「涙の数だけ強くなれるよ」。平成を代表する応援ソングのひとつ『TOMORROW』で1995年にデビューした、シンガー・ソングライターの岡本真夜。この曲は田中美佐子の主演ドラマ『セカンド・チャンス』(TBS系)の主題歌となり、第68回選抜高等学校野球大会の入場行進曲にも選ばれた。セールスは200万枚という大ヒットを記録し、同年の『第46回NHK紅白歌合戦』にも出場。岡本は一躍スターダムへとのし上がった。
3rdシングルのバラードナンバー『Alone』もロングセラーとなり、シンガー・ソングライターとして確固たる地位を確立する。
順風満帆ではなかった
岩崎宏美、沢田知可子、広末涼子、平原綾香などへの楽曲提供も手がけ、2016年からはピアニストとしても活動。さらに2022年からアイドルグループのプロデュースも開始した。
21歳でデビューしてから28年、こうして振り返ると順風満帆な音楽人生のように思える。しかし、岡本は長年、事務所とのいざこざや人間関係に悩まされてきて、「この年になって、やっと音楽だけに向き合える落ち着いた環境を手に入れました」と笑う。
そもそも始まりからして波乱含みだった。デビュー曲が『TOMORROW』に決まったことや大ヒットしたことは、岡本にとって予想外の出来事だったのだ。
「私はもともとバラードを歌いたくて、シンガー・ソングライターを目指しました。『TOMORROW』もミディアムバラードとして制作していたんです。でもドラマのプロデューサーから『アップテンポにしたものを主題歌として使いたい』とリクエストがあり、アレンジをガラリと変えて、完成したのが『TOMORROW』でした」
デビュー曲は5曲候補があり、岡本の中ではほかにイチオシの曲があったという。だから本人もスタッフも「『TOMORROW』だと売れないだろう」と思っていた。
しかし、思いもよらない大ヒットとなり、岡本真夜の名前が広く知られるようになる。大ヒットの裏側で、自分のイメージとは異なるアップテンポの曲調で、もてはやされることに岡本は違和感をぬぐえなかった。
「当時は自分の曲として受け入れられないというか。私らしい曲ではないのに、大ヒットして、代表曲としてとらえられてしまうことに何年も葛藤がありました。でも今はこの曲がなければ今がなかったと思っています」
さらにデビュー当初は「顔出しNG」とし、テレビ番組に登場することはなかった。『TOMORROW』のCDのジャケット写真も顔がわからないようになっている。雑誌や新聞の取材は受けていたが、写真は撮らせず、事務所が用意したアーティスト写真を使ってもらっていた。
「楽曲だけで勝負したいと思っていて、カメラも苦手だったので、メディアには出ないという約束でデビューさせてもらいました。でも、『TOMORROW』が大ヒットしたことで『生で歌っているのを聴きたい』という声が大きくなり、周りの大人たちの事情に巻き込まれて(笑)、仕方なく紅白歌合戦で初めて顔出しをしたんです。ライブをするのは好きなのですが、今もテレビに出るのは苦手ですね」
大黒摩季やZARDなど、当時はマーケティングの一環として、初めは顔を出さずにCDを売り出す方法もあったが、岡本の場合は本人の希望だったのだ。
求められるものと方向性の違いで苦しんだ
一方、この大ヒットの流れで、事務所やレコード会社からは「次も応援歌的な曲を」と求められる。岡本も努力して作詞・作曲に励んでいたが、自分が本当に歌いたいのはバラード曲。なかなか事務所の意向に沿う曲を生み出すことができなかった。
そのうち、あくまでもアーティストとして歩んでいきたい岡本と、ヒット路線を狙う事務所との間の溝が深まっていく。進みたい方向にいけないと感じた岡本は、事務所に「契約解除」を申し出るが、これが大きなトラブルへと発展してしまう。
「当時はまだ21歳で、私も上手に立ち回れなかったんです。簡単にはやめさせてもらえず、事務所のスタッフたちから叱咤されたり、親族からも『面倒を見てもらった事務所をやめるおまえが悪い』と責められて……。そして事務所問題がなぜか週刊誌に掲載され、記者が自宅前で張っていたりしたため、2か月家に帰れず、当時のレコード会社の社長が用意してくださったホテルで暮らしていました。孤独でしたね」
裁判にまで発展したが、レコード会社の社長が守ってくれたおかげでなんとか和解することができ、個人事務所を設立する。
