沢田研二が再び注目されている。いや、もう“再び”どころではないか。三度、四度、時代が彼を呼ぶ。2022年末からはツアー「まだまだ一生懸命 PARTII」がスタートし、2023年6月25日にはツアーファイナルバースデーライブが開催される。
それに先立ち、6月13日にBS-TBSで放送された特別番組「沢田研二 華麗なる世界 永久保存必至!ヒット曲大全集」は、1970年~1980年代のヒット曲が全24曲流れ、ツイッターでも「#沢田研二」がトレンド入り。映し出される若き日の沢田研二はギョッとするほど美しく、ドラマチックであった。
彼のニックネーム「ジュリー」は、テレビ全盛期の昭和時代、エンターテインメントの扉を開く暗号の如く、歌、演技、ファッション、あらゆるジャンルで躍動していた。1960年代後半は、GSブームを牽引するバンド「ザ・タイガース」の王子様。1970年代はじめは、危険な妄想の恋人、1970年代半ばは不埒で気障な男、1980年代はTOKIOに輝く未来へのナビゲーターとして。
またある人は、ドラマ『悪魔のようなあいつ』(1975年)をはじめとした俳優・ジュリーを思い浮かべ、音楽通はザ・タイガース解散後に結成したバンド「PYG」の存在感を力説する。
そして今、彼はテレビから離れ、ライブ活動を精力的に行い、評判も高い。そんなジュリーについて、ザ・タイガース時代からの盟友・岸部一徳は、前出の特番でこう表現していた。
「“ジュリー”に負けなかった、“沢田研二”」
阿久悠が待ち続けた「気障」の体現者
多くの職業作家、クリエイターたちが彼の歌声と存在感に刺激を受け、自らの世界を広げた。なかでも沢田研二を時代の寵児へと押し上げ、自らの世界も開いたのは、作詞家・阿久悠である。
ザ・タイガース時代から「歌舞伎の女形が持っているような匂いがある」と彼に注目し、14thシングル「時の過ぎゆくままに」(1975年)で初タッグ。沢田研二最大のヒットを記録した。そして19thシングル「勝手にしやがれ」(1977年)では日本レコード大賞に導く。その後も「カサブランカ・ダンディ」(1979年)など名曲を連発した。
つねに時代の先端を行くジュリーだったが、阿久が彼に託した楽曲は、新しい価値観ではなく、むしろその逆。古き良き時代へのノスタルジィーである。
西城秀樹が「沢田研二さんと僕は、阿久悠さんの中では、シャープとフラットの関係だったんじゃないですかね……」(『星をつくった男 阿久悠と、その時代』重松清著、講談社文庫)と話したというが、「戦後」という時代を楽器とするならば、まさに言いえて妙だろう。若者らしい情熱とパワーを阿久から与えられたヒデキに対し、ジュリーが担ったのは、時代への疑いや迷いだ。
「昔は良かった」と懐かしみ、後悔、失敗、挫折に浸る。「ワイン」という歌詞が多いのも、潰された思いや夢が心で熟成し、美しい思い出になる日が来ると言い聞かせるようだ。「男たるもの、こうありたい。そのために君もこうしてくれ」という「~くれ」も多い。そのわがままさは、まさに「勝手にしやがれ!」と言いたくなるような世界であるが、それがたまらなく愛しいのだ。
阿久が理想とした「気障、やせ我慢」という美学を、ジュリーという素材に思いきりぶつけ、それをジュリーが120%の表現力で返すというコンビネーション。まさに、ジュリーというワインに時代が見事に酔わされた。阿久悠が作詞、沢田研二が歌唱だけでなく作曲も担当した「麗人」(1982年)は、躍動感とエロス、タブーがギュッと詰まった名曲である。
「悪趣味」をギリギリ回避した「耽美」
大ヒット曲「勝手にしやがれ」の誕生にはこんなエピソードがある。
1960年のジャン=リュック・ゴダールの同名映画に感動した阿久は、この映画の主人公のように「おかしく、悲しく、ぶざまで、カッコいい」世界観を歌で作りたいと思っていた。しかし、なかなかそれを歌える個性と出会えず、構想から8年後、ようやく沢田研二という逸材と出会うのである。「勝手にしやがれ」は長年の夢の成就だったのだ。
そして、阿久は生前最後となったインタビューで、こう語っている
