お笑いの世界は大きく変化しつつある。女性芸人が多数登場し、女性が自らのアイデアと表現で人を笑わせる、新しい時代となった。「女は笑いに向いてない」と言われた時代から、女性が人を笑わせる自由を手に入れるまで。フロンティアたちの軌跡と本音を描く連載。かしまし娘で活躍した、正司花江さんの第2回。
ストリップ劇場では初日に“もう来なくていい"
3歳で舞台を踏んだ花江さんは、13歳のときに、「漫才が嫌いやった」のに、2つ年上の姉・照枝さんと、ふたりで漫才コンビを結成。ところがこれがちっとも売れない。どん底時代から、三人姉妹でかしまし娘として花開くまで。
それまで、次女の照枝さんは少女漫才師として、三女の花江さんはひとりで少女歌手として別々に活動し、どちらも人気だったが、昭和23年、ふたりで漫才コンビを組んでみたら、これがうまくいかない。花江さんは漫才の難しさを痛感したという。
「小さい子でもない、大人でもない、中途半端な年齢って難しいんです。ストリップ劇場の出番をもらって漫才やったら、初日に“もう来なくていい"って断られたこともあります。男の人たちはストリップを楽しみにして来てるのに、こんな年ごろの子どもが出てきたら、自分の子を思い出してしまうから、あかんって言われて。本当に情けなかった。そんなことばっかりでした」
生活も苦しかった。実の母が亡くなってから父と再婚した新しい母は、着物を質屋に持っていき、生活費にしていたこともあるという。
「なんとかしたいと思って、先輩のきょうだい漫才師、夢路いとし、喜味こいしさんの家に、“漫才ウケへんねん。教えてちょうだい"と、押しかけたりしたこともありました。そこで、間のとり方を教えてもらったり、“きょうだいのこんなネタあるけど、やってみたら?"とかアドバイスもらったりしてね」
7年続けて、なんとか形になってきたときに、親の反対を押し切って結婚し、家を出ていった長女の歌江さんが戻ってきた。長く苦しんだヒロポン中毒も、克服しての復活だった。
昭和31(1956)年、歌江さん、照枝さん、花江さんの三人姉妹でかしまし娘を結成。初舞台は大阪のストリップ劇場だった。
「照枝姉ちゃんとふたりで漫才をしてたときは、全然ウケへんかったのに。歌江姉ちゃんが戻って3人になったとたんに初舞台からうまいこといったんです。不思議なもんですね」
かしまし娘は一気に人気となった。ちょうど民間放送が開始されたばかりでもあり、ラジオやテレビにも多数出演。
「1日3本テレビで漫才をするというスケジュールのときもありました。ところが、ウチらは漫才作家の先生に書いてもらった舞台用の20分のネタが1本あるだけ。プロダクションの社長に“ネタ3本もありません"って訴えたら、“テレビの出番は10分やから、20分のネタをちょっとずつ延ばして3本にしたらええがな"と言われて。
だからオチないんですよ。適当なとこで、“これでおしまい"とエンディングの歌に入る。まぁ、ええかげんなことが許された時代です(笑)」
1日に大阪と東京を飛行機で2往復
旅回りの一座で生まれ、それぞれ幼いころから舞台に立ってきた三姉妹。生放送でも、ネタがなくても、音楽やかけあいのおしゃべりで、人を楽しませる力があった。
「流行歌もすぐに取り入れて歌っていました。ずっと我流でやるのはどうかと思って、音楽教室にも通ってギターの稽古をしていたし。ウチはメロディー担当なんで、何回も聴けば、だいたい弾けたんです。ところが、2番目の姉はコード担当のギターなんですが、人にコードをつけてもらってもなかなか覚えへんの。
私が“なんででけへんの?"と責めたら、涙ぽろぽろ流してたこともあります。いちばん上の姉は、1回聴いたら、すぐ三味線で弾ける。その点はすごいんですけど、間違ったとこを弾いても平気な顔しているんです。あまりに堂々としてるんで、こっちがつられて間違ってしまうぐらい。さすがに長女ですわ(笑)」