そして3枚目のシングル『Alone』で念願のバラードを披露。このとき「やっとスタート地点に立てた」という幸福感に包まれたという。
その後は切ないラブソングの名手として、岡本は才能を発揮していく。
「『Alone』をリリースしてから、数えきれないくらいのファンレターをいただき、やっと認められたと安堵しました。私にとっては『Alone』が本当のデビュー曲という感覚です」
ただ、環境を変えてももめごとは続き、人間不信になることもあった。
「音楽を売っていく以上、自分が商品という立場でもあることは理解しています。ただ、お金儲けだけのために寄ってくる人や、お金が入ったことで変わってしまう人、岡本真夜の名前を自分のためだけに使いたい人たちをたくさん見てきて、人を信じられなくなりました。私はお金のためではなく、純粋に自分の思いを伝えるために音楽を作っていきたいのに……」
制作だけに集中できないもどかしさを抱えることが多かったが、「とにかくマイペースなところが長所であり短所」と岡本は自分を評する。
おとなしそうで穏やかな見た目と異なり、周囲に流されず、アーティストとしての自分を守るための選択をしていく。
「その分、悪く言われたり、あることないこと言われたりすることもありますけどね(笑)。商品ではあるけれど、操り人形ではないですし、自分で生み出した作品は自分で守りたいと思う。人に流された人生は後悔しか残らないので。
何度か、安定している大きな事務所に入ることも考えましたが、メリットがある反面、自分がやりたくないことのほうが増える気がして、結局、ずっと個人事務所でやってきました」
2022年末、自分のスタンスを理解してくれる事務所とスタッフに出会え、マネジメント業務委託という形で新たにスタートした。
「苦しい経験もしましたが、つらいことがあったほうがいい歌が書けたりもするんですよ」と逆境をバネにするたくましさも備えている岡本。
タレントの島崎和歌子はそんな岡本を「真夜ちゃんはまさに“はちきん”」と称する。
はちきんとは、土佐弁で“自立心の強い女性”を指す言葉だ。岡本、島崎ともに高知の出身で、2人に共通する県民性がまさに“はちきん”であった。
しつけの厳しい祖父母の養女として育つ
岡本は1974年、高知県四万十市で生まれた。日本屈指の清流として知られる四万十川が流れ、豊かな自然に恵まれた場所だ。
岡本の透明感ある歌声は、澄んだ四万十川の美しさに重なる。
両親の離婚によって、生まれてすぐに母方の祖父母に引き取られ、養女として育つ。父(祖父)は警察官、母(祖母)は教師で、しつけや勉強には厳しかったという。
「孫には甘いおじいちゃん、おばあちゃんは多いですが、うちは親代わりということで、まったく甘やかされませんでした。小・中学校時代は、人見知りが激しく、実の両親がいないということでいじめにもあいました。学校の書類に『養女』と書かれているのを隣の席の男の子に見られて、家庭環境をネタにされるようになったんです。運動会に祖父母しか来ないことをいじられたりもしました」
岡本がそんないじめを乗り越えられたのはピアノの存在が大きい。ピアノを弾いているときだけはイヤなことを忘れることができた。
「家は裕福ではありませんでしたが、中古のピアノを買ってくれて、小学校3年生から高校1年生まで習わせてくれました。つらいときは一日中、何時間でもピアノを弾いていましたね。ピアノは私にとっては空気のような存在で、なくてはならないものでした。ピアノに助けられてきたので、奏でる立場になった今は、ピアノの音が誰かの救いになればいいなと思って弾いています」
父は2007年に他界したが、母は100歳まで生き、2022年に亡くなった。
実の父親とは1年に一度、誕生日のときだけメールを送る仲だ。一方、実の母親とは音信不通だという。
「小さいころは1年に1回くらい実の両親に会うことがありましたが、友達のお父さんやお母さんくらいの距離を感じていました。養女というのがイヤで祖父母には反抗していた時期もありますが、愛情をたくさん注いで育ててくれたので、本当に感謝でいっぱいです」
将来は音大に進んでピアニストになるつもりだったが、高校1年生のときに聴いたDREAMS COME TRUEの『未来予想図II』に衝撃を受ける。吉田美和の歌に感動し、シンガー・ソングライターになることを夢見るようになった。
