かつてテレビで見ない日はなかったマルチタレント・山田まりや(43)にインタビューを敢行。持ち前の明るさでバラエティーに引っ張りだこ、さらには舞台やドラマなどの女優業もマルチにこなすハードな日々に体調を崩した過去も……。その経験から食べものの重要性を学び、芸能活動を続ける一方で、食べものを通じて健全な子どもの成長やシングルマザーを支える活動も行っているという。元祖グラビアクイーンに当時の芸能界での思い出や“現在地”を聞いた。
「15歳でデビューしたので、芸能界には27年いることになりますね! 入りたての時期には先日亡くなられた上岡龍太郎さんとロケに行ったり、松方弘樹さんとバラエティー番組で共演したり、森光子さんと舞台でご一緒したり、赤木春恵さんなど、そうそうたる方々に可愛がってもらっていました。息子を出産したときは、川島なお美さんに立ち会ってもらった思い出もあります」
若くして芸能界でブレークしたことで、当時は珍しがられたという。あの大御所たちとも共演を果たした。
芸能界デビューを決心した理由
「今でこそ10代の女の子たちがテレビに出演されていますが、当時は若い子がバラエティー番組に出ること自体、珍しがられていたんです。それもあってなのか、和田アキ子さんに気に入ってもらえて『若い子代表として『怪傑熟女!心配ご無用』(TBS系)に出なさい』とオファーを頂いたり。時には『立川談志さんと口げんかする』という企画もあったりと、とにかく豪快でハチャメチャな番組は多かったです(笑)」
柔和で明るいイメージのある山田だが、当時は常に気を張りつめた状態だったそう。
「今と昔では、自分の性格もかなり違うんですよ。やっぱり尖っていた、というか尖っていないとやっていけませんでした。10代でしたからお酒を飲んだりして息抜きということもできなかったし、常に猫が『シャー!!』って周囲を威嚇している感じで、気はずっと張りつめた状態でした。
ほかのタレントさんよりも『抜きん出たい』という気持ちは強かったですね。ほかにも『オールスター感謝祭』(TBS系)などのひな壇系の番組では、みんなと一緒に“特攻隊の気持ち”で覚悟を決めてガンガンに攻めていく気持ちでした」
スカウトされて芸能界に足を踏み入れた山田だが、デビューを決心した大きな理由は「父親と離れて暮らすため」だった。自宅でお酒を飲んで暴れることが多々あり、「母親と10歳年下の弟を守らなきゃいけない」という気持ちが強かったという。
「当時所属していた事務所の『イエローキャブ』がマンションを用意してくれるとのことで『シメた!』と思い、実家を出て母親と弟とで引っ越したんです。しかも、私が売れる保証もないのにお給料も前借りさせてくれて。それからは現場に行けばお弁当はあるし車で送迎してもらえたし、メイクもしてもらえるので、お金はそんなにかからなかったんです」
ピーク時はマネージャーが15人も交代
『イエローキャブ』といえば、雛形あきこや小池栄子やMEGUMIなど、数々の人気グラビアアイドルを輩出してきた有名事務所。同事務所の看板とも言える野田義治会長のことを知る人も多いだろう。
「野田会長から『うちは服を着せていく事務所だ』って言われたんです。『名前と顔を売るために、どんな雑誌でも表紙を飾ればそれがお前の名刺になる』、『どこぞの誰かもわからないやつに仕事なんか来ないからな』って。そして『お前は芸能界で何がやりたいんだ』と聞かれたのですが、女優って言っても小学校のころのお遊戯会で“木の役”くらいしか経験がないから『さんまさんとかタモリさんに会いたいですね〜』って言ったんです。そしたら『じゃあバラエティーだな!』って(笑)」
その後はバラエティータレントだけではなく、女優として舞台やドラマにも多数出演するなどマルチに活躍。ただ、当時はまだ弟が幼かったこともあり、グラビアの仕事に対して複雑な思いも抱えていた。
「自分が15歳、弟は10歳も下だったので、グラビアなどの“自分の体でお金を稼ぐ”という仕事が恥ずかしい、という気持ちがどうしてもありました。当時のグラビアは、今みたいに女の子からも支持を得ているというわけじゃなくて。『子どもができた時に誇れる仕事じゃない』って思っちゃったんです。グラビアデビューしたころは、地元のコンビニで自分が表紙になった雑誌を全部隠していました(笑)」
しかし、意外な形でグラビアの仕事に対する価値観が変わったそう。
