クリスタル・ケイ(36)の母・シンシアさん

 在日三世として東京に生まれ、人気シンガー、クリスタル・ケイ(37)を女手ひとつで育てたシンシア(60)。横須賀の海軍勤務の男性と結婚し、23歳で出産。理想の結婚生活に思えたが、ほどなく2人の間に亀裂が入り始める。

夫はあてにならない

夫はまったくあてにならないことがわかり、ベビーシッターに娘を預けて歌う仕事のために店に行くようになりました。私が夜出かけると夫はいい顔をしなかったけれど、当初の約束があるので『やめろ』とも言いません。

 夫とは冷ややかな関係が続きました。私が料理を作っても手をつけてくれず、同じ家に住んでいてもほとんど口もきかないような状態でした。

 今考えると、彼の中でも葛藤があったのでしょう。思いがけず子どもができ、結婚し、家庭を持った。夫として、父親として、どう振る舞っていいのかわからなかったのでしょう。もっと彼の気持ちを考えてあげるべきだった。でも2人ともまだ若く、意地の張り合いになってしまった。

 夫との生活は限界を迎えていました。でも“もうこれ以上ムリ!”と思ったとき、“はたして私はいい妻だったと胸を張って言えるだろうか?”とふと考えた。ベストを尽くしたと言えるまで頑張ってみよう、とそこで決意し直した。相手を思いやり、夜の営みも拒まず受け入れようと決めた。何しろ夫は遠征に出ることも度々で、一緒にいる時間もそう多くはありません」

 1991年、湾岸戦争が勃発。夫も現地へ動員され、不在の日々が続いた。

「夫はブルーリッジという司令艦に乗っていて、彼が所属する横須賀基地の第7艦隊は中東へ総動員されていきました」

娘の才能に気づいたのは2歳タレント性は生まれ持ったもの

「娘も幼いながら心配したのでしょう。テレビでミサイルが飛ぶ映像を見て、

『パパ死んじゃったの?』と娘に聞かれ、

『パパは大丈夫だから!』となだめたこともありました。ただ、夫の仕事は物資を補給する担当で、危険な任務ではありません。中東への遠征は半年以上続いたでしょうか。日本に船が戻ってきたとき、海軍の鼓笛隊が横須賀の港にズラリと並び、それは盛大に出迎えられました」

 シンシアと夫の最大の共通点が音楽だった。マドンナやマイケル・ジャクソン、ジャネット・ジャクソン、プリンスをはじめ、当時はアメリカン・ポップスの全盛期で、家の中は常に音楽であふれていた。

私自身は娘をシンガーにしようと考えたことは一度もありません。ただ、やはりタレント性というのは生まれ持ったもののような気がします。

 娘の才能に気づいたのは2歳のときでした。夫と3人でキャデラックに乗っていたら、後ろの席で娘が何か歌っている。何だろうと聞き耳を立てると、『ドゥーン、ドゥン、ドゥン』とベースラインを口ずさんでいるではないですか。夫は仲間とバンドを組んでベースを演奏していて、かなりの腕前でした。娘もそのDNAを受け継いだのかもしれません。

 根岸でも娘の歌は評判でした。子どもたちが集まるとよく歌合戦が始まって、『私がマドンナを歌う!」』僕はマイケル!』とお気に入りのシンガーの取り合いになったものでした。けれどひとたび娘が歌い出すと、

『クリちゃんが歌っているから、しー!』という雰囲気が自然とそこに生まれます。
娘の才能は次第に仕事仲間の間でも知られるようになっていきました。あるとき、

子どもの声が欲しいからクリちゃんちょっと貸してよ』と声をかけられました。それが娘の“初仕事”。クリスタルが4歳のときのことです」(次回に続く)

<取材・文/小野寺悦子>

 

幼少のころから才能を感じさせていた娘のクリスタル・ケイ。家には楽器などもあり音楽には慣れ親しんでいた

 

ニュージャージーで結婚式に参列したときの写真。娘のクリスタルはいつも男の子っぽい服装を好んだけど、珍しく女の子らしい服

 

アメリカのドラマに登場しそうな広い芝生の庭に大きな家。写真に写っているのは娘のクリスタル・ケイと、愛犬のデューク

 

クリスタル・ケイが1歳のときに引っ越してきたという住宅地区は、根岸にあるアメリカ海軍の専用地

 

20歳ごろのシンシア。トニーがドライブデートの際に撮った写真。ファーに白のパンツやブーツという格好が懐かしく時代を物語る

 

横浜で歌っていたころのシンシア。『マジック』や『BarBarBar』などは業界関係者がよく出入りして、デビューの足がかりの場になっていた

 

ついに待望の女児を出産。3980gで「とにかく大きな子だった」というシンシア。健康に生まれてきてくれたことにホッとする

 

20歳くらいにフィルと付き合っていたころのシンシア。横須賀にあったバーガーショップ『アンディーズバーガー』で働いていた