「それまで人前で歌うことは嫌いでしたが、ドリカムを聴いて、歌うことの素晴らしさを知ったんです。それからはピアノよりも歌に夢中になり、週に何度もカラオケボックスに通って歌っていました」
100曲の作詞・作曲を言い渡されて……
高校3年生のときに歌を吹き込んだカセットテープを最初の芸能事務所に送ったところ、「東京に来ないか」とスカウトされる。
芸能界という得体の知れない世界へ行くことに祖父母は猛反対したが、高校卒業後に家出同然で上京。アルバイトをしながら、作詞・作曲をし、ボイストレーニングを受け、デビューのチャンスを探っていた。
「事務所からはデビューの条件として、100曲の作詞・作曲を言い渡されました。それまで作詞・作曲の経験はなく、バイト生活で楽器もなかったのですが、とりあえず作曲入門といった本を買ってきて読んでみることに。でもコードのことしか書いてなくて、全然意味がわからずで(笑)。仕方なく思い浮かんだ鼻歌をカセットテープに吹き込んで、それをパズルみたいに組み合わせたら、なんとなく1曲できたのが始まりです」
結局100曲には届かなかったが、40曲を作り、鼻歌を音にしてもらった。するとプロデューサーが絶賛してくれ、その中の『TOMORROW』がデビュー曲として選ばれたのだ。『TOMORROW』の歌詞の背景には、いろいろと悩んでいたバイト仲間を励ましたいという思いがあった。また、育ての父の言葉もヒントになっている。
「家出同然で東京に飛び出した私に、父から手紙が届きました。そこには『やるからには頑張りなさい』『涙が多いのが人生だよ』と書かれていて……。苦労が多かった父の言葉が胸に響きました」
これが『TOMORROW』の印象的な歌詞「涙の数だけ強くなれるよ」につながっていく。
鼻歌で作曲ができ、多くの人の心を切なくさせる歌詞が作れる天性の才能の源は、どこにあるのだろうか。
「曲は頭の中にパッと浮かんだものを形にしています。歌詞は友達との何げない会話だったり、日常生活の中から生まれることが多いですね。実体験から書くということはそんなにはないんです(笑)」
もうひとつ、岡本にはアーティストならではの力が備わっていた。
「小さいころから、会う人の考えていることや生い立ちなどの背景を感じ取ることが好きでした。この力がもっと強ければ占い師になれたかもしれません(笑)。相談事などで、この人はこう言っているけれど、本当は違う思いなのだろうなと感じることが多くて。そんな思いを無意識にくみとって、歌で力づけたくて、歌詞が生まれていくこともあります」
結婚・出産・離婚を経てひとり暮らしを満喫
2000年に結婚し、男児が誕生。しかし、2013年に離婚し、シングルマザーとして息子を育ててきた。
「離婚の原因のひとつは私が仕事を優先しすぎたことにあると思います。ちょうどピアニストとして活動を始めたころで、原因はそれだけではないですが、お互いの愛情のバランスがとれなくなってしまって。息子が『高校を卒業するまで公表してほしくない』と言ったので、公表を控えていたのですが、なぜかメディアに出てしまい、息子を傷つけてしまいました……。息子に謝ったら、ひと言目に『お母さん、大丈夫?』と言われ泣いてしまいました。
その息子も成人し、今は家を離れているので、ひとり暮らしを満喫しています」
元夫とは円満な関係で、息子が20歳になるまでは年に1回は3人で食事をしていた。今も変わらず息子と連絡を取ってくれているという。
モノづくりが好きな岡本は、ひとりになったことで趣味の雑貨作りにも集中でき、作ったアクセサリーやポーチなどを販売することもある。
「息子が巣立って『寂しくない?』とよく聞かれますが、意外とドライなほうで、自由な時間が増えたことがうれしいんです。ペットのマンチカン(猫)のお世話もあり寂しいと思うヒマもありません。ひとりが快適すぎて、再婚はまったく考えられないです(笑)」
東日本大震災をきっかけにピアニストとしても活動
2016年にmayo名義でピアニストデビューを果たした岡本。「もっとピアノを弾きたい」と思うようになったのは東日本大震災がきっかけだった。
「被災者の皆さんを励ますためにイベントライブに参加しましたが、『まだ歌を受け入れられない人もいる』と言われたことにショックを受けました。複雑な思いのまま帰ってきたのですが、東北のニュースを見てピアノを触ったらメロディーが浮かんできたんです。傷つき、不安で眠れない日々を送っている人たちへ、歌ではなくピアノの優しい音色なら癒しを届けられるかもしれない。そう思って、ピアノの曲も作るようになりました」
