリが答えると、孫は目を輝かせてほめてくれる。
「ばーば、すごーいきれい!」
今のマリにとって、孫と過ごすひとときは、かけがえのない幸せな時間だ。
自分がハーフだと17歳まで知らなかった
マリが生まれたのは神奈川県逗子市。2歳で京都市に移り、流しの歌手をしていた父と明るい母に育てられた。母親は父とは再婚で、マリの実の父親は進駐軍の将校として日本に駐留していたスペイン系アメリカ人なのだが、マリは自分がハーフだと17歳になるまで知らなかったそうだ。
「確かに私は髪の色がみんなとは違っていたし、肌も白かったんです。でも、私に疑われないように、母も自分の髪を明るく染めていたから、ずっと自分は周りと同じ日本人だと思ってました(笑)」
マリが幼いころ双子の弟が生まれたが生後間もなく亡くなり、その後は一人娘として大切に育てられた。終戦後のまだ貧しい時代で、共同のトイレ、台所の間借り生活だったが、両親は4歳のころからバレエを習わせてくれた。
「そうしたら幸せなことに、才能を発揮してしまったんです(笑)。回るのでも、すぐできちゃう。親も、これで将来、身を助けられると考えたのか、レッスンの回数がどんどん増えて、週に1日しか休みがない感じでした」
それほど熱心に打ち込んでいたバレエだったが、徐々に気持ちが離れていく。マリが男性舞踊師と組んで重要な役を踊るようになると、女性の先生に焼きもちを焼かれるようになったのだという。
「男の舞踊師さんがうちに遊びに来て、母の作ったごはんを食べて楽しく話しただけで、役を降ろされたことも。たぶん、先生はその舞踊師のことが好きだったんですね。だから、こんな狭い世界は嫌だなと思い始めたんです」
中学生の時に開いた世界への扉
マリにとって学校もあまり居心地のいい場所ではなかった。大勢で遊ぶのは苦手で、友人ができても、なぜか意地悪をされる。
「遠足とかで、お弁当を友人と食べられると思っていたら、無視されて私は行くところがなくなったりして。殴ってきたら殴り返すんだけど、無視だからいちばんキツいんです。中学のときも同じようなことがあって、3人組の友達がいたんですが、いつも私以外の2人でつるんでいて、私は1人だったなーと。だから、学校はあまり好きじゃなかったし、早く、別の大きな世界に行きたいという思いがずっとありましたね」
中学3年生のとき、思わぬところで新たな世界への扉が開く。
京都会館で歌謡ショーがあり、大ファンの布施明が出演すると知ったマリは見に行くことに。京都会館はバレエの発表会で何度も舞台に立っており、スタッフみんなと顔なじみだ。「布施さんのサインが欲しい」と言うと楽屋に入れてもらえた。
廊下をうろうろしていると、見知らぬ男性に声をかけられた。
「君、踊れるって聞いたけど、歌は歌える?」
そのころからマリの美貌は際立っていたのだろう。男性は歌謡ショーを主催する芸能プロダクションのマネージャーで、ひと目見てスカウトしたのだ。
だが、歌には自信のなかったマリは思わず、こう返してしまう。
「私、音痴ですから」
すぐに先生を探して発声法やクラシックまで学んだ。
あるとき鴨川のほとりで大きな声を出して歌っているとカップルにとがめられ、マリはこう言い返した。
「あんたらだけの鴨川ちゃうやろー」
とそれほど歌に熱中していたのだ。
高校2年生で休学し、母と2人で上京する。スカウトされた後は長い休みのたびに、歌の成果を見てもらいに東京に行っていたが、それでは、いつまでたってもデビューできないと思ったからだ。
東京のホテルに滞在しているとき、「変な形で耳に入るとよくないから」と、母から実の父の話を聞かされた。
「ものすごく不思議な感じでしたね。私はちょっと毛色が違うんだとうれしさもあったし、お父ちゃん、本当の父親のように育ててくれて、ありがとうという感謝の気持ちもありました」