「ちょっと時間があったので、弟とたまたま『クレヨンしんちゃん』を見ていたら、私の写真(絵)が突然出てきて! しんちゃんが私のグラビアのファンという設定だったんですね。そうしたら弟が興奮して『ねーね出た!』って喜んでくれたことがあって、それが嬉しかったんです。
今って動画配信サービスでも『クレヨンしんちゃん』が見られるので、息子やお友だちも私が出てきたことを嬉しそうに報告してくれるんです。息子に関しては、授業参観でほかのお母さんたちに『ねーねー、山田まりやって知ってる?』って言うんです。ママが芸能人ってことを言うのが嬉しいみたいで」
家族のためにハードスケジュールをこなしていた日々。さすがに体も悲鳴をあげて、倒れてしまった悲しい過去もあった。
「野田会長が仕事をダブルブッキングさせてしまったり、現場に行ったら撮影がない日だったり、スケジュールが混乱するほど忙しかったんです。ヘリで移動したこともありましたね。そのときはマネージャーのほうが保たなくて15人も交代しました。
そのあとに舞台の仕事をやらせて頂いたのですが、そこでついに体が『休んで』ってなったんでしょうね。倒れてしまいました。どうやら食べ過ぎで消化不良になっていたらしく、胃腸の数値がとても悪くなって……。それから健康のことや栄養のことを勉強して、食べるものにも気を遣うようになったんです」
希望に満ち溢れた子どもを育てたい
食べものにひと一倍気をつけていたことで、ひとり息子の『むね君』を出産する際もとてもスムーズだったと明かす。
「私は医療措置のとれない助産院で出産したのですが、それだけ母子に負担がかかることになるからきちんと体を作らなきゃいけなかったんです。私の場合は、白砂糖や動物性の食べものを半年間きっちり抜きました。息子は羊膜に包まれていたから、産道の菌に触れることなく出てきてくれたし、血や、いわゆる出産した際に出てくるベトベトした液体なども全く出なくて綺麗なままでした。
病院の方からは『まりやちゃんが食べものを気をつけた結果だよ』って言ってくれましたね。白砂糖って『冷えさせる・緩ませる・錆びさせる』し、血糖値のアップダウンが激しいのであまりよくないんですよ。陰の力が強くて摂りすぎると子宮口が開きにくくなるから、そういったものを控えていたことで、綺麗に息子を産むことができたんです」
以降も食べものに気をつけながら子育てを続け、むね君は自己肯定感が強く育った。
「主食は玄米食で無添加のものを与えたり、おやつのメニューに至るまで、子どもの食習慣をしっかり考えています。食べもののおかげもあると思いますが、息子が縫わなきゃいけないような怪我をしてもティッシュで30秒くらい抑えるだけで血が止まりますし、治りもとても早いですね。『何が血となり肉となるのか』を小さいときから教えています。食べものによってポジティブになれますし、息子の自己肯定感はとても強いし、めっちゃ元気です(笑)」
食べものの重要性を痛いほど理解しているからこそ、食べものを通して子どもに希望を持ってほしいと語る。
「自己肯定感=希望だと思っていて、希望に満ち溢れた子どもに育てるべきだと思うんです。昨年の子どもの自殺者は500人もいるそうで、それって将来に希望を持てない子どもが多すぎるということ。それって大人の責任だと思います。
自分の感情をコントロールできなかったり、精神的な疾患を持つ子どもって、本当にカップラーメンとかが大好きな子が多い傾向にあるんです。そういう子にビタミンやミネラルがたっぷり入った『お出汁』を与えると、1〜2週間で他人とコミュニケーションが取れたり、自己肯定感が高まるんですよ。
あとは女性の社会進出を目的とした一般社団法人を立ち上げて、シングルマザーの雇用にも尽力している最中ですね。国内の貧富の差はどんどん広がるばかりですし、治安も悪くなるもしれません。だからこそ、色々な世界を勉強しながら、社会に貢献して行けたらと思います」
デビューから27年経った今でも、かつてのパワフルなトーク力は健在。その溢れんばかりのパワーで、これからも周りを明るく照らしてくれるに違いない。
山田まりや(やまだ・まりや)
●1980年生まれ。96年、15歳でグラビアアイドルとしてデビュー。さらに、マルチタレントとしてバラエティー番組に数多く出演。女優としてドラマ、舞台でも活躍。現在は一人息子のむね君を育てながら、食や健康に関する活動を幅広く展開している。
構成・文 綾部和也