大阪の朝日放送と民放専属契約をし、安定した生活を送れるようになった。
「嫌いやった漫才は、やっぱり好きにはなれなかったんですけどね。でも笑ってもらえると、こんなうれしいことはない。逆にウケないときは本当につらいんです。北海道苫小牧の劇場では、ちっともウケなくて。ギター抱えて途中で帰りたかったわ。
関西のテレビにはけっこう出てたのに、全国放送じゃなかったんで、知られてなかったんでしょう。大阪弁も伝わりにくかった。それから全国区にならなあかんと思ったし、標準語に近い大阪弁で漫才やろうと気にかけるようになりました」
売れっ子時代のスケジュールはすさまじかった。
「1日に大阪と東京を2往復することもありました。当時はまだ新幹線が通ってなくて、移動はほとんど飛行機。飛行機が出なかったりすると大変でね。そんなときは待つしかないんで。マネージャーも一緒に麻雀してました。忙しくて、そんなときしか遊ばれへんから。折り畳みの麻雀台を持ち歩いて、空き時間に打ってたんです」
麻雀は、姉妹の中で花江さんがいちばん強かったらしい。
「負けず嫌いなんですよ。麻雀の打ち方よりも、点数計算を先に覚えました。ごまかされへんようにね。小さいころからひとりで巡業に行ってたから、自分でなんでもやることが身についてたんです」
結婚したくなくて、泣いてイヤがった
世の中は高度成長期。忙しくても、おしゃれやレジャーも楽しんだ。流行のミニスカートもいち早く着て、舞台で披露。
「お父ちゃんには“太い脚を出してカッコ悪い"って叱られましたけど。流行は取り入れたほうがいいでしょ。私は何でも人より先にやりたいの。昭和30年代に、ゴルフもやってたし、運転免許も取りました。“これからの女は運転ぐらいできたほうがいい"と思って、習いに行って。試験もちゃんと1回で通ったんですよ」
人気絶頂だったころ、花江さんは28歳のときに結婚。
「ウチは結婚したくなくて、泣いてイヤがったの。小さいころから芸能界にいて、女の人をダマす男の人をたくさん見てきたから。結婚なんかせんと、好きな舞台をやっていたかった」
長女の歌江さんの強烈なすすめに押し切られたという。
「歌江姉ちゃんが“この人やったら間違いない"と勝手に話を進めてしもて。顔は知ってる程度の相手と、無理くり結婚したという感じでした。別府に新婚旅行に行く途中でも、まだイヤやなぁと思ってたんですけど。現地に着いたら、2番目の姉が『おーい!』と突然現れて。ウチが途中で逃げて帰ってこないように見張りにきたらしい。だから照枝姉ちゃん同行で、新婚旅行をしたんです(笑)」
相手は7歳年上の放送局のディレクター。花江さんが仕事を続けることは最初からの条件だった。
「ウチは朝から晩まで働いて、泊まりの仕事にも行く。夫はよう辛抱してくれはったと思います。そのかわり、家に帰って来られるときは、自分で料理するようにしてました。親と一緒にいたら上げ膳据え膳やけど、結婚したらそうはいかん。
でも、夫はお給料を全部渡してくれてましたから。生活費は夫の稼ぎでやりくりして、私の収入は全部貯金。おかげで家も買えました。あれだけイヤがったのに、結婚したら1回もケンカせず、うまいこといったんです。強引にすすめてくれた歌江姉ちゃんに感謝ですわ」
仕事もプライベートも充実していた。しかしやがて、共演者にイヤがられるほど、姉妹は激しいケンカをするようになってしまう─。
構成・文/伊藤愛子●いとう・あいこ 人物取材を専門としてきたライター。お笑い関係の執筆も多く、生で見たライブは1000を超える。著書は『ダウンタウンの理由。』など