《小学校やめた次の日から代官山のディエゴっていう、マラドーナの下の名前みたいなおしゃれなカフェで働くんですよ。》(2018年2月13日配信、ウェブメディア『ジモコロ』インタビューより)
《28歳、未経験で本格的な料理の世界に飛び込む。最初に修業した神楽坂のイタリアンレストランの名店「DIRITTO」が、いまも鳥羽シェフの料理の“芯”になっているという。》(2021年11月30日配信、ウェブメディア『JBpress autogorah』インタビューより)
《「シオ」のオーナーシェフ鳥羽周作さんは言う。30歳まで小学校の教員をしていた。》(2020年5月12日配信、ウェブマガジン『料理王国』インタビューより)
《Jリーグの練習生、小学校の教員を経て、32歳で料理人の世界へ入門するという異色の経歴を持つ。》(2022年2月号、市役所運営の『戸田市情報ポータルサイト』より。とだPR大使任命時に)
《プロサッカー選手になることを諦め、先生になった。その後、鳥羽は料理の世界へとギアを変えた。27歳で料理の世界へ。》(2022年4月27日発売、鳥羽シェフの著作『本日も、満席御礼。』紹介ページより)
《Jリーグの練習生、小学校の教員を経て、31歳で料理の世界へ。》(2023年1月18日配信、『幸楽苑ホールディングス』のニュースリリースより。株式会社ユーグレナとの協業で鳥羽シェフ監修の『ビーガン餃子』販売)
以上は、レストラン『sio』のオーナーシェフ・鳥羽周作氏がメディアに対しインタビューで語っていたこと、および経歴の紹介文だ。
あまりに杜撰すぎる“設定”
広末涼子との“真剣”不倫愛とその発言によって炎上状態の鳥羽シェフ。
「鳥羽シェフは『ミシュランガイド東京2020』で1つ星を獲得。一気に名前が売れて、メディアにも取り上げられることが増えました。またコロナ禍でステイホーム中の人のためにとTwitterでハッシュタグ“#おうちでsio”でレシピ動画を公開がバズって連日メディアに取り上げられ、さらに人気を集めました」(飲食雑誌編集者)
だが、メディアに引っ張りだことなった彼が語ってきた内容は、記憶があいまい、抜け落ちてしまっているのか、はたまた“設定”を忘れてしまっているのか、あまりに杜撰だ。
●教員を辞め、最初に働き出したと語る店の名前がメディアによって異なる
●料理の道に飛び込んだ年齢が、27歳〜32歳までと幅がある
「飲食店関係者には、自分を“大きく”見せるために経歴を詐称、“盛る”人はいますが、ここまで話している内容にブレがある人は珍しいですね(苦笑)。“最初の店”ぐらいは固定しなければいけないと思いますが……。転職をくり返している人であれば、“転職したのは何歳のとき”と明確に覚えていない人もいるかもしれませんが、鳥羽シェフの場合は、教師から飲食へと人生をガラリと変える方向転換ですからね。それがここまでブレブレになるのは……」(前出・飲食雑誌編集者)
鳥羽シェフの言葉への“疑い”は飲食関係だけにとどまらない。
小学生の思い出エピソードも“盛った”?
《小学校5年生のときに静岡で大会があり、そのときに三浦知良選手がたまたま来ていて、一緒にお弁当を食べたんですね。当時クロアチアでプレーしていて、日本に帰ってきたばかりのカズさんはめちゃくちゃかっこよかった。》(2021年10月21日配信、『日本サッカー協会公式note』インタビューより)
「'78年生まれの鳥羽シェフが小学校5年生は'88年、もしくは'89年となります。そのときのカズさんはまだブラジルにいて帰国しておらず、読売クラブにも入っていない時代です。そしてカズさんがヴェルディ川崎から移籍し、クロアチアでプレーしたのは'99年のことです。このエピソード、鳥羽シェフが20歳くらいのときであれば辻褄が合うには合いますが、そのころにカズさんが一般の成人男性と弁当を一緒に食べるというのはありえないでしょう。カズさんは正月には地元の“初蹴り”に参加していますし、子どもと交流することはたびたびあります。'88年か'89年にカズさんがブラジルから一時帰国したときに……という話であれば可能性はありますが、クロアチアは結びつくわけはない」(サッカーライター)
日本サッカー協会もこの“間違い”に気づいていないのか……。
「鳥羽シェフは当時のエピソードとして、カズさんに“いつか一緒にプレーしたいです”と伝えると、“待ってるよ”という言葉をもらい、それが忘れられないと尊敬を語っています。サッカーファンとして本当にカズさんをリスペクトしているのであれば、絶対に嘘はつかないと思いたいですが……」(同・サッカーライター)
鳥羽シェフが“偽らない”のは、広末への思いだけか──。