子どものころに習っていたものの、技術的な自信が持てなかったので、ピアノの先生を探してレッスンを受けることに。その2年後に、全曲ピアノのオリジナルナンバーのアルバムを発表した。
「歌よりもピアノのほうが音域に縛りがなく、自由に自分の行きたいところに行けるのが好きです。私は譜面を書くのも見るのも苦手で、基本的に頭の中で曲を覚えて弾いて、自信がないところは自分だけにわかる記号でメモ書きをするというスタイルなんです」
親しい友人でもあるジャズピアニストの国府弘子は、岡本の音楽を「本当に心のあるピアノを弾く人。作詞・作曲のセンスもすごい」と評する。
「編曲家である私の夫と真夜さんが仕事をして、録音作業でわが家に来ているうちに私も仲よくなりました。だんだん夫抜きで女子会をするようになり、ステージはもちろん、大みそかやお誕生日を一緒に過ごしたりしています」(国府)
岡本真夜の友人が感動した逸話
国府が「なんて頑張り屋さんなんだろう」と感動した逸話がある。
「私のコンサートにゲスト参加してもらった際、たまには洋楽も歌わせちゃおうとボサノヴァの名曲『イパネマの娘』をお願いしました。英語の歌詞動画を送ったつもりが、うっかりミスで2番がポルトガル語版に。でも真夜さんは文句も言わず見事に歌ってくれたんです」(国府)
岡本のキャラクターについては「もの静かで聞き上手。決断力と行動力は想像をはるかに超えていて、私の100倍、決断が早い」と言う。
「真夜さんは人生を素敵に楽しむコツを知っている人。私のほうが年上なのに頼りにしています」(国府)
岡本自身も世間から見られるイメージと実際の自分とのギャップを感じることが多いという。
「レースのカーテンのある部屋で紅茶を飲んでいそうとか、フランス映画ばかり見ていそうとかよく言われます(笑)。でもまったくそんなことがなく、どちらかというと男っぽい性格だと思います」
岡本とは“はちきん”仲間である島崎和歌子も次のように話す。
「肝っ玉があるというか。大変なことがあっても全然めげずに自分の好きな道をいくところは高知の女性だなあと思います」(島崎)
2人が出会ったのはまだ20代前半のころ。同世代で同郷ということもあり、すぐに仲よくなった。
「高知の女性はお酒好き。私たちもご多分に漏れずで(笑)、2人で一緒に飲みに行きますね。最初はおとなしい人なのかなと思っていたのですが、明るくて社交的で、アーティストとしてのイメージと本人のギャップが結構ありました」(島崎)
一方で岡本の才能にはいつも驚かされている。
「学生時代の体験を歌詞にしたことがあると聞きましたが、同じ高知の田舎で過ごしていて、どこでそんなふうに思い描くことができるのか不思議でした。私も素敵な楽曲を提供してもらいましたが、感受性が豊かな人なんだなあと感動します。いつも高知に帰ったときは真夜ちゃんに『今、●●にいるよ』と連絡するんです。いつか高知で何か一緒にできたらいいねという話もしています」(島崎)
メニエール病で引退を考えたことも
音楽と真摯に向き合ってきた岡本だが、2010年ごろにメニエール病を発症し、音楽活動に支障をきたす。
「ある日、めまいで起きられなくなって、低い音も聞きづらくなりました。声も出なくなり、レコーディングもできなくなって『このままでは引退するしかない』と覚悟したんです」
ちょうどそのころ、中国・上海万博のPRソングが岡本の『そのままの君でいて』の盗作であることが判明し、日中で大騒動となる。
「『そのままの君でいて』は、恋愛に悩んでいた高校時代の親友を励ますために作った歌でした。私の『歌手になりたい』という夢を応援してくれたファン第1号が彼女で、彼女のために作った曲をとても喜んでくれたのを覚えています」
盗作騒動はワイドショーでも報道され、おかげで『そのままの君でいて』が改めて注目を浴びた。リリースから13年たってシングルチャートのトップ10入りを果たすという快挙も成し遂げた。
「その親友は26歳の若さで他界しています。私が病気で引退を考えているときに、『そのままの君でいて』が突然ヒットしたので、『彼女が天国から応援してくれているに違いない』と感じました」
