'74年から始まったNHK音楽番組『レッツゴーヤング』が大人気のころ、番組内グループ『サンデーズ』のメンバーに。『たのきん』がいたジャニーズ事務所からの誘いを断って'82年にアイドル歌手としてデビューした後、役者でも活躍。今だから言えるアイドルだったときの本音と裏側、そして今年5月にケジメ婚をした胸中を聞いてみた―。
ジャニーズ事務所の偉い人からスカウト
「事実婚で22年間ですから、今さらいいんじゃないかって言われてました。でも、僕も60歳の還暦です。ケジメをつけるために、籍を入れることにしました」
5月8日、自身の誕生日に節目を祝うゴルフコンペで公開プロポーズした新田純一。お相手は2歳下の女性で、八代亜紀のヘアメイクを務める聡子さん。
「八代さんは妻に“籍は入れなくてもいいわよ”と言っていたそうです。僕の子どもは2人、妻のほうは1人。孫が2人。そういうので、籍を入れなかったのもあるんです」
“ケジメ婚”で新たな道を歩み始めた新田がデビューしたのは'82年。“花の82年組”と呼ばれるアイドル豊作の年だった。
「オーディション番組に合格して、どんどん勝ち抜いていったわけです。司会が、おりも政夫さんだったからか、グランドチャンピオン大会に行ったとき、ジャニーズ事務所の偉い人がスカウトに来て“純一クンには学園ドラマに出てもらって、3人組で売ろうと思っている”と言われて。
いま考えたら、それって『金八先生』の“たのきんトリオ”のことじゃんって(笑)。たぶん、トシちゃんかマッチかよっちゃんの誰かが、まだいなかったんでしょうね。もし僕が入っていたら、その中の1人になっていたんです」
たのきん入りを阻止したのは、トランペッターだった新田の父親だった。
「うちの親父が“ちょっと待て、芸能界で信頼できる人がいるから相談してみる”って。そうしたら“ジャニーズ事務所に入るよりも、まずは勉強するべきだ”って。そこで『日本テレビ音楽学院』に通うことになりました」
新田は'81年にNHKの音楽番組『レッツゴーヤング』に出演する歌手で結成された『サンデーズ』のメンバーに。翌'82年に『Hop・Step・愛(LOVE)』で歌手デビューした。
「ひかる一平くんや川崎麻世くんが一緒でした。実は今晩、川崎くんと飲みに行くんです(笑)。大先輩ですけど、当時はライバルというか、意識し合っていたというか。その後、お互い子どもができて、離婚もして。今は還暦の親父同士ですよ。なんか、いい仲です(笑)」
アイドル全盛期で歌番組も多く、1日2時間か3時間しか寝られなかったという。
「テレビ東京系の『おはようスタジオ』という朝の番組がキツかった。朝4時入りなんですよ。夜中2時ぐらいまでレコーディングやって、叩き起こされて……。そりゃ、声も出ないですよね」
'80年デビューの松田聖子が超絶人気を誇っていたころ。新田は、リハで彼女の生歌を聴けるのがうれしかった。
「忙しくて声がガサガサだったとき、聖子ちゃんに呼ばれたんです。“新田くん、これさ、私も喉がキツいとき飲むんだけど、楽になるかもよ”って薬をくれたんです。もらったけど結局、うれしすぎて1粒も飲めませんでした」
交際発覚後はファンにブロックで顔を殴られる
当時はルックスがマッチに似ていると言われたが、年齢は新田のほうが1つ上。
「でも、デビューは向こうが先で、ヒット曲もあるし、比べものにはならないですよ。実績が全然、違う。ライバルみたいな気持ちはあったけどかなうわけない。本人同士は、たまに会ったりしても別にどうってことはなかったですし」
営業で地方を回ることも多かった。
「アイドルって、ホテルに軟禁状態になっちゃうんですよ。夜ごはん食べたら、すぐ部屋に戻されて、明日の朝までにサイン何百枚書いとけって。普通の子みたいに、ドライブに出かけて、デートしたりとかできなかった。だけどマネージャーが全部、面倒を見てくれて、お金は使えた。そういう部分はよかった」