「『勝手にしやがれ』『サムライ』『ダーリング』『カサブランカ・ダンディ』……ああいう世界は自分の中では好きでしたけれども、沢田研二と巡り合わなかったら書かなかったでしょうね。うまくハマったからよかったものの、ちょっと外したらかなり恥ずかしい(笑)」(『阿久悠 命の詩 ~『月刊you』とその時代~』阿久悠著、講談社)
確かに、阿久の提供したジュリーの曲は、照れたら終わり。“カッコいい”と“カッコ悪い”の分かれ目ギリギリだ。ジュリーは阿久悠の危険な賭けに巻き込まれた感もあり、そのプレッシャーたるや想像を絶する。
そして、沢田研二はこんなコメントをしている。
「僕は正直に言って、阿久さんの詩はあまり好きではなかったんです。はっきり言いすぎる。カッコ良すぎると思ったんです。(中略)これだけ強い詩を用意してこられると、僕は僕でそれに負けないようにしなくちゃいけない」(『阿久悠 歌は時代を語り続けた』阿久悠著、NHK出版)
「好きではなかった」「負けないようにしなくちゃいけない」の言葉に、苦手というより、楽曲の「難しさ、ハードルの高さ」を感じる。そして、楽曲で表現される、時代にはぐれ堕ちていく男をどうやって美しく見せるのか? 化粧をしたり、コスチュームを考えたり、彼なりの工夫が始まるのである。
歌謡曲とは、時代に淘汰されるものの置き土産。そういった意味で、時代の頂点を極めながらも、敗者の散り方をこれでもかときらびやかにデコレーションしてきた当時の彼の表現は、コンプライアンス重視と照れの現代においては絶滅危惧、いや、絶滅種といっていい。
言い方を変えれば、彼ほど「昭和」という時代特有の、けだるさ、くどさを感じられるものはない。
歌によってガラリと変える化粧とコスチュームは話題になったが、こちらもカッコいいと悪趣味のギリギリラインである。18thシングル「さよならをいう気もない」(1977年)でイヤリングを着けたのを皮切りに、テレビでのパフォーマンスでも、ウイスキーを噴き出したり、煙草をふかしたり、パナマ帽子を飛ばしたり、演出は派手になっていく。
ナチス風軍服にシースルートップスと刀で独特のデカダンを見せつけた「サムライ」(1978年)は伝説である(今では絶対無理だろう)。セットというより、もはや仮想世界の構築。これが彼の歌声とリンクし、空間や性別などを超越する一つのドラマとなっていた。
極端化していく自分を俯瞰で見ている
制作側もそのこだわりに触発され、歌番組のセットもどんどん豪華になっていったという。「ザ・ベストテン」(TBS系列)では、「TOKIO」(1980年)でデスバレー砂漠のど真ん中で、落下傘を背負った彼を空撮。「恋のバッド・チューニング」(1980年)ではカラーコンタクトを入れ、音楽に合わせて目の色を変えるというクロマキー効果を駆使した最新演出も飛び出した。
どんどんエスカレートしていく華美化。どれも濃厚な絵の具がドロリと画面から流れ出るような迫力がある。
世の中が派手なジュリーに慣れだした1982年、ザ・タイガースが再結成し「色つきの女でいてくれよ」がリリース。ソロでは「麗人」がリリースされた頃だ。濃いメイクとチャイナ風の三つ編みを振り回して歌っていたジュリーが、この曲では、ノーメイクで髪もナチュラル、服装はスーツ。逆に新鮮で、ジュリーがあどけなく見えた。
同曲も作詞は阿久悠。彼が歌う「いつまでもいつまでも」のサビは、ソロで背負い続けた「やせ我慢」とは違い素直なエールに聴こえ、とても印象的だ。
ジュリーは、このように、どこか極端化していく自分を俯瞰で見て、バランスをとっているようなところがあった。孤高の人に見えつつ、ザ・タイガースというホームを大切にするのもそうかもしれない。
また、競争社会を嫌悪する超芸術肌に見えつつ、“売れる”ことをなにより喜んだ。前出の番組「沢田研二 華麗なる世界 永久保存必至!ヒット曲大全集」でも、「ザ・ベストテン」で1等賞にこだわり、ランキングの推移を描いた折れ線グラフに一喜一憂するシーンが映っていた。スイッチの切り替えがはっきりしている。どれだけ世界観がヘビーでも、聴いた後味がどこか爽快なのは、このジュリーのバランス感覚のおかげだろう。