岡本は引退を思いとどまり、その後、メニエール病は完治した。
「私がダウンすると、周りのスタッフにも大きな迷惑をかけてしまう。メニエール病はストレスによって再発する可能性があるので、ストレスをためないことを心がけるしかありません」
2013年には卵巣にチョコレート嚢腫が見つかり、翌年に手術を受けている。
「私は痛みに強いほうなんですが、下腹に我慢できないほどの激痛が走るようになったんです。検査を受けると右卵巣にチョコレート嚢腫があると診断され、直径7センチまで大きくなっていました。ライブが控えていたので、スケジュールが一段落ついた時期に手術を受ける予定でしたが、手術予定日の1か月ほど前に、かつてないほどの激痛に襲われて……。朦朧とした中、病院へ到着して検査してもらうと嚢腫が破裂していて、緊急手術に。いろいろと不調が出てくる年齢になったので、無理をしないよう気をつけています」
アイドルグループをプロデュース
2022年からは、新しい挑戦としてアイドルのプロデュースを行っている岡本。全国各地からオーディションによって選ばれた12人のメンバー構成で、岡本が名づけたグループ名は「milk&honey」(愛称:ミルハニ)だ。
「運営サイドから最初にお話をいただいたときはビックリしました。アイドルをテレビで見ることはあっても、詳しいわけではありません。でも、『岡本真夜の世界観が欲しい』と言われ、だったらできるかもしれないと思ったんです」
岡本がデビューしたのが21歳で、ちょうどメンバーも同じ年頃だ。
「当時感じていたことを思い出しながら、彼女たちと接する中で感じることを出していけばいいと考え、引き受けることにしました」
現在ミルハニは、岡本の曲をカバーしてライブを行っており、7月26日にメジャーデビューが決まっている。デビュー曲『DA・DA・DA』は岡本が作詞・作曲。シングル・アルバム曲すべて、岡本が書いていく。
「これまでも楽曲提供は行ってきましたが、提供相手だけの曲というより、『自分でも歌いたいな』と思える曲を提供することにこだわってきました。でもミルハニに対しては、完全に彼女たちのキャラクターを理解して、思い浮かんだものを曲にしています。アイドル曲の傾向をあえて研究したりはせず、流行も追わずに作っています」
しかし、実際にライブに足を運ぶと、アイドルグループならではの気づきもあった。
「ファンの方たちの“コール”を初めて生で聞いたときは衝撃でした。私の曲は音符が多いのですが、みんなで盛り上がってもらうために、コールを入れやすいシンプルな曲も今後作ろうと思っています」
岡本にとってメンバーは娘のような世代。「milk&honey」のリーダー・馬渕恭子は、岡本のことを「本当に母のような人」と語る。
「『TOMORROW』がヒットしたときはまだ生まれてないメンバーもいますが、もちろん歌は知っていました。最初はすごいアーティストさんのプロデュースということで緊張していましたが、一人ひとりを見てくれていて、不安を感じていると『大丈夫だよ』と声をかけてくれます。岡本さんの楽曲は歌うのがすごく難しいのですが、岡本さんの名前に恥じないアーティストとして活動していきたいです」
来年には50歳を迎え、作家として楽曲提供を増やしていきたいと思っていたときにスタートしたアイドルのプロデュース。
「引き受けた後に、運営サイドから『アイドルがヒット曲を出して成功すると、20年は続けないとダメですよ』と言われてビックリしました。20年後は70歳になっていますが(笑)、その前にヒットをさせなきゃというプレッシャーは半端ないですけれども、走り始めたので頑張ります」
デビューしたときからの「あまり表に出たくない」という思いは今も変わっておらず、裏方としてアイドルをプロデュースすることは向いているのかもしれない。
「今はミルハニを成功させることと、2年後のデビュー30周年イベントに向けて全力を注いでいきます」
色褪せない名曲と世代を超えて受け継がれていく岡本の音楽性。アーティスト・岡本真夜の挑戦は続いていく。
取材・文/垣内 栄
かきうち・さかえ IT企業、編集プロダクション、出版社を経て、'02年よりフリーライター・編集者として活動。女性誌、経済誌、企業誌、書籍、WEBと幅広い媒体で、企画・編集・取材・執筆を担当している。
撮影/山田智絵
撮影協力/銀座 飛雁閣