『経験』でブレイクも、結婚し引退を決意
念願のデビューは1969年、19歳のときだ。
先にデビューが決まっていた森進一のお披露目会で、勉強中の身として1曲歌って帰ってくると、廊下で男性マネージャーに「今度、僕が担当するから」と言われた。
「ドキッとして、『決まったーー!』と。あの瞬間は最高でしたね」
デビュー曲はあまり売れなかったが、翌年に出した2曲目の『経験』でブレイクする。「やめてぇ」と吐息交じりのセクシーな歌い方が、大人びた容貌と相まって、多くの人の心をつかんだのだ。
「ザ・ドリフターズさんの前歌をさせていただいて四国を巡業で回っていたときです。私が『経験』を歌い終わると、いつもと違って、ものすごく拍手が多かったんですよ。不思議に思って舞台袖に戻ったら、統括マネージャーがいて『マリ、大阪から火が付いたよ』と。もう、うれしくて、鳥肌が立ちましたね」
その年のレコード大賞新人賞などいくつもの賞を受賞し、NHK紅白歌合戦にも初出場する。睡眠時間は1日3時間ほどで、家に帰って化粧も落とさずに寝てしまい、母親に「またニキビが増えるよ」と怒られた。
ところが、ブレイクからわずか2年後の'72年。歌番組で共演した西郷輝彦さんと交際していたマリは、22歳という若さで結婚。あっさり引退してしまう。
「芸能界でスターになることだけが私の夢ではなかった。愛する人ができたら結婚するというのも、私のもうひとつの夢だったんですね。結婚と仕事。2つは同時にできないから、自分は縁の下の力持ちになろうと思ったんです。3歳上の西郷さんは頭もよくて、すごくエネルギッシュな方でした。お互いに若くて、カーッとして情熱で結ばれたけど、そのおかげで私は子どもたちというプレゼントをもらえたんです」
結婚した翌年に長男、26歳のときに長女えみりを出産し、マリは2児の母になった。
一方、西郷さんはテレビドラマ『どてらい男』(関西テレビ制作)に主演。3年半にわたるヒットシリーズになり、大阪での撮影が続いた。
「育児に追われる私の様子を見兼ねて、私の両親と一緒に暮らしたらと西郷さんが言ってくれたんです。そのほうが自分も安心して留守にできると。だけど、両親と住んだことが、別れるきっかけになった部分もあって……。皆が気を使いすぎたのかもね。西郷さんはだんだん家に帰ってこなくなって、別居して、結婚生活は9年間で終わりました」
マリはクイズ番組のアシスタントを頼まれたのをきっかけに、仕事を再開。30歳で離婚してからは、両親と子どもたちとの生活を支えるため、懸命に働いた。
だが、復帰直後はコマーシャルなど大きな仕事もあったが、新たなヒット曲には恵まれず、次第に地方の温泉地でのショーやキャバレーで歌う仕事などがメインに。デビュー当時のセクシーなイメージが強すぎて、映画やテレビドラマから出演依頼が来ても、脱ぐ仕事ばかりで、断ることも多かった。
拝み屋からの金銭要求もエスカレート
復帰から8年後、38歳のとき洗脳地獄に落ちる。当時のマネージャーのSに誘われたのが始まりだ。
「僕の知り合いで、神様と話せる人がいるんですけど、会ってみませんか?」
「コイツ、何言うてんねん」
最初は心の中で笑っていたマリが、会ってみようという気持ちになったのは、思うように仕事ができない不安と焦りがあったからだ。
「辺見マリって、まだやっているの? もう古くねえ?」
自分のディナーショーのポスターを見た人が、そんな悪口を言うのを偶然聞いてしまい、ひどく落ち込んだ直後でもあった。
拝み屋と称するKは、会ってみるとごく普通の中年女性で、話を熱心に聞いてくれた。そして、マリが心の中に抱えている悩みを次々と言い当てる。裏でマネージャーのSがマリの情報を逐一伝えていたので当然なのだが、疑うことを知らないマリはKの霊能力をすっかり信じてしまい、何でも相談するようになった。