最初は月給7万円で、すぐに14、15万円もらえるように。給料は親に振り込まれ、自分が持てるのは小遣い程度。
「自由に使える時間も金もなくて、唯一解放される場所が明治大学付属中野高校でした。学校に行けばマネージャーの目から離れられる。行ったふりして実は行かない、みたいなことも(笑)」
忙しい中でも、アイドル同士の恋が芽生えた。
「それが知られてファンに襲われたことがあります。道端から急に6人出てきて、ブロックで顔を殴られました。肉がえぐれましたよ。公開ラジオの収録で、僕のネクタイが曲がっているのを彼女が直しに来てくれて、それを彼女の親衛隊が見てて“あの野郎!”となったらしいです」
アイドル同士の出会いの場として知られるのが『大磯ロングビーチ』で開かれていた芸能人の水泳大会。
「前乗りして、そこでイチャイチャしていた、みたいなことはありました。だけど、マネージャーの目の光り方は半端なかった。特に僕はマークされていて“新田純一に近寄らせるな”って指令が(笑)。必死になって手に入れた電話番号のメモが、プールに入って読めなくなったりしてね。どれだけ泣いたか……」
新田には硬派な“武勇伝”もある。
「『新宿音楽祭』の楽屋が、シブがき隊と尾形大作と相部屋になって。ふっくんが年下なのに“ダイサク~”って呼び捨てにしたら、尾形がブチギレ。3人を殴る蹴るの袋叩きにするから、必死で止めた。
『新春かくし芸大会』では尾形と竹本孝之が“福岡弁と長崎弁のどっちが強いか”で口論になってケンカ。そういうとき“新田、止めてくれ”と頼まれる(笑)。空手やっていたから強いと思われていたんでしょう」
事務所をクビになった理由
歌手として順調な滑り出しだったが、新田は突然アイドル活動を停止する。
「事務所をクビになったわけです。僕を応援してくれていたホストクラブの社長の奥さんとごはんを食べに行って、そのホストクラブが浅草にあるから行こうよとなって。そうなると“ちょっと歌ってよ”と言われるじゃないですか。1曲だけ歌ったら20万円ぐらいチップをもらえた。それがバレたんです」
事務所の庇護下から離れると、社会経験のない新田は生活に困ることに。
「21歳くらいでしたね。電車の乗り方も家賃についても知らなかった。電気代なんて払ったことないから、電気を止められたこともあります」
そこで俳優に転身。時代劇で活躍するように。
「紅白歌合戦の裏で放送されていた日本テレビ系の年末時代劇スペシャル『忠臣蔵』は里見浩太朗さんが主役。撮影は京都で、そうそうたる役者さんが出ていました。僕は時代劇なんかほとんどやったことないのに、まあまあ重要な役。
殺されることを覚悟して白装束を着て歩くシーンは何回やってもダメで……。NGを20回くらい出して、なんとかクリア。延々と走るシーンでは、マネージャーやプロデューサーから“このシーンがダメだったら東京に帰す”って言われて。必死になって走ったら、監督が“よかったよ、今の走り。涙した”と言ってくれたこともありました」
その翌年以降も『白虎隊』『田原坂』『五稜郭』に出演。『長七郎江戸日記』(日本テレビ系)、『あばれ八州御用旅』(テレビ東京系)、『暴れん坊将軍』(テレビ朝日系)などでレギュラーに。
「今は美容と健康と食育を総合的に学ぶファスティングマイスター学院の顧問として指導者をやっています。もちろん、歌やドラマのオファーがあればやりますよ。ただ、顧問としての立場がある中での二刀流というか。orじゃなく、andの生き方をしていけたらいいかなあ。2つ、3つを掛け持ち、そんな生き方ができたらおもしろいね」
“花の82年組”は還暦を過ぎて、ますます輝いている!