加齢を楽しむように演じる俳優業
必要なら飾る。必要なくなったらはがす。1960年代にはバンドで、1970年代ではソロで“麗しさ”を極めたジュリーが、その後、躊躇なく自らの加齢を受け入れていったこともバランス感覚がうかがえる。特に俳優業では、年を取るイメージトレーニングを楽しんでいるかのようだ。
印象的なのが、1999年の映画『大阪物語』である。市川準監督、池脇千鶴さんのデビュー作で、ジュリーが父親、田中裕子が母親役。ジュリーは漫才師で、愛人を作っては捨てられる。ステテコで髪ボサボサ、ヒゲでヨレヨレ。あまりにもあかんたれな役だ。ジュリーは、実はずっと前から年を取りたかったのではないか、と思ったほど、退廃とは違う“くたびれる”姿をさらけ出していた。
その後、ニュースを見るごとに、白髪が増え、ふくよかになり、“オッサン”になっていくジュリー。若かりし頃とはまた違う、野性の強さのような輝きを放っている。
2021年から2022年は、俳優としてその“枯れ”がハマった当たり年。映画『キネマの神様』『土を喰らう十二ヵ月』で数多くの主演男優賞を受賞した。
特に『土を喰らう十二ヵ月』は、知人に「あれはね、沢田研二の声の良さを再確認できる映画ですよ」とすすめられたが、なるほど。雪のきしむ音、亀の歩く音、葉の重なる音、米を研ぐ音、筍を頬張る音――。自然や命の音が響き、その中心にあったのが沢田研二の声だった。
銀幕で老いと死への畏怖を映し出し、声で生命力を響かせる。映画の沢田研二は面白い。
歌手としては、もう何十年もテレビ出演を控え、ライブをメインに活動している。私が参戦したのは2019年だったが、とにかく飛んだり跳ねたり忙しい。腰をかがめ、ひょうきんに“疲れた”ポーズを取りながらも、再び走るし飛ぶ。1980年代よりかなり横に大きくなった体からは、驚くような美しく太い低音が響いてくる。歌唱力はまったくの衰え知らずだ。
「まいど!」「おいど!」というファンたちとのお決まりのコールアンドレスポンスも、「ザ・ベストテン」で見せていたお茶目な姿そのままだった。世の中について自分の考えを語り、最近の楽曲や新曲が多かったが、「ス・ト・リ・ッ・パー」(1981年)などのヒット曲もリストに入っていた。
「ジュリー!」という黄色い声援が飛ぶ中、手首にスナップを聴かせて左右に体を振る「ジュリー揺れ」が美しかった。
あの「ドタキャン騒動」を経てもなお――
6月25日のさいたまスーパーアリーナのバースデーライブは、ゲストにザ・タイガースの盟友、岸部一徳、森本太郎、瞳みのるも登場する。懐かしい曲と新曲、両方が楽しめそうだ。
「バースデーライブ」「さいたまスーパーアリーナ」といえば2018年、7000人しか集客できなかったことを理由にドタキャンした騒動が思い浮かぶが、あれから5年。今回は、2万枚以上のチケットが完売した――。
しかし、今でも毎回欠かさずライブに行き「時々困ったもんだけどね、ジュリーだし、元気で歌ってくれればそれでいい」と、長い友人のように見守るファンがいる。彼のライブには必ず美容院で髪を整えてから行くファンもいる。まさに憎みきれない“心の恋人”だ。
もちろん、「ジュリーだからしょうがない」という長年のファンだけでは完売にはならないだろう。近年では若者のファンも増えてきているという。
何度も何度も時代をデコラティブにまとっては脱ぎ捨て、年齢を追うごとに、むき出しになっていく。時代の美学を模索し、失敗しても歩み、120%、心配なほどに振り切る。その姿に、改めて引き寄せられる人も多いのではないだろうか。
沢田研二は「まだまだ一生懸命」――。75歳の幕を上げる。
田中 稲(たなか いね)Ine Tanaka
◎ライター
大阪の編集プロダクション・オフィステイクオーに所属し、『刑事ドラマ・ミステリーがよくわかる警察入門』(実業之日本社)など多数に執筆参加。個人ではアイドル、昭和歌謡・ドラマ、世代研究、紅白歌合戦を中心に執筆。著書に『そろそろ日本の全世代についてまとめておこうか。』(青月社)、『昭和歌謡 出る単 1008語』(誠文堂新光社)がある。