最初はマリのほうから5000円、1万円程度を謝礼として渡していたのだが、ある日を境に、Kは厄払いのお金を請求するようになる。
「このままだとえみりちゃんの目が見えなくなりますよ。悪い厄を取り除かないと」
「このままだと息子さんがグレてしまう。お金を払えば救えますよ」
厄払いをするたびに、5万円、10万円、20万円と金額は増えていく─。
いかにも怪しげな話だ。お金を要求された時点で、おかしいと感じなかったのか。疑問をぶつけると、マリは淡々とした口調で説明する。
「やっぱり深みにハマっちゃったいちばんの原因は、私の弱さじゃないですか。もし、厄払いをしないで、自分のいちばん大切な家族が不幸になったら、取り返しがつかないと思ってしまって……。ああいう人たちって、人の寂しさとか弱みにつけ込むのが、ものすごくうまいんです」
マリをいいカモだと思ったのだろう。Kは次に囲い込みに入る。手口はこうだ。
当時、Kの周囲にはSのほか、Kの夫と息子、友人の女性A一家がいた。修行と称して、皆で毎日集まって拝んでいたのだが、わざとマリだけ誘わない。それはマリの嫉妬心をあおって仲間に引き入れるテクニックなのだが、子どものころ仲間外れにされた経験のあるマリは、簡単に引っかかってしまう。
「何回もKのもとに通っているのに、私だけ仲間に入れないのがイヤで。おかしいと思われるかもしれませんが……、自分から一緒に修行させてくださいと頼んだんですよ」
修行は朝から夜まで続く。マリが毎日、修行に出かけるようになると、心配した両親や友人たちにやめるよう諭されたが、マリはまったく耳を貸さなかった。
途中でKがいなくなり、代わりにAが主導権を握ると、要求される金額も桁違いに増加する。だが、マリはどんな手段を使ってでも、お金を用意したそうだ。
「何度も、何度も繰り返されると、感覚がマヒしてくるんですよ。貯金がなくなると、生命保険を解約して、すべての宝石を売って、そして家までも……。自分のヘアヌード写真集も出したし、えみりが15歳でタレントデビューすると、その契約金まで渡しました。借金したお金も含めて、13年間で5億円です。異常ですよ。でも、それが洗脳なんです」
洗脳から覚めるも、お金は戻らなかった
長く続いた洗脳が解けたのは、歌のおかげだった。
洗脳されている間、マリはほとんど仕事をせず修行をして過ごしていた。Aはマリが工面したお金から、生活費をマリに渡していたので、日々困ることはなかった。だが、いよいよお金が尽きるとAはマリを歌の仕事に復帰させる。
そうして外の世界と触れたことで、マリの心に変化が起きたのだという。
「舞台で歌って、お客様から温かい拍手をいただく。それを何度もくり返しているうちに、なんか違和感を覚えるようになったんですね。Aたちといると居心地がよくて、なんでもわかってくれる仲間だと思っていたはずなのに、そっちが違う世界なんじゃないかと」
決定打になったのは、Aと始めたダイエット教室での出来事だ。
修行中に体重が増えたマリは歌手として復帰する前にダイエットをした。その成果を本に書いて生徒を募ったのだが、入会金として集めた2000万円をAが持ち去ってしまったのだ。
「自分を信じて入会金を払ってくれた生徒さんたちに申し訳ない……」
そう感じて、マリは心の底から怒りが湧いてきた。
そんなとき、Aから再び電話がかかってくる。
「また、お金を送って」
「ざけんなよ!!」
受話器に向かって怒鳴りながら、マリはやっと目が覚めた─。
警察に相談してもお金は一円も返ってこなかったが、家族の絆は取り戻すことができた。子どもたちは成長すると早々に家を出てしまい、それ以来断絶状態だったが、マリの洗脳が解けると交流が復活したのだ。
「娘には『あのときは形相が変わっていた』って言われました。お母さんは頑固だし何を言っても聞かなかったと。だけど自分の力で戻ってくると、信じて待っていてくれたんですよ。普通なら、もう親子の縁を切られてもおかしくないのに……。本当に感謝しかないです」
しばらくしてマリは年下の男性と再婚したが、数年で離婚。その後は、仕事をしながら、高齢の両親の面倒を最後までみた。
人気バラエティー番組『しくじり先生 俺みたいになるな!!』(テレビ朝日系)に出演して、話題になったのは8年前だ。マリは「洗脳されて5億円失っちゃった先生」 として、2回に分けて熱い授業を行ったのだが、最初は「出演を迷っていた」と、前出のマネージャーの加藤さんは明かす。
「洗脳に関しては、それまでも、いろんな週刊誌とかに取材されて話してきたけど、曲がって伝わっちゃうから、『もうイヤだ』という感じだったんです。マリさんは家族を心配してのめり込んだのに、宗教が好きでハマったみたいに書かれたりしたから。
だけど、しくじりのスタッフは、本当に真摯に話を聞いてくれて、マリさんもここまできちんとやってくれるなら、何も隠すことはないと言って、出ることにしたんです」
番組の中でマリは自分がだまされた手口を事細かに教え、洗脳される恐怖を伝えた。そして、信じて待っていてくれた家族への感謝を涙ながらに語ると、すさまじい反響があった。多くの視聴者から「神回」と称賛されたほどだ。
マリは改めて、家族の支えの大切さを訴える。
「家族が洗脳されて苦しんでいる人は今もいるかと思います。でも、家族が諦めたら終わり。いつか気がつくときがくると、信じてほしいです。どこかに洗脳を解くカギがあるはず。絶対はないかもしれないけど、あると信じたいです」
コロナ禍を機にショートのグレーヘアへ
現在、息子は仕事の都合で離れた地で暮らしているが、娘のえみりはすぐ近くに住んでくれている。
「私に恩返ししたいからと。こんな迷惑ばっかりかけてきた親なのにね……。娘には『お母さんは甘えないからなー』ってよく言われるので、またここで、私が肩肘張って何かして迷惑かけちゃいけないと思って(笑)、娘たちと一緒に食事したり、甘えて楽しむようにしていますよ。いろいろ娘にはお世話になっているから、私も少しでもお返ししたいと思って、えみりが忙しいときは孫を預かっています。孫と過ごすのも、楽しみだしね」
病気をしてからは、無理をせず自分のペースを守ることを心がけている。コロナ禍で仕事が途切れたときも、あまり先のことは考えず、できることを探したそうだ。
そのひとつが、グレーヘアにしたこと。染めるのをやめて、長かった髪をバッサリ切って、ショートにした。
「10年以上前から頭皮がすごく弱くなってきていて、このまま髪を染めていたら、ただれて湿疹が出ますよと美容室で言われて。コロナで人前に出なくなったから、よし、今やろうと(笑)」
これまでのドレッシーな衣装は似合わなくなってしまったので、思い切って30着以上、処分もした。グレーヘアにしたことは、過去の自分を脱ぎ捨てる踏ん切りともなったが、周囲の人たちからも評判はいい。今の髪型にはどんな衣装がいいか、頭を悩ませていると笑顔で話す。
「ずっと歌って踊ってきた職業病か、腰を痛めて、ヒザを痛めて、もう本当に身体はガタガタです(笑)。でも、お客様が、ああ、辺見マリさん、まだ頑張っているわ、なんか元気もらえるよねーと思っていただけたら、私たちの仕事はオーケーかな(笑)」
いくつになっても、新たな“経験”を重ねていくマリの姿に、勇気づけられる人はたくさんいるに違いない。
<取材・文/萩原絹代>
はぎわら・きぬよ 大学卒業後、週刊誌の記者を経て、フリーのライターになる。'90年に渡米してニューヨークのビジュアルアート大学を卒業。帰国後は社会問題、教育、育児などをテーマに、週刊誌や月刊誌に寄稿。著書に『死ぬまで一人』がある。